第22話
三国共同調査団が最初に向かったのは、テレジア王国北西部の開拓地だった。
王都から馬車で二日。
そこは、地図の上では新街道予定地と記されている場所だった。
だが、実際に目にした景色は、ルシアが想像していたものよりずっと荒々しかった。
森が、途中で断ち切られている。
木々は根元から伐られ、太い幹が道の端に積み上げられていた。土は掘り返され、岩肌が剥き出しになり、ところどころに作業小屋が建っている。
人の手で、無理やり道を通した場所。
そう感じた。
ルシアは馬車を降り、足元の土を見た。
乾いている。
表面は硬いのに、少し踏み込むと崩れる。
草の根が少ない。雨が降れば流れやすい土だ。
森だった頃には、きっと違ったのだろう。
「……ここが、魔獣の移動経路の起点ですか」
セシリアが隣で呟く。
白い聖女の外套ではなく、今日は動きやすい旅装だった。だが腰には治療用の小箱を下げ、銀の聖眼はいつでも使えるようにしている。
ルシアは頷いた。
「記録上は、この辺りから群れの目撃が増えています」
前方では、テレジアの開拓責任者が早口で説明していた。
「もちろん、正式な認可を受けた開拓です。街道が通れば物流は改善し、辺境の村にも物資が届きやすくなります。鉱山も国益に関わる重要事業でして」
「結論から言うわ」
マグダレナが説明を遮った。
「街道の意義を聞きに来たのではないわ。魔獣がなぜ動いたかを見に来たの」
責任者は一瞬詰まった。
「そ、それについては、魔獣の習性による自然移動の可能性も」
「自然移動なら、三国同時に軍用魔獣の不調が増えた理由も説明して」
「それは……」
「数字で」
マグダレナの声は低い。
責任者は黙った。
ノーマンが後ろで小さく呟く。
「施設長の“数字で”は、だいたい逃げ道の扉を閉める音です」
「ノーマン」
「はい、心の記録に留めます」
ルシアは少しだけ息を吐いた。
緊張した場に、ほんの少しだけ空気が通る。
だが、視線を森へ戻すと、胸はまた重くなった。
ここには何かがない。
木々だけではない。
草も、匂いも、水の気配も薄い。
ルシアの碧眼が、静かに金色へ変わる。
世界の輪郭が沈み、土地に残った痕跡が淡く浮かび上がった。
地面に残る蹄の跡。
爪が引っかいた岩。
折れた枝。
踏み荒らされた低木。
乾いた沢。
そして、いくつもの魔獣の気配。
恐怖。
空腹。
警戒。
水を探して歩き回った焦り。
幼い個体を守ろうとして進路を変えた群れの乱れ。
ルシアは無意識に胸元を押さえた。
これは襲撃の痕ではない。
追われた跡だ。
「お姉様?」
セシリアがそっと声をかける。
「……水場が、消えています」
ルシアは低く言った。
周囲の視線が集まる。
「この先に、沢があったはずです。たぶん魔獣たちは、そこを使っていました。でも、土が崩れて流れが変わっている。水が細くなって、群れを支えられなくなったんだと思います」
責任者が慌てて反論する。
「沢については、工事の都合で一時的に迂回させただけです。水源を断ったわけでは」
「群れにとっては同じです」
ルシアは地面の跡を見た。
「いつもの水場に水がない。匂いが変わっている。道が塞がれている。それだけで、魔獣は別の場所へ移動します」
イレーネが腕を組む。
「その別の場所が、ヴァルミアの谷だったわけか」
「フランキス側にも流れています」
アルベルトが地図を開いた。
「こちらの山道を抜ければ、フランキス国境の低地へ出る。迎撃部隊の出動増加とも時期が合う」
ルシアは、さらに奥の伐採地へ目を向けた。
「それだけではありません」
金色の視界に、別の痕跡が見えた。
低い茂みの跡。
根ごと掘られた薬草。
噛み跡の残る、枯れた茎。
ルシアはしゃがみ込み、土の中から折れた葉を拾った。
「これは……月露草です」
マグダレナが眉を上げる。
「月露草?」
「胃を冷やし、痛みを和らげる薬草です。ペガサスにも使いました。ここには群生地があったのだと思います」
責任者が困惑した顔をする。
「ただの雑草では」
「雑草ではありません」
ルシアの声は、思ったよりはっきり出た。
「魔獣たちは、自分で食べていたのかもしれません。飛行や移動で胃が荒れた時、ここで月露草を食べて整えていた。けれど伐採で群生地が消えた」
ノーマンが記録板へ書き込む。
「水場消失、薬草群生地消失。魔獣の自己調整手段が失われた可能性あり」
「自己調整……」
セシリアが小さく繰り返した。
「魔獣たちは、自分で薬草を選んでいたのですか」
「たぶん」
ルシアは葉を指先で撫でた。
「全部ではないと思う。でも、体が覚えているものはあるはずです。お腹が重い時にこの草を食べるとか、傷がある時に水辺の泥で冷やすとか。人が知らないだけで」
セシリアは、壊された草地を見た。
その銀の瞳に、怒りではなく悲しみが浮かぶ。
「私たちは、傷ついた後しか見ていなかったのですね」
「うん」
ルシアは立ち上がった。
「でも、ここでは傷つく前のものが壊されています」
◇
調査は半日続いた。
伐採地の奥には、古い獣道があった。
今は丸太と土砂で半ば塞がれている。
その手前には、何度も行き来した魔獣の足跡が重なっていた。塞がれた道の前で引き返し、別の斜面へ向かった跡もある。
「ここを通れなかったから、群れは南へ逸れたのか」
