第19話 全部、俺だ
バージル所長が入院する病院の1階ロビー。その柱に隠れるレフ。
目と鼻の先にレイラ刑事とジーンに合流したカティサがいる。
(落ち着け俺。ここは深呼吸だ)
すう。
はあ。
深呼吸で気持ちを整えたレフは意を決して柱から——
「所長のとこぱぱっと行って、ぱぱっと帰って来るね!」
出た瞬間レフが見たものは、カティサの乗るエレベーターの扉が無常にも閉まる所だった。
「やあレフ。はは、すれ違っちゃったみたいだね」
レイラは笑う。一方で、ジーンの顔がいつもより暗い。
レフがジーンの顔色を観察しているとレイラが口を開いた。
「一つ聞いていいか?」
「なんでしょうか?」
「オイゲン・アイゼンクランツという名に覚えはない?」
誰の名前だろうか。ドイツ系の響きだが。
ジーンの顔色がさっきより暗くなっている。ジーンの事情らしいのは理解できる。
「いえ、知りません」
「そうか。知らない、か」
レイラはメモ帳にペンを走らせていた。明らかに事件を扱う動きだ。
「……あいつのやる事、目を瞑ってその子が来た事情にも触れないでいたけど」
刑事の顔になった彼女はジーンの方をちらと見てすぐに戻る。
「親が動いたら私は警察官として放置はできない」
「おまたせー!」
不穏な空気が流れ出していたのをカティサが破壊する。
来てくれたんだね、とレフの姿に安堵するカティサを見て、レイラはやれやれとでも言いそうな顔をした。
「次は私達がバージルの元に行く。いいかい?」
レイラに問われジーンはようやく口を開いた。
「うん……僕は所長と話してから帰る。レフとカティサは先に帰って」
カティサは何か言いかけそして口をつぐんだ。
ジーンはレイラに連れられエレベーターの方に向かった。
去り際に「僕の事は構わないで」と言いながら。
病院の帰り道。 ジーンが作ってくれたカティサと二人きりの時間。
正面玄関のバスにも乗らず二人は無言で歩いていた。
(どこかで話し合える場所を……このままカティサの家に、いやいくらジーンと一緒の家とはいえ今はまずい)
カティサも先程のほころんだ顔と違って神妙な顔になっている。
カティサもレフにどう切り出せばいいか分からない……はずだ多分。
病院をぐるっと回りウェストミンスター橋の袂まで来た時レフは思いついた。
そうだ遊歩道に行こう。
「カティサ、テムズ川見ながらでも話さないか?」
カティサは黙って頷いた。やはり思っていた通りだ。
遊歩道に降りた二人は川辺の塀に近づく。川向かいにはロンドン名物ウェストミンスター宮殿とビッグ・ベンが見える。
「ちょっと人通り多いかもね」
カティサの言う通り周囲には写真を撮っている観光客もいる。
ここでプリズラクの話題はしづらい。無意識的にそういうシチュエーションを選んでいた。
「場所変えるか?」
「ううん。ここでいい」
「船の往来多いね」
カティサはテムズ川を眺めている。
「時刻はもうすぐ3時か」
一方レフはビッグ・ベンを眺めていた。
眼前の世界遺産が織りなす景色の圧巻と観光客の喧騒に囲まれた中で二人の会話は途切れる。
先に口を開いたのはカティサの方だった。
「ねえ、レフって何者なの?」
カティサが真っ直ぐ見つめてくる。
この瞳にプリズラクは、いや、レフは惹かれた。
「俺はロシアから来た留学生で……」
見つめ返す。
「UCLに通いながら仕事している。仕事は子供の頃から、ずっと」
カティサは川の方に顔を向けた。何か地雷を踏んだか?
