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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第3章 銀と金の双聖女

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第24話

 リンドベルの町に夜が来た。


 普段なら、交易町の夜は明るいという。


 酒場には商人たちの声が満ち、荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、厩舎では移動用魔獣たちが鼻を鳴らす。三国の言葉が混じり、香辛料と干し肉と焼き菓子の匂いが路地に流れる。


 けれど、その夜のリンドベルは静かだった。


 壊れた柵。

 踏み荒らされた畑の端。

 泥にまみれた荷置き場。

 広場に並べられた治療用の天幕。


 町は守られた。

 それでも、何もなかったわけではない。


 ルシアは、臨時の治療天幕の隅で、温かい茶を両手で包んでいた。


 手が少し震えている。


 寒さのせいではない。

 魔眼を使いすぎたせいだ。


 見えたものが、まだ目の奥に残っている。


 群れの恐怖。

 親魔獣の痛み。

 幼い個体の怯え。

 塩を求める渇き。

 帰る道を失った焦り。


 それらが、まだ薄く胸の中でざわめいていた。


「飲んで」


 マグダレナが、目の前に別の杯を置いた。


「これは?」


「甘い薬湯。目の使いすぎに効くかは知らないけど、倒れた人間には温かいものが必要」


「倒れてはいません」


「倒れる一歩手前だったわ」


 きっぱり言われ、ルシアは何も返せなかった。


 ノーマンが横から顔を出す。


「記録上は、ふらつき三回、顔色不良、返答遅れ二回です」


「記録しないでください」


「正式記録には載せません。健康管理記録には載せます」


「それは載せるのですか」


「ルシア殿を次も使い潰さないためです」


 ノーマンの声は、珍しく真面目だった。


 ルシアは杯を見下ろした。


 使い潰さない。


 その言葉に、胸の奥が小さく痛む。


 フランキスに来るまで、ルシアは自分自身をそう扱っていたのかもしれない。

 役に立つなら、多少無理をしてもいい。

 誰にも求められないなら、せめて結果だけは出さなければいけない。


 けれど今、その考えを周囲が許してくれない。


 それが、少しだけ照れくさく、少しだけ温かかった。


 天幕の入口が揺れ、セシリアが入ってきた。


 白い外套はすでに泥を落とされているが、裾のところにはまだ薄い汚れが残っている。銀の瞳の光は落ち着いていたが、顔には疲れが見えた。


「セシリア」


「お姉様、起きていて大丈夫ですか」


「それは私の台詞だよ」


 そう言うと、セシリアは少しだけ笑った。


 だが、すぐ真面目な顔になる。


「負傷者の処置は終わりました。重傷者はいません。移動用魔獣の脚も、ひとまず安定しています」


「よかった」


「でも、明日もう一度診ます。傷は塞がっても、怖がって食べない子がいますから」


 その言葉に、ルシアは顔を上げた。


 セシリアは、少し恥ずかしそうに続ける。


「お姉様なら、きっとそこまで見ると思って」


 ルシアは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


「うん。見ると思う」


「では、私も見ます」


 セシリアはそう言って、ルシアの隣に腰を下ろした。


 姉妹が並ぶ。


 昔は、隣に並ぶだけで周囲の視線が違った。


 銀の聖眼を持つ妹。

 聖眼を持たない姉。


 比べられるための並びだった。


 でも今は違う。


 同じ天幕の中で、同じ魔獣の記録を見て、同じ傷の先を考えている。


 その違いが、ルシアには不思議だった。


     ◇


 翌朝、ルシアたちは西の河原へ向かった。


 群れはすでにさらに山裾の森へ移動していたが、河原には痕跡が残っている。


 濡れた岩塩。

 踏み固められた泥。

 大きな足跡と、小さな足跡。

