第23話
大型魔獣は、町へ向かっていた。
岩を思わせる分厚い皮膚。
黒く曲がった角。
前脚の一本をかばうように、重い体を引きずっている。
怒りで突進しているのではない。
痛みと焦りで、周りが見えなくなっているのだ。
その先には、荷置き場の影で震える幼い魔獣がいた。
親とはぐれたのだろう。
まだ角も短く、脚も細い。群れの地鳴りと人の声に怯え、積み上げられた木箱の隙間で動けなくなっている。
「子どもを保護して!」
ルシアが叫んだ。
だが、近くにいた兵士たちはすぐには動けなかった。
幼い魔獣とはいえ、野生魔獣だ。
不用意に近づけば噛まれる。
しかも親がこちらへ向かっている。
大型魔獣が吠えた。
地面が震える。
避難中の人々が悲鳴を上げ、荷馬車の移動用魔獣が暴れかける。
「町側の煙を弱めてください!」
ルシアは続けて叫んだ。
マグダレナが即座に振り返る。
「煙を弱める?」
「強すぎます! 親が子どもの匂いを追えなくなっています。だから余計に混乱してる!」
「聞こえたわね! 町側の苦煙草を半分に!」
兵士が走る。
けれど、大型魔獣の進みは止まらない。
脚を痛めているのに、それでも子どもへ向かおうとしている。
そのたびに、傷ついた脚から黒い痛みが広がっていくのが見えた。
ルシアの金の瞳が、強く揺れる。
「右前脚です。深く裂けてはいません。でも、石を踏んで腫れている。あのまま走らせたら折れるかもしれません」
「止められる?」
アルベルトが尋ねる。
「力で止めたら、暴れます」
ルシアは唇を噛んだ。
「子どもを見せて、安心させるしかありません」
「近づけるのか」
守備隊長の声が震える。
ルシアは幼い魔獣を見た。
金の視界に映るのは、恐怖。
空腹。
乾き。
母親の匂いを探す焦り。
この子もまた、襲うためにここにいるのではない。
迷い込んだだけだ。
「セシリア」
ルシアは妹を呼んだ。
「はい」
「幼い子の足元に、小さな傷があります。たぶん木箱の釘で切ってる。痛くて動けない」
セシリアの銀の瞳が、荷置き場の影へ向く。
「治せます」
「でも、正面から近づくと怖がらせる。左側から、ゆっくり。目を合わせすぎないで」
「分かりました」
セシリアはすぐに動いた。
「私も行きます」
レオンが前に出る。
「守ります」
「剣は抜かないでください」
セシリアは静かに言った。
「武器を見せたら、親が反応します」
レオンは一瞬だけためらい、それから剣に手をかけるのをやめた。
「承知しました」
セシリアは荷置き場へ向かった。
白い外套は泥で汚れ、裾も裂れている。
それでも、その背筋は真っ直ぐだった。
幼い魔獣が小さく鳴く。
大型魔獣が反応して、さらに速度を上げた。
「まだ駄目です!」
ルシアは叫ぶ。
「親の前に立たないで! 道を塞がないでください! 子どもへ向かう道を、町の外へつなげる形に!」
アルベルトが即座に命じる。
「防衛線を割れ! 町を守る壁ではなく、河原へ誘導する道を作れ!」
フランキス騎士たちが配置を変える。
槍を向けるのではなく、左右に開き、道を示す。
ヴァルミアのワイバーンが低空を旋回した。
威嚇ではなく、親魔獣が町の中心へ入らないよう、緩い弧を描いて進路を作る。
だが、大型魔獣はまだ混乱していた。
子どもの匂い。
煙。
人間。
痛み。
地鳴り。
全部が重なって、視界が狭くなっている。
ルシアは胸を押さえた。
見えすぎる。
親魔獣の痛みと恐怖が、波のように流れ込んでくる。
子を失う恐怖。
群れから遅れた焦り。
脚の痛み。
人間への警戒。
息が詰まる。
「ルシア!」
マグダレナの声が飛ぶ。
「無理をするなとは言わない。でも倒れるなら後にしなさい!」
