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婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった  作者: 一十一
第3章 銀と金の双聖女

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第19話

 ――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。


 ヴァルミアから戻った翌日、ルシアは記録室にいた。


 机の上には、ワイバーンに関する記録が山のように積まれている。


 グラウの給餌記録。

 翼膜裂傷を起こした若いワイバーンの治癒記録。

 出撃可否の判断表。

 村を襲うはずだった野生魔獣の群れの移動経路。

 そして、ヴァルミアから届いた追加報告。


 まだ、すべてが解決したわけではない。


 ワイバーンたちの不調は改善の兆しこそ見え始めたが、完全に治ったわけではない。

 野生魔獣の移動も止まっていない。

 テレジア側の開拓政策が原因の一端である可能性も、まだ公式には認められていない。


 それでも、何かが変わった。


 フランキスのペガサス。

 ヴァルミアのワイバーン。

 そしてテレジアの移動用魔獣。


 それぞれ別の場所で起きていた不調が、一本の線でつながり始めている。


 ルシアはその線を、記録の上に引き直していた。


「……食べ方だけではなく、移動経路も見なければいけない」


 呟きながら、赤い印をつける。


 どこで野生魔獣が押し出されたのか。

 どこで軍用魔獣の出撃が増えたのか。

 どの時期から薬餌や補食の需要が増えたのか。

 どの任務で、不調が目立ち始めたのか。


 魔獣の体の中だけでは足りない。


 魔獣たちが置かれている環境まで見なければ、きっとまた同じことが起きる。


「ルシア」


 扉の方から声がした。


 顔を上げると、マグダレナが立っていた。今日はいつもの白衣ではなく、王城へ上がるための濃紺の外套を羽織っている。


 その後ろには、アルベルトもいた。


 ルシアは筆を置き、立ち上がる。


「何かありましたか」


「結論から言うわ」


 マグダレナは一通の封書を掲げた。


「テレジアから正式な協議要請が来た」


 ルシアの指先が、わずかに止まった。


「テレジアから……ですか」


「ええ。国王名で」


 アルベルトが封書を机に置く。


「フランキス、ヴァルミア、テレジアの三国で、魔獣移動と開拓政策の影響について協議したいそうだ。共同調査団の設立も議題に含まれている」


 ルシアは封書を見つめた。


 国王名。


 それは、伯父ギルバートやオスカーからのものではない。

 アージェント家からの命令でもない。


 国として、正式に届いた文書だった。


「それから」


 アルベルトは少しだけ声を落とした。


「君への出席要請もある」


「私に、ですか」


「ルシア・アージェント殿の専門的知見を求める、と書かれている」


 専門的知見。


 その言葉が、奇妙に遠く感じられた。


 テレジアで、ルシアの仕事は雑務だった。

 魔獣の餌に薬草を混ぜるだけの、誰でもできる仕事。


 けれど今、その国が、彼女の専門的知見を求めている。


 ルシアはすぐには返事ができなかった。


 マグダレナが腕を組む。


「行きたくないなら、断れるわ」


 ルシアは顔を上げた。


「断れるのですか」


「当然でしょう。あなたはもう、フランキス王立魔獣医療・保護施設の所属よ。少なくとも私は、あなたを荷物扱いして送り返す気はない」


 きっぱりした声だった。


 その言葉に、胸の奥がじんわり熱を持つ。


 売られて来た。

 買われたのだと思っていた。

 壊さないように丁重に運ばれてきたのだと、そう思っていた。


 けれど、今は違う。


 ここでは、ルシアの意思を聞いてくれる。


 アルベルトも静かに言った。


「協議には、私とマグダレナも出る。ヴァルミアからはイレーネ隊長が来る予定だ。君一人に負わせるつもりはない」


「……セシリアは」


 気づけば、そう尋ねていた。


 アルベルトは小さく頷く。


「テレジアの聖女として出席するそうだ」


 セシリア。


 国境の救護拠点で並んだ、銀の聖眼を持つ妹。