イレーネが地図へ印をつける。
「その先が、ヴァルミアの谷です」
ルシアは頷いた。
「おそらく。しかも群れには幼い個体がいました」
「分かるの?」
マグダレナが尋ねる。
「小さい足跡があります。大人の個体が囲むように歩いている。移動速度も遅かったと思います」
「幼獣連れの群れを、山から押し出したわけね」
マグダレナの声が冷えた。
責任者が青ざめる。
「我々は、魔獣の繁殖地とは聞いておりませんでした」
「調査したの?」
「それは、開拓予定地としての調査は」
「魔獣の生息調査は?」
責任者は黙った。
マグダレナはそれ以上責めなかった。
ただ、ノーマンへ視線を向ける。
「記録」
「はい。開拓前の魔獣生息調査、不十分。繁殖経路、薬草群生地、水場の確認不足」
ノーマンの声も、いつになく真面目だった。
ルシアは塞がれた獣道の前に立った。
金色の目に、魔獣たちの残した混乱が見える。
いつもの道がない。
水の匂いが違う。
子どもが疲れている。
後ろから人の音がする。
斜面を下るしかない。
そして、その先に人里がある。
魔獣たちは人を襲うために来たのではない。
ただ、道を失っただけだ。
そう思うと、胸が痛かった。
「お姉様」
セシリアが隣に立つ。
「どうすればいいのでしょう」
「元の道を、全部戻すのは難しいと思う」
ルシアは言った。
「でも、通っていい道を作ることはできます。水場を残して、薬草の群生地を保護して、人里へ向かわないように香りや柵で誘導する。軍用魔獣には、討伐ではなく見張りと誘導を任せる」
「テレジアだけでは足りませんね」
「うん。フランキスとヴァルミアにもつながる道だから」
セシリアはまっすぐ前を見た。
「なら、三国で決めなければ」
「そうだね」
「お姉様」
「うん?」
「私、王都に戻ったら、陛下にこの場所を見たことを伝えます」
セシリアの声は震えていなかった。
「聖女として、傷を癒やすだけでは足りないと。傷つく場所を作らないことも必要だと」
ルシアは妹を見た。
セシリアは変わった。
いや、きっと変わったのではない。
もともと持っていた真っ直ぐさが、自分の意思で向く場所を見つけたのだ。
「うん」
ルシアは小さく頷いた。
「一緒に伝えよう」
◇
夕刻、調査団は開拓地の仮設詰所へ戻った。
そこで待っていたのは、フランキスからの急使だった。
馬型魔獣は息を荒げ、騎手の外套には泥が跳ねている。かなり急いで来たのだろう。
「アルベルト殿下!」
急使は馬から降りるなり、膝をついた。
「国境監視所より緊急報告です。山岳北部の魔獣群が、さらに南下を始めました」
アルベルトの表情が変わる。
「規模は?」
「先日のヴァルミア谷の群れより大きいとのこと。複数の群れが合流している可能性があります」
イレーネが低く言う。
「合流……」
マグダレナが地図を広げる。
「進路は?」
急使は震える指で、地図の一点を指した。
三国境。
フランキス、ヴァルミア、テレジアの境が重なる地域。
そこには、小さな町がある。
交易町リンドベル。
人も物も魔獣も集まる、国境の要所だった。
「このまま進めば、二日以内にリンドベルへ到達します」
詰所の中が静まり返った。
先日の村とは規模が違う。
三国の交易路が交わる町。避難にも時間がかかる。
そこへ複数の群れが流れ込めば、被害は比べものにならない。
しかも、フランキスのペガサスもヴァルミアのワイバーンも、まだ万全ではない。
ルシアは地図を見つめた。
金の瞳が、ゆっくり光を帯びる。
線が見える気がした。
壊された水場。
塞がれた獣道。
消えた薬草。
押し出された群れ。
疲弊する軍用魔獣。
そして、三国境へ向かう大きな流れ。
これは偶然の災害ではない。
人が見落としたものが、積み重なって起きた結果だ。
セシリアが隣に立つ。
「お姉様」
「うん」
「今度は、もっと大きいですね」
「うん」
怖い。
けれど、もう目を逸らすことはできない。
ルシアは地図の上に手を置いた。
「討伐だけでは、きっと止まりません」
マグダレナがこちらを見る。
「なら?」
「群れが何を求めて動いているのかを見ます。水か、餌か、安全な道か。そこを間違えなければ、リンドベルを避けさせられるかもしれません」
アルベルトが静かに頷いた。
「三国共同での初動になるな」
イレーネが拳を握る。
「ワイバーンは、出せる個体を選びます。無理はさせない」
セシリアが銀の瞳を上げた。
「負傷者と負傷魔獣は、私が診ます」
マグダレナが地図を叩いた。
「結論から言うわ。ここが第1部最大の山場ね」
ノーマンが思わず顔を上げた。
「施設長、今なんと?」
「何でもないわ。急ぎなさい」
「はい。記録と薬箱、全部持ちます。今度こそ腰が終わります」
「腰は後で考えなさい」
慌ただしく人が動き始める。
ルシアは地図から目を離さなかった。
母国で欠陥聖女と呼ばれた自分。
銀の聖眼を持つ妹。
フランキスの人々。
ヴァルミアの騎士たち。
そして、道を失った魔獣たち。
すべてが、三国境へ集まろうとしている。
ルシアは静かに息を吸った。
今度こそ、壊れる前に手を届かせなければならない。
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