第19話
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。
ヴァルミアから戻った翌日、ルシアは記録室にいた。
机の上には、ワイバーンに関する記録が山のように積まれている。
グラウの給餌記録。
翼膜裂傷を起こした若いワイバーンの治癒記録。
出撃可否の判断表。
村を襲うはずだった野生魔獣の群れの移動経路。
そして、ヴァルミアから届いた追加報告。
まだ、すべてが解決したわけではない。
ワイバーンたちの不調は改善の兆しこそ見え始めたが、完全に治ったわけではない。
野生魔獣の移動も止まっていない。
テレジア側の開拓政策が原因の一端である可能性も、まだ公式には認められていない。
それでも、何かが変わった。
フランキスのペガサス。
ヴァルミアのワイバーン。
そしてテレジアの移動用魔獣。
それぞれ別の場所で起きていた不調が、一本の線でつながり始めている。
ルシアはその線を、記録の上に引き直していた。
「……食べ方だけではなく、移動経路も見なければいけない」
呟きながら、赤い印をつける。
どこで野生魔獣が押し出されたのか。
どこで軍用魔獣の出撃が増えたのか。
どの時期から薬餌や補食の需要が増えたのか。
どの任務で、不調が目立ち始めたのか。
魔獣の体の中だけでは足りない。
魔獣たちが置かれている環境まで見なければ、きっとまた同じことが起きる。
「ルシア」
扉の方から声がした。
顔を上げると、マグダレナが立っていた。今日はいつもの白衣ではなく、王城へ上がるための濃紺の外套を羽織っている。
その後ろには、アルベルトもいた。
ルシアは筆を置き、立ち上がる。
「何かありましたか」
「結論から言うわ」
マグダレナは一通の封書を掲げた。
「テレジアから正式な協議要請が来た」
ルシアの指先が、わずかに止まった。
「テレジアから……ですか」
「ええ。国王名で」
アルベルトが封書を机に置く。
「フランキス、ヴァルミア、テレジアの三国で、魔獣移動と開拓政策の影響について協議したいそうだ。共同調査団の設立も議題に含まれている」
ルシアは封書を見つめた。
国王名。
それは、伯父ギルバートやオスカーからのものではない。
アージェント家からの命令でもない。
国として、正式に届いた文書だった。
「それから」
アルベルトは少しだけ声を落とした。
「君への出席要請もある」
「私に、ですか」
「ルシア・アージェント殿の専門的知見を求める、と書かれている」
専門的知見。
その言葉が、奇妙に遠く感じられた。
テレジアで、ルシアの仕事は雑務だった。
魔獣の餌に薬草を混ぜるだけの、誰でもできる仕事。
けれど今、その国が、彼女の専門的知見を求めている。
ルシアはすぐには返事ができなかった。
マグダレナが腕を組む。
「行きたくないなら、断れるわ」
ルシアは顔を上げた。
「断れるのですか」
「当然でしょう。あなたはもう、フランキス王立魔獣医療・保護施設の所属よ。少なくとも私は、あなたを荷物扱いして送り返す気はない」
きっぱりした声だった。
その言葉に、胸の奥がじんわり熱を持つ。
売られて来た。
買われたのだと思っていた。
壊さないように丁重に運ばれてきたのだと、そう思っていた。
けれど、今は違う。
ここでは、ルシアの意思を聞いてくれる。
アルベルトも静かに言った。
「協議には、私とマグダレナも出る。ヴァルミアからはイレーネ隊長が来る予定だ。君一人に負わせるつもりはない」
「……セシリアは」
気づけば、そう尋ねていた。
アルベルトは小さく頷く。
「テレジアの聖女として出席するそうだ」
セシリア。
国境の救護拠点で並んだ、銀の聖眼を持つ妹。
傷を癒やす聖女。
そして、姉の仕事を知ろうとしている妹。
ルシアは、机の上に置かれた記録へ視線を落とした。
ここまで来た。
自分の意思ではなかった道の先で、ようやく自分で選べる場所まで来た。
怖くないわけではない。
テレジアへ戻るというだけで、胸の奥が少し冷える。
あの屋敷。
あの執務室。
婚約破棄を告げられ、売られるのだと理解したあの瞬間。
でも、今の自分はあの時のままではない。
ルシアはゆっくり息を吸った。
「行きます」
マグダレナが目を細めた。
「本当に?」
「はい」
声は、思ったより落ち着いていた。
「戻るためではありません。魔獣たちの問題を、きちんと話すために行きます」
アルベルトの表情が、わずかに和らいだ。
「分かった。君の意思として受け取る」
マグダレナは短く頷いた。
「なら準備するわ。資料は全部持っていく。記録で殴るわよ」
「……また殴るのですね」
「必要な時はね」
その時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえた。
ノーマンが記録板を抱えて飛び込んでくる。
「聞きました! 三国協議ですね! 記録係は必要ですか。必要ですね。必要に決まっています」
「まだ呼んでいないわ」
「呼ばれる前に来ました。優秀です」
「うるさいわ」
「反省します。ですが、記録は持ちます」
マグダレナはため息をついた。
「……連れていくわ。誤字を見つけるたびに騒がないこと」
「努力します」
「約束しなさい」
「約束します」
ルシアはそのやり取りを聞いて、少しだけ笑った。
以前なら、こんな場面で笑う余裕はなかった。
自分が国際協議に呼ばれるなど、想像すらできなかった。
けれど今、自分の机には記録があり、隣には共に向かってくれる人たちがいる。
それだけで、足元が少し確かになる。
◇
テレジア王国へ向かう日、フランキスの王立施設では、魔獣たちがいつものように朝を迎えていた。
白い迎撃ペガサスは、まだ長距離飛行には戻っていない。