 傷を癒やす聖女。

 そして、姉の仕事を知ろうとしている妹。


 ルシアは、机の上に置かれた記録へ視線を落とした。


 ここまで来た。


 自分の意思ではなかった道の先で、ようやく自分で選べる場所まで来た。


 怖くないわけではない。


 テレジアへ戻るというだけで、胸の奥が少し冷える。

 あの屋敷。

 あの執務室。

 婚約破棄を告げられ、売られるのだと理解したあの瞬間。


 でも、今の自分はあの時のままではない。


 ルシアはゆっくり息を吸った。


「行きます」


 マグダレナが目を細めた。


「本当に?」


「はい」


 声は、思ったより落ち着いていた。


「戻るためではありません。魔獣たちの問題を、きちんと話すために行きます」


 アルベルトの表情が、わずかに和らいだ。


「分かった。君の意思として受け取る」


 マグダレナは短く頷いた。


「なら準備するわ。資料は全部持っていく。記録で殴るわよ」


「……また殴るのですね」


「必要な時はね」


 その時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえた。


 ノーマンが記録板を抱えて飛び込んでくる。


「聞きました! 三国協議ですね! 記録係は必要ですか。必要ですね。必要に決まっています」


「まだ呼んでいないわ」


「呼ばれる前に来ました。優秀です」


「うるさいわ」


「反省します。ですが、記録は持ちます」


 マグダレナはため息をついた。


「……連れていくわ。誤字を見つけるたびに騒がないこと」


「努力します」


「約束しなさい」


「約束します」


 ルシアはそのやり取りを聞いて、少しだけ笑った。


 以前なら、こんな場面で笑う余裕はなかった。

 自分が国際協議に呼ばれるなど、想像すらできなかった。


 けれど今、自分の机には記録があり、隣には共に向かってくれる人たちがいる。


 それだけで、足元が少し確かになる。


     ◇


 テレジア王国へ向かう日、フランキスの王立施設では、魔獣たちがいつものように朝を迎えていた。


 白い迎撃ペガサスは、まだ長距離飛行には戻っていない。

 けれど、今朝は餌桶の前に自分から立ち、柔らかい薬餌を数口食べた。


 灰色のリューネは、短い散歩を終えて、エリックの肩へ鼻先を寄せていた。

 エリックは以前よりずっと慎重に、その首筋を撫でている。


「行ってくるね」


 ルシアは、ペガサスたちの前で小さく言った。


 言葉が通じているかは分からない。

 だが白いペガサスが、短く鼻を鳴らした。


 それだけで、十分だった。


 エリックが深く頭を下げる。


「ルシア殿。お気をつけて」


「ありがとうございます。リューネの記録をお願いします」


「はい。食事、水、睡眠、装具反応、翼の震え。もう忘れません」


 その声には、以前の焦りだけではない、確かな意志があった。


 ルシアは頷き、施設の正門へ向かう。


 そこには、初日に見た横断幕はもうなかった。


 けれど、正門の脇に小さな札が掛けられていた。


 ――魔獣の聖女ルシア様、無事のお帰りを。


 今度も少し文字が不揃いだった。


 布ではなく木札で、きっと急いで作ったのだろう。

 けれど、そこには同じ熱があった。


 ルシアは、立ち止まった。


 胸の奥が、ぎゅっと痛む。


「また有志ね」


 隣でマグダレナが言った。


「文字の並びが甘いわ」


 アルベルトが微笑む。


「気持ちは伝わるよ」


「気持ちで文字は整わない」


「君らしい感想だ」


 ルシアは木札を見つめたまま、ゆっくり頭を下げた。


「……行ってきます」


 その言葉は、自然に出た。


 帰る場所がある人の言葉だった。


     ◇


 テレジア王都は、変わらず華やかだった。


 白い城壁。

 高い尖塔。

 整えられた大通り。

 花で飾られた広場。


 ルシアは馬車の窓から、その景色を見ていた。


 懐かしい、とは少し違う。


 知っている場所なのに、遠く見える。

 自分がここから出た時には、もう戻ることなどないと思っていた。


 そして今、戻ってきた。


 けれど、追い出された娘としてではない。


 フランキス王立魔獣医療・保護施設の薬剤師として。

 三国協議に招かれた専門家として。


 その事実が、まだ少し信じられなかった。


