第18話
テレジア王国の王妃エレオノーラは、王城奥の小さな温室にいた。
そこは王妃が私的に管理している薬草園でもある。
華やかな薔薇ではなく、湿気を好む薬草、乾いた土を好む薬草、葉に触れれば淡い香りを放つ草花が、区画ごとに整えられていた。
その一角に、ひときわ小さな札が立っている。
――白灯草。
――月露草。
――甘樹脂。
王妃はその札を見下ろし、静かに目を細めた。
「……まさか、ここでその名を見ることになるとはね」
そばに控えていた侍女が、そっと書類を差し出す。
「陛下より、至急ご確認をとのことです」
王妃は受け取り、封を開いた。
ヴァルミアからの照会状。
フランキスからの共同調査提案。
国境救護拠点での対応記録。
その中に、懐かしい名があった。
ルシア・アージェント。
王妃の指が、そこで止まった。
数年前のことを思い出す。
王妃が私的に可愛がっていた小型の馬型魔獣が、長く体調を崩していた時期があった。
傷はない。
呪いもない。
治癒術師が診ても原因が分からない。
食べる量はあるのに、痩せていく。
水を飲む前に何度も鼻先を離す。
夜になると落ち着かず、厩舎の隅で立ったまま眠ろうとする。
誰もが、歳のせいだと言った。
けれど、まだ見習いに近かった若い薬剤師だけが違うことを言った。
――恐らく、食べているものが合っていません。
――この子は食欲があるのではなく、空腹に耐えられず食べているだけです。
――食べた後に苦しくなるから、水も嫌がっているのだと思います。
その薬剤師が、ルシアだった。
当時のルシアは、まだ十代の終わり頃だったはずだ。
目立つ娘ではなかった。
いつも隅にいて、誰かの後ろに控え、声も小さかった。
けれど、魔獣を見る時だけは違った。
彼女の目は、まるで言葉にならない訴えを拾うように、じっと魔獣の仕草を追っていた。
王妃は、あの時のことをよく覚えている。
ルシアは餌の配合を変え、香りの強い草を減らし、水を先に飲ませるよう指示した。食べる量も一度減らし、数日かけて戻した。
奇跡のような光はなかった。
だが、十日ほどで、その魔獣は夜に横になって眠るようになった。
王妃はその時、思ったのだ。
この娘は、治癒術師とは別のものを見ている、と。
だから、王室付薬剤師への推薦状を書いた。
聖眼を持たぬ聖女の家の娘。
宮廷内では、そう囁かれていた。
けれど王妃には、そんなことはどうでもよかった。
王室に必要なのは、奇跡だけではない。
誰も見ない不調を拾い、崩れる前に手を打てる者もまた、王室に必要な人材だった。
そのはずだった。
「……陛下のもとへ参ります」
王妃は書類を閉じた。
その声は静かだったが、侍女はすぐに頭を下げた。
◇
国王レオポルトは、執務室で報告書を読んでいた。
机の上には、三国から届いた書類が並んでいる。
ヴァルミアのワイバーン部隊の不調。
フランキスの飛行魔獣対策。
テレジア側開拓政策と野生魔獣移動の関連。
国境救護拠点での応急対応。
そして、ルシアとセシリアの名。
「銀と金の双聖女、か」
国王は低く呟いた。
扉が開き、王妃が入ってくる。
国王は顔を上げた。
「エレオノーラ。読んだか」
「ええ」
王妃は国王の向かいに立った。
「ルシア・アージェントの名がありました」
「知っているのか」
「私が王室付薬剤師に推した娘です」
その言葉に、国王の眉がわずかに動いた。
「そなたが?」
「はい」
王妃は静かに頷いた。
「以前、王家の馬型魔獣を救いました。治癒術では届かなかった不調を、あの子は見つけたのです」
国王は手元の書類へ視線を落とした。
「その娘が、なぜフランキスにいる」
「私も、それを伺いたいと思っておりました」
王妃の声は、柔らかい。
だが、その奥には冷えた刃のようなものがあった。
「王室付薬剤師の人事異動について、私は報告を受けておりません」
「私にも、正式な辞職届は上がっていない」
国王の声が低くなる。
「薬務局からは、アージェント家の事情により職を退いたとだけ報告があった」
