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第17話 仮面の下

『マーマ?どこへいくの?』

 

 ベッドに入った後、玄関が開いて閉まる音がした。母がいなくなっていた。

 嫌な予感がして母の後を追いかけた。まーくんのナビを頼りにD棟の裏側に出る。林を抜けた先に母はいた。

 当時は雪解けの季節、事務所を襲った日のように満月だったのを覚えている。

 

 母の前には父がいた。

 しかしどす黒い霧に包まれ、目が真っ赤に光っていた。


『フェージャ……?』


 母の声は震えていた。俺は動けなかった。

 気が付くと足に黒い霧が絡みついていた。

 声を上げたいのに声を出すことができない。


『最後の通告をする。私の邪魔をするな』


 三日前から父と母は泊まり込みだった。

 憔悴しきった母だけ帰ってきた。

 二人の間に何があったのか分からない。

 ただ父がおかしくなってしまったのだけは分かった。

 

『いいえ。ラボをあなたに奪われるわけにはいきません。私は同意しません』


 母は毅然と断った。

 父を取り巻く黒い霧が濃くなった。


『……残念だ』


 父が右手をかざす。

 母の足元の黒い霧が伸びて母に巻き付き始めた。

 母が言葉を発する間もなく母の体はピンクの発光体になる。

 

『伝えておこう。お前を愛しているよ、サーシャ』

 

 声音はいつもと同じ穏やかな父そのものだった。

 父は笑みを浮かべたまま右手を下ろす。黒い霧が消えた。

 同時に、母は格子状になり消えてしまった。

 

 

『パーパやめて!マーマ……マーマ!』


 ようやく声が出た。

 父がこちらを見る。赤い赤い、灰色じゃない目。


『さあ……父さんと一緒に行こう』

『リョーヴァ』



 

『あああっ!』

 

 レフはベッドから飛び起きた。

 ロンドンの自分の部屋。瘴気が存在しない自分の小さな聖域。

 

 心臓の鼓動が高まり、嫌な汗で体が濡れていた。

 いつもの悪夢。父さんが母さんを消してしまう夢。


 はあはあと息を弾ませながらレフはベッドの上で三角座りをする。

 昔からやっている心を落ち着かせる方法。

 

『……あいつと会ったからだ』

 

 顔を膝に埋める。

 まーくんが膝の上に乗ってきた。レフの頬をすりすりする。


『本当に夢だったら良かったのにな』


 顔を上げたレフはまーくんをつついた。

 まーくんは笑って体をぷるん、と揺らした。


 

 ベッドから降りたレフはダンボール箱を開けた。

 大学のテキストと服が入っている。

 これから留学を中断する手続きと、この聖域を引き払う手続きを取らなければならない。

  

(エージェントとして隙を見せないよう通っていたつもりなのに)

 

 スマホを取り出しメッセージアプリを立ち上げる。

 カティサから「私逃げないから。待ってる」の釘刺しメッセージが入っていた。

 

(俺の所業を知って、どうして裏切り者を信じて待てるんだ?カティサ……)

 

 プリズラクの清算をしなければならない。強く思った。

 カティサと――いや、カティサだけでなく所長と、それからジーンにも話を付けなければならない。

 メッセージはもう1件あった。ジーンからだ。

 

 “所長の面会に行かないか?”


(カティサもジーンも何故……何故俺が帰ってくると信じてるんだ?)


 レフが顔に手をあてたのを見て、まーくんがタオルを持ってきた。

『……ありがとう』



 「CLOSED」のプレートの掛かったカーティス探偵事務所。

 最寄りの地下鉄駅から歩いてきたレフはひとしきり眺めて、それから溜息を吐いた。


(この事務所の日常を、プリズラクが……いや俺が壊した)

 

 プリズラクのせいにしたかった。

 でも仮面を被っていたのは紛れもなく俺だ。

 

 隣の工事中だったビルは足場が組み直されていたものの、事務所の割れた窓ガラスは板で塞がれていた。

 カティサのメッセージによれば営業再開するにしても引っ越すかもしれない話だった。

  

 ジーンに到着したメッセージを送る。いつものカラン、という開閉音が鳴って扉が開いた。


「逃げなかったね」

 そう言うとジーンはレフを中に入れた。安堵の表情だった。

 

(ひょっとして失いたくないものに俺も含まれていたのか……?)