「……はい」
乱暴な励ましだった。
けれど、その声でルシアは踏みとどまった。
倒れるのは後。
今は見る。
「セシリア、今!」
ルシアの声に、セシリアが幼い魔獣のそばへ膝をついた。
幼い魔獣は怯えて身を縮める。
だが、逃げない。逃げられない。
「大丈夫です」
セシリアの声は、とても柔らかかった。
「すぐに痛みを取ります」
銀の光が、小さな前脚を包む。
釘で裂けた傷が閉じていく。
炎症が引き、こわばっていた脚に力が戻る。
幼い魔獣が、震えながら立ち上がった。
「そのまま、河原側へ」
ルシアが指示する。
「親に見えるように。でも、抱えないで。自分で歩かせてください」
セシリアは頷き、幼い魔獣から少し距離を取る。
レオンが横で荷箱をどかし、河原側へ細い道を作った。
幼い魔獣は一歩踏み出した。
小さく鳴く。
大型魔獣が、ぴたりと止まった。
黒い瞳が、幼い個体を捉える。
周囲の兵士たちが息を止めた。
親魔獣の体から、殺気のようなものが少しずつ抜けていく。
代わりに流れ込んできたのは、安堵と痛みだった。
「今なら、町へは来ません」
ルシアは言った。
「でも脚が痛い。速くは歩けない。群れに戻れるよう、河原まで道を空けてください」
イレーネが叫ぶ。
「ワイバーン、上空で待機! 追い立てるな! 進路だけ示せ!」
マグダレナが飼育員に指示する。
「西の塩場へ水を追加。親子が通る道に人を立たせないで」
ノーマンが記録板を抱えて走りながら叫んだ。
「親子誘導、成功しそうです! たぶん! いや、成功させましょう!」
「実況はいらない!」
「了解!」
幼い魔獣は、ふらつきながら歩き出した。
セシリアが少し離れて見守る。
親魔獣が、その後を追う。
一歩。
また一歩。
傷ついた脚をかばいながら、それでも町ではなく、西の河原へ向かっていく。
町の人々は誰も声を出さなかった。
泣いている子どもも、母親に口を押さえられている。
兵士たちも、剣を抜かない。
ただ、道を空ける。
ルシアは金の瞳で、その流れを見続けた。
恐怖がほどけていく。
怒りではなく、警戒でもなく、子を見つけた安堵が親魔獣の中に広がっていく。
だが、まだ終わりではない。
群れ本体は西へ逸れたとはいえ、最後尾が乱れればまた町へ流れる。
「群れの後方、まだ押しています!」
高台の兵士が叫ぶ。
アルベルトが地図を見た。
「後方の岩皮獣か」
「道が狭いんです」
ルシアは山側を見た。
「西の河原へ下りる入口が狭い。後ろの子たちが詰まっています。焦ればまた町へ戻る」
「広げるか」
イレーネが言う。
「爆薬なら」
「駄目です」
ルシアとセシリアの声が重なった。
イレーネが目を瞬く。
ルシアは続ける。
「音で群れが崩れます」
セシリアも頷く。
「負傷した子たちが驚いて暴れます」
「ではどうする」
ルシアは地図を見る。
河原の手前に、古い荷馬車道がある。今は使われていない細道。草に埋もれているが、通れなくはないはず。
「ここを開けられますか」
守備隊長が覗き込む。
「古い道です。柵と古材置き場がありますが、壊せば通せる」
「音を立てすぎずに、開けてください」
マグダレナが即座に命じる。
「人手を回す。騒がず、速く」
テレジア兵たちが走った。
レオンも加わる。
剣ではなく、斧と手で柵を外していく。
誰も文句を言わない。
国も身分も関係なく、今はただ道を作っている。
その光景を見て、ルシアの胸が熱くなった。
これだ。
誰かが傷ついた後に癒やすだけではない。
誰かが壊れる前に、道を作る。
魔獣にも、人にも。
それが今、目の前で形になっている。
◇
やがて、古い荷馬車道が開いた。