 水桶はほとんど空になっていた。


 そして、少し離れた場所に、親魔獣と幼い魔獣が通った跡があった。


 親の右前脚の跡は深く、少し歪んでいる。

 幼い個体の足跡は、その内側に寄り添うようについていた。


「戻れたんですね」


 セシリアが小さく言った。


「うん」


 ルシアはしゃがみ込み、足跡を見た。


 まだ痛みはある。

 けれど、走ってはいない。

 ゆっくり、子どもに合わせて歩いた跡だった。


「この辺りを、今後の誘導路にできるかもしれません」


 アルベルトが地図を広げながら言った。


「町を避け、河原を通り、森へ抜ける。塩場と水場を整えれば、群れは自然にこちらを選ぶ可能性がある」


 イレーネが頷く。


「ヴァルミア側も協力します。山道の上側に、見張りと誘導香を置きましょう。群れが町へ流れる前に方向を変えられる」


「テレジア側は、開拓地の獣道を塞いでいる土砂と丸太を除く必要があります」


 セシリアが言った。


「元の道を全て戻すのは難しくても、少なくとも群れが迷わず抜けられる通り道は必要です」


 その言葉に、テレジアの文官が顔をしかめる。


「しかし、開拓工事の計画が」


「計画は変えるものよ」


 マグダレナが即座に言った。


「変えない計画なら、現場を見る意味がないわ」


 文官は黙った。


 ルシアは地図へ視線を落とす。


 ここに線を引く。


 魔獣が通っていい道。

 人里へ近づかない道。

 水場と塩場と薬草を残す道。


 それは、単なる防衛線ではない。


 人と魔獣がぶつからずに済むための境界だった。


「境界線ではなく、通り道ですね」


 ルシアが呟くと、アルベルトがこちらを見た。


「良い言い方だ」


「人のために魔獣を追い払うだけでは、また別の場所でぶつかります。通っていい場所を残さないと」


「つまり、討伐政策ではなく誘導政策か」


「はい。少なくとも、全部を討つ必要はないと思います」


 イレーネが静かに言った。


「ヴァルミアでは、これまで危険群は即時威嚇か討伐が基本でした。けれど昨日のように、必要なものが分かれば進路を変えられる」


「もちろん、全ての魔獣がそうとは限りません」


 ルシアは急いで付け加えた。


「本当に危険な個体もいると思います。けれど、全部を同じに扱うと、余計に混乱させてしまいます」


 マグダレナが頷く。


「結論から言うわ。分類が必要ね」


「分類?」


「討伐対象、誘導対象、保護対象、経過観察対象。ひとまとめに“魔獣被害”で片づけない」


 ノーマンが記録板を掲げる。


「分類表、作ります。ついに紙が世界を救う時代です」


「紙だけでは救わないわ」


「分かっています。紙と現場と胃に優しい餌です」


 セシリアが思わず笑った。


 ルシアも、少しだけ笑った。


 笑える。


 昨日、あれだけの危機があったのに、今は笑える。

 それは、全部が終わったからではない。


 次に何をすべきかが、少し見えたからだ。


     ◇


 その日の午後、リンドベルの町役場で臨時協議が開かれた。


 三国の代表者たちが、長机を囲む。


 フランキスからはアルベルトとマグダレナ。

 ヴァルミアからはイレーネ。

 テレジアからは王都から派遣された文官と、聖女セシリア。

 そして、専門職としてルシア。


 町の代表者も同席していた。


 昨日までは不安と混乱の中心だった町役場に、今は地図と記録が並んでいる。


 ルシアは、その中央に立った。


 緊張で手が冷える。


 人前で話すのは得意ではない。

 まして三国の代表がいる場など、以前なら考えただけで声が出なかっただろう。


 けれど、机の上には記録がある。

 見たものがある。

 助けた命がある。


 それが、ほんの少し背中を支えてくれた。


「今回の群れは、町を攻撃する目的で動いていたのではないと思います」


 ルシアは、地図の上に印を置いた。


「山岳開拓地で、水場、塩場、獣道、薬草群生地が複数失われました。そのため、魔獣の群れは移動せざるを得なくなった。移動の先にリンドベルがあり、さらに町の北倉庫に塩の備蓄があったことで、群れが引き寄せられました」