 王城の正門で馬車が止まる。


 出迎えたのは、王城の侍従たちだった。

 その中に、アージェント家の使用人はいない。


 ルシアは、少しだけほっとした。


 案内された先は、以前の王城薬務室ではなかった。


 国王の謁見にも使われる、大きな協議室。

 高い天井、深紅の絨毯、壁に掛けられた王家の紋章。


 すでに数名が着席していた。


 ヴァルミアのイレーネ隊長。

 テレジアの文官たち。

 そして、白い聖女の外套をまとったセシリア。


 セシリアはルシアを見ると、ほんの少し表情を和らげた。


 大げさに駆け寄ることはしない。

 ここは公の場だ。


 けれど、その銀の瞳は確かに言っていた。


 来てくれてよかった、と。


 ルシアも小さく頷いた。


 その時、扉の奥から声が響いた。


「国王陛下、王妃陛下のお成りです」


 全員が立ち上がる。


 国王レオポルトが入室し、その隣に王妃エレオノーラが続いた。


 王妃の姿を見た瞬間、ルシアの胸が不意に鳴った。


 覚えている。


 まだ王室付薬剤師になる前、王妃の馬型魔獣を診たことがあった。

 あの時、王妃だけはルシアの説明を最後まで聞いてくれた。


 ――この子の様子を、よく見てくれてありがとう。


 そう言われた記憶がある。


 遠い記憶だと思っていた。


 王妃は席へ着く前に、ルシアを見た。


 そして、静かに微笑んだ。


「久しぶりですね、ルシア・アージェント」


 その声は、穏やかだった。


 ルシアは深く頭を下げる。


「王妃陛下。ご無沙汰しております」


「あなたの仕事が、遠い国境で多くの命を救ったと聞きました」


 その言葉に、協議室の空気がわずかに動く。


 ルシアは顔を上げられなかった。


「私一人の力ではありません。フランキスの皆様、ヴァルミアの皆様、そしてセシリアがいてくれたからです」


「ええ」


 王妃は頷いた。


「それでも、あなたが見つけたものがありました」


 優しい声だった。


 けれど、今のルシアには、その優しさが少し怖かった。


 認められることに、まだ慣れていない。

 特に、この国で。


 国王が席へ着く。


「本日の協議を始める前に、確認すべきことがある」


 その声で、室内の空気が一気に引き締まった。


「ギルバート・アージェント。オスカー・ヴァーダンド。前へ」


 ルシアの体が、わずかに強張った。


 部屋の奥から、二人が進み出る。


 伯父ギルバート。

 元婚約者オスカー。


 あの日と同じように、整った身なり。

 けれど、表情はまるで違っていた。


 ギルバートの顔には緊張が浮かび、オスカーの目には焦りが滲んでいる。


 国王は二人を見下ろした。


「ルシア・アージェントの国外移送について、調査結果が出た」


 ルシアは、息を止めた。


 マグダレナが隣に立っている。

 アルベルトも、少し後ろにいる。

 セシリアは向かいの席で、こちらを見ていた。


 一人ではない。


 そのことだけを胸の中で確かめる。


 国王の声が、重く響いた。


「これは、家の問題ではない」


 ギルバートの肩が揺れた。


「王室が任じた薬剤師を、本人の意思確認なく、他国への対価を伴う取引に組み込んだ問題だ」


 協議室に、冷たい沈黙が落ちた。


「そして、その人物は今、三国の魔獣問題に関わる重要な専門職となっている」


 国王の視線が、ギルバートとオスカーを射抜いた。


「そなたらは、王室の人材を、国の目を、勝手に失わせた」


 その言葉が落ちた瞬間、ルシアは初めて理解した。


 あの日、売られたのは自分だけではなかったのだと。


 誰にも見られず、必要とされず、ただ捨てられたと思っていた仕事。


 その仕事ごと、この国は手放していたのだ。

皆様、ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


この作品をここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。

本当に励みになっています。


もし少しでも面白い、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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