「本人の意思確認は?」
「記録にはない」
その一言で、部屋の空気が変わった。
王妃はしばらく黙った。
怒りを表に出さない人だった。
しかし今、その沈黙の方がよほど重い。
「陛下」
「分かっている」
国王は書類を机に置いた。
「王室が任じた薬剤師を、家の都合で処理した可能性がある。しかも他国との人材移転が絡む。事実なら看過できん」
「事実であれば、ではありません」
王妃は静かに言った。
「あの子は、すでにフランキスで働いています。ヴァルミアでも名を挙げました。つまり、この国が手放した才を、他国が用いているのです」
国王は目を細めた。
「そなたは、怒っているな」
「ええ」
王妃は否定しなかった。
「私は、あの子の仕事を見ていました。あの子が魔獣の前でどれほど丁寧に観察し、記録し、誰にも褒められない調整を続けていたかを」
温室で育てていた薬草の香りが、ふと王妃の記憶に戻る。
「それを雑務と呼び、欠陥と呼び、都合が悪くなれば国外へ渡した者がいるのなら、私は許しません」
国王はしばらく王妃を見ていた。
やがて、控えていた侍従へ命じる。
「ギルバート・アージェントとオスカー・ヴァーダンドを召せ。薬務局長もだ。王室付薬剤師ルシア・アージェントの離職と国外移送に関する書類をすべて持参させろ」
「はっ」
侍従が去る。
王妃は窓の外へ視線を向けた。
王城の中庭では、騎士たちが移動用魔獣に水を飲ませている。
以前なら、誰も記録を取らなかったような仕草まで、今は若い騎士が板に書き込んでいた。
「セシリアも、動き始めています」
「聞いている」
国王の声には、わずかな苦笑が混じった。
「神殿騎士団に魔獣の食事記録を取らせているそうだな。聖女が何を始めたのかと、教会側から問い合わせが来ている」
「良いことです」
「そなたはそう言うと思った」
「傷を癒やす聖女が、傷つく前を知ろうとしているのです。止める理由がありません」
国王は短く息を吐いた。
「ならば、止めるべきは別にいる」
◇
呼び出しは早かった。
ギルバートとオスカーが王の執務室に入った時、そこには国王だけでなく王妃もいた。
二人は即座に跪く。
「面を上げよ」
国王の声は静かだった。
ギルバートは顔を上げた瞬間、嫌な汗が背を伝うのを感じた。
机の上には、見覚えのある書類があった。
ヴァルミアからの照会状。
フランキスからの共同調査提案。
薬務局の退職記録。
そして、ルシアの名が記された人事推薦状。
王妃の署名入りの推薦状だった。
ギルバートの顔がわずかに強張る。
「ギルバート・アージェント」
国王が口を開いた。
「王室付薬剤師ルシア・アージェントの離職について問う」
ギルバートは喉を鳴らした。
「ルシアは、フランキス王国より強い要望があり、向こうで職を得ることになりました。本人にとっても悪い話ではなく――」
「本人の意思を確認したのか」
国王の声が落ちる。
ギルバートは一瞬、言葉を失った。
「それは……家として判断を」
「本人の意思を確認したのか、と聞いている」
今度は、逃げ道のない声だった。
ギルバートの唇が動く。
「正式な文書としては、残っておりません」
「つまり、していないのだな」
沈黙。
それが答えだった。
国王の視線がオスカーへ移る。
「オスカー・ヴァーダンド。そなたはルシアとの婚約を解消した。同日に、彼女の国外移送を告げたと聞く」
「陛下。それは家同士の婚約整理であり、セシリア様の聖女認定に伴う」
「婚約整理は家の問題だ」
国王は静かに遮った。
「だが、王室付薬剤師の職と他国への人材移転は、家の問題ではない」
オスカーは唇を結んだ。
国王は机の上の書類を一枚持ち上げる。
「ルシア・アージェントは、王妃の推薦により王室付薬剤師に任じられた人物だ」
その言葉に、オスカーの表情が変わった。
ギルバートも、思わず王妃を見る。
王妃は静かに二人を見ていた。
「ご存じなかったようですね」
声は穏やかだった。
だからこそ、恐ろしかった。