  

 事務所内部は片付けの途中のようだった。

 倒れた椅子や位置のずれた机が直され、散らばっていた書類が束になって机上に積み上がっている。プランターからこぼれた土が一か所に集められていた。

 

 切り裂かれ内部のクッションが露出していたソファに同じ色の黒いテープが貼られ補修されていた。

 バージルはこちらの目的を理解していたのかもしれない。だとしたらどんな思いで切り裂いていたのだろう。


「事務所は見ての通りさ。ここに座ろう」

 ジーンに促されソファに座る。ペットボトルの水を渡される。

 彼はもう一本同じペットボトルの蓋を捻ると、ゆっくりと飲みだした。

 

 二人の間に淀んだ空気が流れる。

 最初に正体に気付いたジーンにまずは真実を告げなければならない。

 リュックから仮面を取り出しテーブルの上に置いた。

 

「俺はAdaptのエージェント。コードネームプリズラク」


 ジーンがペットボトルの傾きを垂直に変える。


「カティサは組織が探す勇者クロムの疑いがあった。彼女と、処刑対象のバージル所長が一緒にいたのは都合が良かった」

「カティサの力を見極める必要があった。所長を手段として使った。事務所を壊すのが一番の目的ではない」


 ペットボトルの蓋を締めたジーンが口を開く。


「古賀 大我も手段としたわけ?」

 

 ぐっと息を飲みこむ。


「ああ。個人的な理由で接触してきた大我の目的を利用した。これ自体は俺の判断だ」

「へえ……」

 

 間が開く。事務所の静けさにレフは襲われる。


(何か言い間違えたか?)

「大我君、探偵事務所に連れてこられて驚いただろうね。普通はAdaptのアジトだと思うよ?」

   

 仮面を持っていいか聞いてきたので許可する。

 表を見たり裏を見たり、近づけたり離したり。

 

「……彼、レフがプリズラクである事を知ってたよね?騙されていたのは僕らの方だね」

  

 レフは冷や汗をかく。

 やがて仮面をテーブルに置いたジーンは、静かに、しかし諭すように言葉を紡ぎ出した。


「なんで相談してくれなかったんだよ。カティサの正体は本人だけでなく所長も僕も、知りたがってたことだ」

「……ターゲットに手の内を明かす奴がどこにいる」

「本当に僕たちを任務のターゲットだけで見てた?」


 言葉が詰まった。

 ジーンは続ける。

 

「キミの雇用契約書のサインは本名だ。このロンドンで偽名も使わずAdaptに探りを入れる僕たちにそのまま近づいてきた」

「エージェントとしては隙がある、と」

「そうじゃなくて。『プリズラク』はエージェントでも『レフ』はエージェントじゃないんだろう?」


 誘われるかのように仮面に目線が移る。レフをプリズラクに変える仮面。

 

「……これでレフの生活を守っていた」


 考えるよりも先に言葉が漏れていた。


「猫じゃらし振ったり、ドーナツ店へ行ったり、勉強を教えたり……」

 後からやってきた思い出を前にレフは結論を出す。


「……嫌じゃなかった」

「ふうーん……仮面の下の演技まではできないんだね」


 図星で返す言葉がない。

 ジーンは畳みかけてきた。

 

「レフ、この事務所楽しいだろ?僕は楽しいんだ」

 ジーンは微笑んだ。

 

「所長は変人だけど楽しくて、カティサが来て更に楽しくなって、それからキミが来てもっと楽しくなった。今までなかった。こんな楽しい居場所」

 

 レフは泣きたい気持ちに襲われた。

 悟られないよう目をぎゅっとつぶる。


「事務所は壊れちゃったけど、所長はいる。やり直せる」

 

 ジーンはスマホの時刻をチェックする。


「そろそろ面会の時間だ。所長の元へ行こう、レフ」


 レフは仮面を見る。

 しばし迷って、それから仮面をリュックにしまった。


「それでいいよ」

 

 リュックを締めかけていたレフはジーンの一言で手が止まる。

 しかし決意を込めて一気に締めた。

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