第24話
リンドベルの町に夜が来た。
普段なら、交易町の夜は明るいという。
酒場には商人たちの声が満ち、荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、厩舎では移動用魔獣たちが鼻を鳴らす。三国の言葉が混じり、香辛料と干し肉と焼き菓子の匂いが路地に流れる。
けれど、その夜のリンドベルは静かだった。
壊れた柵。
踏み荒らされた畑の端。
泥にまみれた荷置き場。
広場に並べられた治療用の天幕。
町は守られた。
それでも、何もなかったわけではない。
ルシアは、臨時の治療天幕の隅で、温かい茶を両手で包んでいた。
手が少し震えている。
寒さのせいではない。
魔眼を使いすぎたせいだ。
見えたものが、まだ目の奥に残っている。
群れの恐怖。
親魔獣の痛み。
幼い個体の怯え。
塩を求める渇き。
帰る道を失った焦り。
それらが、まだ薄く胸の中でざわめいていた。
「飲んで」
マグダレナが、目の前に別の杯を置いた。
「これは?」
「甘い薬湯。目の使いすぎに効くかは知らないけど、倒れた人間には温かいものが必要」
「倒れてはいません」
「倒れる一歩手前だったわ」
きっぱり言われ、ルシアは何も返せなかった。
ノーマンが横から顔を出す。
「記録上は、ふらつき三回、顔色不良、返答遅れ二回です」
「記録しないでください」
「正式記録には載せません。健康管理記録には載せます」
「それは載せるのですか」
「ルシア殿を次も使い潰さないためです」
ノーマンの声は、珍しく真面目だった。
ルシアは杯を見下ろした。
使い潰さない。
その言葉に、胸の奥が小さく痛む。
フランキスに来るまで、ルシアは自分自身をそう扱っていたのかもしれない。
役に立つなら、多少無理をしてもいい。
誰にも求められないなら、せめて結果だけは出さなければいけない。
けれど今、その考えを周囲が許してくれない。
それが、少しだけ照れくさく、少しだけ温かかった。
天幕の入口が揺れ、セシリアが入ってきた。
白い外套はすでに泥を落とされているが、裾のところにはまだ薄い汚れが残っている。銀の瞳の光は落ち着いていたが、顔には疲れが見えた。
「セシリア」
「お姉様、起きていて大丈夫ですか」
「それは私の台詞だよ」
そう言うと、セシリアは少しだけ笑った。
だが、すぐ真面目な顔になる。
「負傷者の処置は終わりました。重傷者はいません。移動用魔獣の脚も、ひとまず安定しています」
「よかった」
「でも、明日もう一度診ます。傷は塞がっても、怖がって食べない子がいますから」
その言葉に、ルシアは顔を上げた。
セシリアは、少し恥ずかしそうに続ける。
「お姉様なら、きっとそこまで見ると思って」
ルシアは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「うん。見ると思う」
「では、私も見ます」
セシリアはそう言って、ルシアの隣に腰を下ろした。
姉妹が並ぶ。
昔は、隣に並ぶだけで周囲の視線が違った。
銀の聖眼を持つ妹。
聖眼を持たない姉。
比べられるための並びだった。
でも今は違う。
同じ天幕の中で、同じ魔獣の記録を見て、同じ傷の先を考えている。
その違いが、ルシアには不思議だった。
◇
翌朝、ルシアたちは西の河原へ向かった。
群れはすでにさらに山裾の森へ移動していたが、河原には痕跡が残っている。
濡れた岩塩。
踏み固められた泥。
大きな足跡と、小さな足跡。
水桶はほとんど空になっていた。
そして、少し離れた場所に、親魔獣と幼い魔獣が通った跡があった。
親の右前脚の跡は深く、少し歪んでいる。
幼い個体の足跡は、その内側に寄り添うようについていた。
「戻れたんですね」
セシリアが小さく言った。
「うん」
ルシアはしゃがみ込み、足跡を見た。
まだ痛みはある。
けれど、走ってはいない。
ゆっくり、子どもに合わせて歩いた跡だった。
「この辺りを、今後の誘導路にできるかもしれません」
アルベルトが地図を広げながら言った。
「町を避け、河原を通り、森へ抜ける。塩場と水場を整えれば、群れは自然にこちらを選ぶ可能性がある」
イレーネが頷く。
「ヴァルミア側も協力します。山道の上側に、見張りと誘導香を置きましょう。群れが町へ流れる前に方向を変えられる」