「私は、ルシアを王室付薬剤師に推しました。あの子が王家の魔獣を救ったからです」
ギルバートは喉を詰まらせる。
「王妃陛下、それは……存じ上げず」
「そうでしょうね」
王妃は淡く頷いた。
「あなた方は、あの子の仕事を知ろうとしなかった」
執務室の空気が冷える。
「聖眼がないから欠けている。
そう決めたのは、あなた方です」
王妃の声は、少しも荒くない。
「けれど、あの子は誰も見なかった苦しみを見ていました。誰も拾わなかった記録を拾っていました。誰も価値を認めなかった仕事で、王家の魔獣を守っていました」
オスカーは何か言おうとした。
だが、言葉が出ない。
彼はルシアに言ったことを思い出していた。
既に調合法は発表されている。
それでもなお欲しがるほど、貴方自身に価値があるとは思えない。
あの言葉が、今になって自分の首を絞めるようだった。
王妃は続ける。
「その仕事が止まった途端、この国の魔獣は崩れ始めました」
ギルバートは顔を青くした。
「王妃陛下、ルシアは聖女ではありません。聖眼を持たぬ娘です。アージェント家としては、正統な聖女であるセシリアを」
「欠陥だったのは、ルシアではありません」
王妃の声が、初めてわずかに鋭くなった。
「才を見る目を持たなかった、あなた方です」
ギルバートの顔が凍りついた。
国王が書類を置く。
「加えて、そなたらの判断は外交問題を招いた。フランキスはルシアを専門職として扱っている。ヴァルミアもまた、彼女の助言を求めている。今この時点で、彼女は三国の魔獣問題に関わる重要人物だ」
国王の視線が、二人を射抜く。
「その人物を、そなたらは王室への正式報告なく、家の都合で国外へ渡した」
「陛下、我々は国益を損なうつもりなど」
「意図の有無ではない」
国王の声が重くなる。
「結果として損なったのだ」
沈黙が落ちた。
オスカーは拳を握りしめる。
初めて、理解し始めていた。
自分たちが手放したのは、不要な欠陥聖女ではない。
王妃が見出し、他国が求め、魔獣たちが必要とした人材だった。
国王は命じた。
「ギルバート・アージェント。ルシア・アージェントの国外移送に関する全取引記録を提出せよ。金銭の流れも含めてだ」
ギルバートの顔色がさらに悪くなる。
「オスカー・ヴァーダンド。そなたは婚約解消の経緯、およびルシアへの通告時の内容を文書で提出せよ」
オスカーは歯を食いしばった。
「また、薬務局長にはルシア離職の処理について別途問う。王室付薬剤師の離職が、なぜ正式審査なく処理されたのか」
国王は静かに立ち上がった。
「これは家の問題ではない。王室の人材を、国の目を、勝手に失わせた問題だ」
その言葉は、断罪そのものだった。
◇
ギルバートとオスカーが退室した後、王妃はしばらく黙っていた。
国王が言う。
「厳しくするぞ」
「当然です」
「ルシアを呼び戻す声も出るだろう」
「戻す、ではありません」
王妃は静かに言った。
「あの子が選ぶことです」
国王は王妃を見た。
「そなたなら、そう言うと思った」
「私はあの子を評価していました。けれど、守れませんでした」
王妃の声に、初めて悔恨が滲んだ。
「今さら所有物のように呼び戻すことなど、あってはなりません」
「では、どうする」
「正式に謝罪し、協力を求めるべきです」
王妃は、温室の白灯草を思い出した。
「あの子が戻るかどうかではなく、あの子が築いたものを正しく学ぶために」
国王は深く頷いた。
「三国協議を開く」
「ええ」
「そこにルシアを招くことになる」
「本人の意思を尊重して」
「もちろんだ」
王妃は窓の外を見た。
夕暮れの王城。
厩舎へ戻る魔獣たち。
記録板を持つ騎士たち。
変わり始めている。
遅すぎたかもしれない。
けれど、止めるわけにはいかない。
王妃は静かに呟いた。
「ルシア。あなたの仕事は、ようやくこの国にも届き始めています」
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