後方の岩皮獣たちは、最初は迷っていた。
だが、西の河原から漂う塩と水の匂いが強くなると、少しずつそちらへ進路を変えた。
親魔獣と幼い魔獣も、河原の入口へ辿り着く。
親は一度だけ振り返った。
黒い瞳が、町を見た。
ルシアを見たのか。
セシリアを見たのか。
あるいはただ、匂いを確かめただけなのか。
分からない。
けれど、その体から敵意は消えていた。
親魔獣は幼い個体を鼻先で押し、群れの方へ歩いていった。
群れ全体が、西へ流れる。
リンドベルを避けて。
塩と水のある河原へ。
その先の、まだ残された森へ。
地鳴りが少しずつ遠ざかっていく。
町の上に、静けさが戻ってきた。
誰かが膝をついた。
別の誰かが、泣きながら笑った。
守備隊長が帽子を脱ぎ、深く息を吐く。
「……町は、守られた」
その声を合図にするように、人々の間から安堵の声が広がっていく。
歓声ではない。
けれど、生き延びた者たちの声だった。
セシリアが、ゆっくりルシアのそばへ戻ってくる。
顔色は少し悪い。
何度も聖眼を使ったせいだろう。
「大丈夫?」
ルシアが尋ねると、セシリアは小さく笑った。
「お姉様こそ」
「私は……少し、見すぎたかも」
「少しではないと思います」
妹らしい、少し怒った声だった。
その声に、ルシアは思わず笑いそうになる。
足元がふらついた。
セシリアがすぐに支える。
「ほら」
「ごめん」
「謝らないでください。支えますから」
その言葉に、ルシアは胸が詰まった。
昔は、自分がセシリアを守らなければと思っていた。
でも今は、違う。
支えられている。
マグダレナが近づいてきて、二人を見た。
「結論から言うわ。二人とも座りなさい」
「ですが、まだ確認が」
「座りなさい」
有無を言わせない声だった。
ノーマンが椅子代わりの木箱を運んでくる。
「銀と金の双聖女、強制着席です」
「その呼び方は」
ルシアが言いかける。
だが、周囲の人々がその言葉に反応した。
「銀と金……」
「さっきの光か」
「聖女様が二人で魔獣を止めたんだ」
「いや、止めたんじゃない。道を作った」
ざわめきが広がっていく。
セシリアが困ったようにルシアを見る。
ルシアも困った。
ただ、否定する言葉は出てこなかった。
自分一人ではなかった。
セシリア一人でもなかった。
二人でなければ、届かなかった。
そのことだけは、本当だったから。
アルベルトが遠くからこちらを見て、穏やかに微笑んだ。
イレーネは部下たちへ指示を飛ばしながらも、ふとこちらに敬礼した。
レオンは泥だらけになった手で、静かに胸に拳を当てた。
そして、町の人々が少しずつ頭を下げていく。
ルシアは言葉を失った。
欠陥聖女。
そう呼ばれていた自分が、今、見知らぬ町の人々から感謝されている。
嬉しさより先に、戸惑いが来る。
けれど、その戸惑いの奥に、確かな温かさがあった。
セシリアがそっと手を握る。
小さな手だった。
けれど、強かった。
「お姉様」
「うん」
「私たち、できましたね」
ルシアは、遠ざかっていく群れを見た。
被害はゼロではない。
すべてを完璧に救えたわけではない。
それでも、町は残った。
魔獣たちも、道を得た。
飛行魔獣たちは、無理に使い潰されずに済んだ。
できた。
その言葉を、少しだけ信じてもいい気がした。
「うん」
ルシアは静かに頷いた。
「できたね」
夕暮れの光が、谷の町を包んでいく。
銀の聖眼と、金の魔眼。
二つの光は、もう比べられるためのものではなかった。
並んで、道を照らすためのものだった。
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