 町長が顔を青くする。


「では、我々が塩を蓄えていたせいで?」


「塩の備蓄自体が悪いわけではありません」


 ルシアは首を振った。


「匂いが漏れ、ほかに塩を得られる場所がなかったことが問題です。町の外に誘導用の塩場を置き、倉庫の匂いを管理すれば、同じことは防げる可能性があります」


 町長は少しだけ肩の力を抜いた。


 テレジア文官が尋ねる。


「開拓を止めろということですか」


「全てを止めろとは言いません」


 ルシアは静かに答えた。


「でも、魔獣の通り道と水場を調べずに進めれば、別の場所で同じことが起きます」


 マグダレナが補足する。


「開拓前の魔獣生息調査を義務化。水場と薬草群生地の保全。獣道の代替路設定。これが最低条件ね」


 ノーマンが横で紙束を置いた。


「加えて、軍用魔獣の運用記録も三国で共有する必要があります。出撃回数、食事、休養、翼や脚の不調。守る側が壊れたら、次の災害で終わります」


 イレーネが頷く。


「ヴァルミアは賛成します。ワイバーン部隊にも観察記録を導入する」


 アルベルトも続ける。


「フランキスも、飛行魔獣運用の見直しを正式化する。迎撃だけでなく、誘導と監視を任務に加える」


 視線がテレジア側へ集まる。


 文官は難しい顔をした。


「本国へ持ち帰り、陛下へ報告します」


 その言い方に、マグダレナの眉がわずかに動いた。


 だが、その前にセシリアが口を開いた。


「私からも、陛下へ直接報告します」


 テレジア文官が驚いて振り返る。


「聖女様」


「これは人と魔獣の傷に関わることです。聖女として、無関係ではありません」


 セシリアの銀の瞳は穏やかだった。


 けれど、退く気配はなかった。


「そして、姉の仕事を“雑務”として扱ってきた結果でもあります。テレジアは、それを認めて変えなければなりません」


 会議室が静かになった。


 ルシアは妹を見た。


 胸が熱くなる。


 セシリアは、もうルシアをただ守ろうとしているのではない。

 自分の国を、自分の立場で変えようとしている。


 その姿は、眩しかった。


     ◇


 夕暮れ前、臨時協議の結果として、三国は暫定的な合意を結んだ。


 正式な条約ではない。


 だが、今すぐ動くための約束だった。


 一、リンドベル西河原を暫定誘導地として整備すること。

 二、北倉庫の塩備蓄は匂い管理を徹底すること。

 三、テレジア側開拓地の獣道と水場を再調査すること。

 四、三国の軍用魔獣に共通の観察記録を導入すること。

 五、魔獣の移動経路を討伐対象としてではなく、誘導・保護の対象として調査すること。


 ノーマンはそれを読み上げながら、満足そうに頷いた。


「紙が増えましたね」


「嬉しそうね」


 マグダレナが言う。


「紙が増えるということは、見落としが減る可能性が増えるということです」


「たまに本当に良いことを言うわね」


「本日二度目です。評価上昇を感じます」


「調子に乗らない」


 ルシアは、そのやり取りを聞きながら窓の外を見た。


 リンドベルの町では、壊れた柵を直す人々がいる。

 西の河原では、兵士たちが新しい水桶を設置している。

 遠くの森へ向かう魔獣の群れは、もう見えない。


 けれど、道は残った。


 人が勝ったのではない。

 魔獣が負けたのでもない。


 ぶつからずに済む道を、辛うじて作れた。


 それは、ルシアにとって何より大きな成果だった。


 セシリアが隣に立つ。


「お姉様」


「うん」


「リンドベルの人たちが、お礼を言いたいそうです」


「え?」


 ルシアは思わず振り返った。


「お礼、ですか」


「はい」


「でも、私は」


「お姉様」


 セシリアが少しだけ困ったように笑った。


「たぶん、それを言っても止まりません」


 その言葉通りだった。


 町役場の外へ出ると、広場には人々が集まっていた。


 町長。

 商人。

 騎士。

 子どもを抱いた母親。

 移動用魔獣の手綱を持つ少年。


 彼らは、ルシアとセシリアを見ると、自然と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 誰かが言った。


 それに続くように、あちこちから声が上がる。


「町を守ってくださって」

「魔獣も、殺さずに済んだ」

「うちの荷馬車の子を治してくれてありがとう」

「道を作ってくれたんだ」


 ルシアは、立ち尽くした。


 感謝されることに慣れていない。


 しかも、こんなにたくさんの人に。


 隣でセシリアも少し戸惑っている。


 その時、広場の端から子どもの声がした。


「銀と金の聖女様!」


 ルシアとセシリアは同時に肩を揺らした。


 ノーマンが背後で小さく呟く。


「広まりましたね」


「ノーマン様」


 セシリアが困った声を出す。


「私は何もしていません。噂は自走します」


 マグダレナが腕を組む。


「諦めなさいと言ったでしょう」


「でも、私は聖女ではなく薬剤師で」


「町の人にとっては、どちらでもいいのよ」


 マグダレナは言った。


「救われた人間は、名前をつけたがるものだから」


 ルシアは広場を見る。


 銀と金の聖女様。

 双聖女。


 大げさな呼び名だ。

 自分には似合わない。


 けれど、そこに嘲りはない。

 蔑みもない。


 あるのは、ただ感謝だった。


 セシリアがそっとルシアの手を握った。


「お姉様」


「うん」


「一緒に、頭を下げましょう」


 ルシアは少しだけ息を吸い、頷いた。


 二人は並んで、町の人々へ頭を下げた。


 銀の聖眼と、金の魔眼。


 癒やす目と、見抜く目。


 二つの光を持つ姉妹は、その日、リンドベルの町で初めて多くの人々から同じ名で呼ばれた。


 銀と金の双聖女、と。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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