第一部「AI時代の小さな宮廷」・第三話「現場たたき上げは忘れない」
午後の全社会議の案内メールには、「外部コンサルタントによる提案共有」と一行だけ添えられていた。
森岡は画面を閉じながら、心の中で「また新しい人が来るのね」とつぶやく。ここ数年、肩書きを変えた「外の人」は何人も出入りした。その誰もが、AIとデータを盾に「これまで」を更新しようとしてきた。
会議室に向かうエレベーターの中で、彼女は若手の営業と乗り合わせる。
「部長も今日、出席なんですね」
新堂が少し緊張した笑顔を向ける。
「現場代表ってところかしら。AIの数字だけじゃ見えないところも、一応あるでしょうって」
軽く返すと、新堂は曖昧に笑い、視線を足元に落とした。
彼が何を考えているのか、森岡は深く詮索しない。若い頃、自分もまた、上の人たちが何を見ているのか、見えていないふりをしてやり過ごしてきた。
ただ一つだけ、彼女は意識している。
──この会議で決まることが、明日どんな言葉でこのフロアに降りてくるのか。
自分の役目は、その翻訳を少しでも人間の顔をしたものにすることだ。AIのレポートにも、外部コンサルのプレゼンにも、そのままでは書かれていない、誰か一人ひとりの一日の重さを、少しだけ混ぜ込むこと。
会議室のドアの前で、森岡はジャケットの裾を整え、浅く息を吸った。
取締役に近い肩書きを持つようになっても、ドアの向こうにいる人々の前で感じる空気の密度は、あの頃とあまり変わらない。
変わったのは、自分がもう、ただ聞くだけの立場ではなくなったということだけだ。
ドアが開き、明るい照明と、整然と並んだ椅子が目に入る。その一番奥、スクリーンの脇には、見慣れないスーツ姿の人物が立っていた。
──今日の、外部コンサル。
森岡は、ごく自然な顔で会釈をし、自分の席へ向かった。彼女はまだ、その顔に、どこか懐かしい輪郭が潜んでいることに気づいてはいない。
朝の営業フロアは、コール音と椅子の軋む音で、いつも少しだけせわしない。
叩き上げの営業部長、森岡は、自分のデスクに鞄を置くと、真っ先に今日の訪問リストではなく、昨夜届いた「営業戦略アップデート」というメールを開いた。
件名の横には、小さなアイコンで「AI提案」と記されている。
クリックすると、きれいなグラフと箇条書きが並んだスライドが現れた。成約率の高い業種、訪問回数と受注率の相関、最適なフォロータイミング。
どれももっともらしく、そして、間違ってはいなかった。
森岡は一枚一枚を眺め、最後までスクロールしてから、そっとウインドウを閉じた。
「いいこと、書いてあるじゃない」
近くの席で準備していた若手が、半分だけ顔を上げる。
「ですよね。上からも、“AIの推奨どおりに動けば数字はついてくる”って」
森岡は、口元だけで笑った。
この会社に入った頃、彼女は「総合職候補」ではなかった。
大卒ではあったが、当時の人事の判断は、彼女を「まずは現場で経験を積んでもらう」に分類した。総合職研修に呼ばれた同期たちを横目に、地図を片手に飛び込み営業をした夏の汗の感触は、今でもふとした拍子に思い出す。
AIは、あの頃のことを知らない。
知らなくていいし、知る必要もない。彼女が階段を一段ずつ上がるようにして、今の肩書きを手に入れた経緯など、グラフ化しても誰の役にも立たない。
電話が一つ鳴り終わる間に、森岡はフロアを一望した。
画面に映る顧客リストと、受話器を握る指の力加減と、相手の一言に肩を落とす背中。
AIの提案どおりに訪問先を変えることは、たしかに合理的だろう。けれど、十年来の付き合いのある取引先に、今日も顔を出すかどうかは、もう少し別の勘で決めたいと、彼女は思っている。
上から降りてきた新しい方針では、「優先度の低い顧客」にはメールでの一括フォローを推奨していた。
森岡はその一文を思い出しながら、受話器を取り上げる。
「おはようございます、森岡です。──ええ、例の資料、今度直接お持ちします」
AIが「メールで十分」とタグ付けした相手の声には、こちらの顔と名前を覚えている温度があった。
取締役フロアからの内線が、内ポケットのスマホを震わせる。
「森岡さん、今日の全社会議、同席をお願いできますか」
事務的な声の奥に、少しだけ期待の気配が混じる。現場の空気を、数字以外の言葉で説明してほしい、という種類の期待だと、森岡にはわかる。
彼女は短く返事をし、スケジュールに一つ予定を追加した。
AIがはじき出した戦略の、多くは正しい。その上で、正しさだけでは届かない場所があることを、このフロアは毎日教えてくる。
会議室で交わされる「最適解」が、ここまで降りてくるときにどんな形に変わるのか。自分はその変形の過程を、もう何年も見続けてきた。
総合職の選抜からは外れたが、気づけば今、彼女は取締役の席が視界に入る位置にいる。
AIのレポートにも、彼女の名前にも、特別なマーカーは付いていない。それでも、現場を回すために必要な電話番号と顔写真は、彼女の頭の中にだけ、ぎっしりと並んでいる。
「じゃあ、行ってきます」
森岡は若手にそう声をかけ、ジャケットの袖を整えた。
AIが描いた矢印と、会議で決まる方針と、フロアに散らばる現実の小さな折れ線。その全部を、少しだけましな形でつなぎ合わせる役目が、今日も自分に回ってくるのだろう、と穏やかに受け止めながら。
AIで最適化されたはずの指示が、現実の泥臭さの中で歪んでいく。
それでも「上を立てる」習慣から、誰もはっきりとは文句を言わない。