けれど、今朝は餌桶の前に自分から立ち、柔らかい薬餌を数口食べた。
灰色のリューネは、短い散歩を終えて、エリックの肩へ鼻先を寄せていた。
エリックは以前よりずっと慎重に、その首筋を撫でている。
「行ってくるね」
ルシアは、ペガサスたちの前で小さく言った。
言葉が通じているかは分からない。
だが白いペガサスが、短く鼻を鳴らした。
それだけで、十分だった。
エリックが深く頭を下げる。
「ルシア殿。お気をつけて」
「ありがとうございます。リューネの記録をお願いします」
「はい。食事、水、睡眠、装具反応、翼の震え。もう忘れません」
その声には、以前の焦りだけではない、確かな意志があった。
ルシアは頷き、施設の正門へ向かう。
そこには、初日に見た横断幕はもうなかった。
けれど、正門の脇に小さな札が掛けられていた。
――魔獣の聖女ルシア様、無事のお帰りを。
今度も少し文字が不揃いだった。
布ではなく木札で、きっと急いで作ったのだろう。
けれど、そこには同じ熱があった。
ルシアは、立ち止まった。
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
「また有志ね」
隣でマグダレナが言った。
「文字の並びが甘いわ」
アルベルトが微笑む。
「気持ちは伝わるよ」
「気持ちで文字は整わない」
「君らしい感想だ」
ルシアは木札を見つめたまま、ゆっくり頭を下げた。
「……行ってきます」
その言葉は、自然に出た。
帰る場所がある人の言葉だった。
◇
テレジア王都は、変わらず華やかだった。
白い城壁。
高い尖塔。
整えられた大通り。
花で飾られた広場。
ルシアは馬車の窓から、その景色を見ていた。
懐かしい、とは少し違う。
知っている場所なのに、遠く見える。
自分がここから出た時には、もう戻ることなどないと思っていた。
そして今、戻ってきた。
けれど、追い出された娘としてではない。
フランキス王立魔獣医療・保護施設の薬剤師として。
三国協議に招かれた専門家として。
その事実が、まだ少し信じられなかった。
王城の正門で馬車が止まる。
出迎えたのは、王城の侍従たちだった。
その中に、アージェント家の使用人はいない。
ルシアは、少しだけほっとした。
案内された先は、以前の王城薬務室ではなかった。
国王の謁見にも使われる、大きな協議室。
高い天井、深紅の絨毯、壁に掛けられた王家の紋章。
すでに数名が着席していた。
ヴァルミアのイレーネ隊長。
テレジアの文官たち。
そして、白い聖女の外套をまとったセシリア。
セシリアはルシアを見ると、ほんの少し表情を和らげた。
大げさに駆け寄ることはしない。
ここは公の場だ。
けれど、その銀の瞳は確かに言っていた。
来てくれてよかった、と。
ルシアも小さく頷いた。
その時、扉の奥から声が響いた。
「国王陛下、王妃陛下のお成りです」
全員が立ち上がる。
国王レオポルトが入室し、その隣に王妃エレオノーラが続いた。
王妃の姿を見た瞬間、ルシアの胸が不意に鳴った。
覚えている。
まだ王室付薬剤師になる前、王妃の馬型魔獣を診たことがあった。
あの時、王妃だけはルシアの説明を最後まで聞いてくれた。
――この子の様子を、よく見てくれてありがとう。
そう言われた記憶がある。
遠い記憶だと思っていた。
王妃は席へ着く前に、ルシアを見た。
そして、静かに微笑んだ。
「久しぶりですね、ルシア・アージェント」
その声は、穏やかだった。
ルシアは深く頭を下げる。
「王妃陛下。ご無沙汰しております」
「あなたの仕事が、遠い国境で多くの命を救ったと聞きました」
その言葉に、協議室の空気がわずかに動く。
ルシアは顔を上げられなかった。
「私一人の力ではありません。フランキスの皆様、ヴァルミアの皆様、そしてセシリアがいてくれたからです」
「ええ」
王妃は頷いた。
「それでも、あなたが見つけたものがありました」
優しい声だった。
けれど、今のルシアには、その優しさが少し怖かった。
認められることに、まだ慣れていない。
特に、この国で。
国王が席へ着く。
「本日の協議を始める前に、確認すべきことがある」
その声で、室内の空気が一気に引き締まった。
「ギルバート・アージェント。オスカー・ヴァーダンド。前へ」
ルシアの体が、わずかに強張った。
部屋の奥から、二人が進み出る。
伯父ギルバート。
元婚約者オスカー。
あの日と同じように、整った身なり。
けれど、表情はまるで違っていた。
ギルバートの顔には緊張が浮かび、オスカーの目には焦りが滲んでいる。
国王は二人を見下ろした。
「ルシア・アージェントの国外移送について、調査結果が出た」
ルシアは、息を止めた。
マグダレナが隣に立っている。
アルベルトも、少し後ろにいる。
セシリアは向かいの席で、こちらを見ていた。
一人ではない。
そのことだけを胸の中で確かめる。
国王の声が、重く響いた。
「これは、家の問題ではない」
ギルバートの肩が揺れた。
「王室が任じた薬剤師を、本人の意思確認なく、他国への対価を伴う取引に組み込んだ問題だ」
協議室に、冷たい沈黙が落ちた。
「そして、その人物は今、三国の魔獣問題に関わる重要な専門職となっている」
国王の視線が、ギルバートとオスカーを射抜いた。
「そなたらは、王室の人材を、国の目を、勝手に失わせた」
その言葉が落ちた瞬間、ルシアは初めて理解した。
あの日、売られたのは自分だけではなかったのだと。
誰にも見られず、必要とされず、ただ捨てられたと思っていた仕事。
その仕事ごと、この国は手放していたのだ。
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