「テレジア側は、開拓地の獣道を塞いでいる土砂と丸太を除く必要があります」
セシリアが言った。
「元の道を全て戻すのは難しくても、少なくとも群れが迷わず抜けられる通り道は必要です」
その言葉に、テレジアの文官が顔をしかめる。
「しかし、開拓工事の計画が」
「計画は変えるものよ」
マグダレナが即座に言った。
「変えない計画なら、現場を見る意味がないわ」
文官は黙った。
ルシアは地図へ視線を落とす。
ここに線を引く。
魔獣が通っていい道。
人里へ近づかない道。
水場と塩場と薬草を残す道。
それは、単なる防衛線ではない。
人と魔獣がぶつからずに済むための境界だった。
「境界線ではなく、通り道ですね」
ルシアが呟くと、アルベルトがこちらを見た。
「良い言い方だ」
「人のために魔獣を追い払うだけでは、また別の場所でぶつかります。通っていい場所を残さないと」
「つまり、討伐政策ではなく誘導政策か」
「はい。少なくとも、全部を討つ必要はないと思います」
イレーネが静かに言った。
「ヴァルミアでは、これまで危険群は即時威嚇か討伐が基本でした。けれど昨日のように、必要なものが分かれば進路を変えられる」
「もちろん、全ての魔獣がそうとは限りません」
ルシアは急いで付け加えた。
「本当に危険な個体もいると思います。けれど、全部を同じに扱うと、余計に混乱させてしまいます」
マグダレナが頷く。
「結論から言うわ。分類が必要ね」
「分類?」
「討伐対象、誘導対象、保護対象、経過観察対象。ひとまとめに“魔獣被害”で片づけない」
ノーマンが記録板を掲げる。
「分類表、作ります。ついに紙が世界を救う時代です」
「紙だけでは救わないわ」
「分かっています。紙と現場と胃に優しい餌です」
セシリアが思わず笑った。
ルシアも、少しだけ笑った。
笑える。
昨日、あれだけの危機があったのに、今は笑える。
それは、全部が終わったからではない。
次に何をすべきかが、少し見えたからだ。
◇
その日の午後、リンドベルの町役場で臨時協議が開かれた。
三国の代表者たちが、長机を囲む。
フランキスからはアルベルトとマグダレナ。
ヴァルミアからはイレーネ。
テレジアからは王都から派遣された文官と、聖女セシリア。
そして、専門職としてルシア。
町の代表者も同席していた。
昨日までは不安と混乱の中心だった町役場に、今は地図と記録が並んでいる。
ルシアは、その中央に立った。
緊張で手が冷える。
人前で話すのは得意ではない。
まして三国の代表がいる場など、以前なら考えただけで声が出なかっただろう。
けれど、机の上には記録がある。
見たものがある。
助けた命がある。
それが、ほんの少し背中を支えてくれた。
「今回の群れは、町を攻撃する目的で動いていたのではないと思います」
ルシアは、地図の上に印を置いた。
「山岳開拓地で、水場、塩場、獣道、薬草群生地が複数失われました。そのため、魔獣の群れは移動せざるを得なくなった。移動の先にリンドベルがあり、さらに町の北倉庫に塩の備蓄があったことで、群れが引き寄せられました」
町長が顔を青くする。
「では、我々が塩を蓄えていたせいで?」
「塩の備蓄自体が悪いわけではありません」
ルシアは首を振った。
「匂いが漏れ、ほかに塩を得られる場所がなかったことが問題です。町の外に誘導用の塩場を置き、倉庫の匂いを管理すれば、同じことは防げる可能性があります」
町長は少しだけ肩の力を抜いた。
テレジア文官が尋ねる。
「開拓を止めろということですか」
「全てを止めろとは言いません」
ルシアは静かに答えた。
「でも、魔獣の通り道と水場を調べずに進めれば、別の場所で同じことが起きます」
マグダレナが補足する。
「開拓前の魔獣生息調査を義務化。水場と薬草群生地の保全。獣道の代替路設定。これが最低条件ね」
ノーマンが横で紙束を置いた。
「加えて、軍用魔獣の運用記録も三国で共有する必要があります。出撃回数、食事、休養、翼や脚の不調。守る側が壊れたら、次の災害で終わります」
イレーネが頷く。
「ヴァルミアは賛成します。ワイバーン部隊にも観察記録を導入する」
アルベルトも続ける。
「フランキスも、飛行魔獣運用の見直しを正式化する。迎撃だけでなく、誘導と監視を任務に加える」