「そうなんだ。所長の件は断れなかったんだね」
「いや違う。断わる事が選択肢に無いんだ」
口に出すつもりはなかったのに、口に出していた。
「お前を試して、所長を道具にして……」
拳を握りしめる。バングルが振動する。
「怪人をぶつけた」
振動はまーくんの鼓舞なのだろう。レフも奮い立たせる。
「申し訳なかった」
テムズ川を遊覧船が走り抜けていく。
「仮面はスイッチだった。切り替える為の」
遊覧船の観光客が遊歩道に向かって手を振っているのが見える。
「日常生活とエージェント生活を隔てる為の、スイッチ」
カティサが振り向いた。
あの晩光り輝いていたカティサ。今は川の照り返しで眩しい。
カティサは一旦目線を下げた後、今度は真っ直ぐな視線を向けてきた。
「レフ、助手の仕事はどっちだった?」
カーティス探偵事務所の助手3は果たして「レフ」という名の大学生アルバイトだったのか。
それともエージェント「プリズラク」の仕事の一環だったのか。
左手首のバングルを右手で握る。バングルは一瞬チカっと点滅し文字を表示する。
Лёва
本名の愛称形が表示されてレフは苦笑した。まーくんはそう考えていた。
プリズラクでなければ来なかったのに。
外国の小さな探偵事務所なんて一生知る事はなかったのに。
レフは息を吸って、それから答えを出した。
「どっちもだ。いや全部だ。大学生レフも、猫じゃらしを振った助手3も、お前と所長を狙ったプリズラクも……全部、俺だ」
カティサは微笑んだ。
その笑顔にレフはどきりとした。
「そっか……レフはもう一人の自分を自分と認める事ができたんだね」
カティサはビッグ・ベンの方角を見る。
「私もね、自分がクロムなのか分かんなくなる」
カティサのポニーテールが風でそよぐ。
「だって、クロム言われても記憶が無いから。でもいずれクロムは私だと自覚することになるのかな」
「……覚えてないかもしれないが、お前はあの晩俺の素顔を見てフィースと言っていた」
カティサは一瞬キョトンとした後、思い出そうとしているのか顔が歪み始めた。
「フィース、フィース……っ!」
カティサは頭を抱えしゃがみ込んだ。
「頭が、頭が痛い!」
「カティサ!……す、すまない。今のは聞かなかったことにしてくれ」
頭を抱えしゃがみ込んだカティサにレフは謝罪する。心配そうに見つめている観光客の視線を感じた。
「……カティサ。休める所に行こう」
カティサを座らせるベンチはないかと周囲を見渡した所で、観光客の目線が一斉にビッグ・ベンの方に向けられている事に気が付いた。
ビッグ・ベンの時計回りを黒い影が旋回している。
レフはスマホのカメラを起動し、黒い影に向かってズームした。
鳥にしては大きすぎる。かといって飛行機でもない。
黒い影は青銅色をしていた。影はビッグ・ベンの意匠に止まると横に大きく伸びた。
そのフォルムは翼だった。
(これは……怪人だ!)
怪人は大きな翼のある悪魔のような容姿だった。
橋を渡ってこちら側に逃げてくる者がいる一方、もっとよく見ようと橋を渡りだす者もいる。
パトカーのサイレン音が鳴り響く。現場近くのロンドン警視庁が動き出している。
(見に行きたいがカティサを放っておくわけにはいかない……)
「……もう大丈夫。怪人事件だよね?私も行く」
レフが振り向くと、カティサが立ち上がっていた。
自前のペットボトルの水を飲んでいる。
「怪人事件のある所、カーティス探偵事務所の影あり」
「無理はするな」
ペットボトルのキャップを締めてガッツポーズを取るカティサを気遣う。
二人、小走りで橋を渡った。
「あの怪人はあなたが処刑した怪人じゃないよね?」
「……そうだ。あれは処刑リストにない。能動的に組織に加わる、知性を持った怪人だ」
キンコンカンコンのチャイム音が流れ、ビッグ・ベンの鐘が3回鳴った。
時刻は午後3時。