視線がテレジア側へ集まる。
文官は難しい顔をした。
「本国へ持ち帰り、陛下へ報告します」
その言い方に、マグダレナの眉がわずかに動いた。
だが、その前にセシリアが口を開いた。
「私からも、陛下へ直接報告します」
テレジア文官が驚いて振り返る。
「聖女様」
「これは人と魔獣の傷に関わることです。聖女として、無関係ではありません」
セシリアの銀の瞳は穏やかだった。
けれど、退く気配はなかった。
「そして、姉の仕事を“雑務”として扱ってきた結果でもあります。テレジアは、それを認めて変えなければなりません」
会議室が静かになった。
ルシアは妹を見た。
胸が熱くなる。
セシリアは、もうルシアをただ守ろうとしているのではない。
自分の国を、自分の立場で変えようとしている。
その姿は、眩しかった。
◇
夕暮れ前、臨時協議の結果として、三国は暫定的な合意を結んだ。
正式な条約ではない。
だが、今すぐ動くための約束だった。
一、リンドベル西河原を暫定誘導地として整備すること。
二、北倉庫の塩備蓄は匂い管理を徹底すること。
三、テレジア側開拓地の獣道と水場を再調査すること。
四、三国の軍用魔獣に共通の観察記録を導入すること。
五、魔獣の移動経路を討伐対象としてではなく、誘導・保護の対象として調査すること。
ノーマンはそれを読み上げながら、満足そうに頷いた。
「紙が増えましたね」
「嬉しそうね」
マグダレナが言う。
「紙が増えるということは、見落としが減る可能性が増えるということです」
「たまに本当に良いことを言うわね」
「本日二度目です。評価上昇を感じます」
「調子に乗らない」
ルシアは、そのやり取りを聞きながら窓の外を見た。
リンドベルの町では、壊れた柵を直す人々がいる。
西の河原では、兵士たちが新しい水桶を設置している。
遠くの森へ向かう魔獣の群れは、もう見えない。
けれど、道は残った。
人が勝ったのではない。
魔獣が負けたのでもない。
ぶつからずに済む道を、辛うじて作れた。
それは、ルシアにとって何より大きな成果だった。
セシリアが隣に立つ。
「お姉様」
「うん」
「リンドベルの人たちが、お礼を言いたいそうです」
「え?」
ルシアは思わず振り返った。
「お礼、ですか」
「はい」
「でも、私は」
「お姉様」
セシリアが少しだけ困ったように笑った。
「たぶん、それを言っても止まりません」
その言葉通りだった。
町役場の外へ出ると、広場には人々が集まっていた。
町長。
商人。
騎士。
子どもを抱いた母親。
移動用魔獣の手綱を持つ少年。
彼らは、ルシアとセシリアを見ると、自然と頭を下げた。
「ありがとうございました」
誰かが言った。
それに続くように、あちこちから声が上がる。
「町を守ってくださって」
「魔獣も、殺さずに済んだ」
「うちの荷馬車の子を治してくれてありがとう」
「道を作ってくれたんだ」
ルシアは、立ち尽くした。
感謝されることに慣れていない。
しかも、こんなにたくさんの人に。
隣でセシリアも少し戸惑っている。
その時、広場の端から子どもの声がした。
「銀と金の聖女様!」
ルシアとセシリアは同時に肩を揺らした。
ノーマンが背後で小さく呟く。
「広まりましたね」
「ノーマン様」
セシリアが困った声を出す。
「私は何もしていません。噂は自走します」
マグダレナが腕を組む。
「諦めなさいと言ったでしょう」
「でも、私は聖女ではなく薬剤師で」
「町の人にとっては、どちらでもいいのよ」
マグダレナは言った。
「救われた人間は、名前をつけたがるものだから」
ルシアは広場を見る。
銀と金の聖女様。
双聖女。
大げさな呼び名だ。
自分には似合わない。
けれど、そこに嘲りはない。
蔑みもない。
あるのは、ただ感謝だった。
セシリアがそっとルシアの手を握った。
「お姉様」
「うん」
「一緒に、頭を下げましょう」
ルシアは少しだけ息を吸い、頷いた。
二人は並んで、町の人々へ頭を下げた。
銀の聖眼と、金の魔眼。
癒やす目と、見抜く目。
二つの光を持つ姉妹は、その日、リンドベルの町で初めて多くの人々から同じ名で呼ばれた。
銀と金の双聖女、と。
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