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蝶の舞 ー濃姫ー  作者: 麗 未生(うるう みお)
十七.策略と信義

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刺客ー⑤:山峡の闇に沈む――しばしの休息

救われた命―沁みる心遣い

――その名を思うた瞬間。崖の縁から消えていった、あの姿が、瞼の裏に鮮やかに蘇った。


(そうだ……蘭丸!)


「いや……あ、いえ、京で商いをしております。夫の使いで旅をしていました。途中、山賊に襲われ……」

「やっぱりそうかえ!着物が麓の村の者たちとは違って垢抜けてると思ってたんだわ。そうか、都のお人か。道理でねえ。にしてもひどい目に遭うたな。うちの亭主が通りかかって良かった」


女の声は柔らかく、疑いも詮索も含まぬ。その在りようが、かえって胸に沁みた。やがて戸口に現れた男は、寡黙ながらも骨太の体つきで、肩には獣皮をかけ、腰には山刀を差していたが、その眼差しに敵意はなかった。


「おお、目が覚めたか」

「あなた様が私をお助けくださったと……かたじけのうござります」


そう言って頭を下げると、二人は顔を見合わせ、きょとんとした表情を浮かべた。その様子に、己の言葉遣いが浮いておることに気づく。


「あ、あの……うちの店にはお武家様も多く参られますゆえ、言葉が移ってしまったのです。そうした方が商いも円く収まりますので……」

「ほう、商家の奥方様も楽じゃねえな」


得心したように頷く二人を見て、私は胸の内で息をついた。囲炉裏には小さな炎が揺れ、鉄鍋には山菜と干し肉が煮られている。梁は煤に黒く染まり、長き年月をここで重ねてきたことが一目で分かる。武家の館とは比べるべくもない粗末な造りであるが、不思議と落ち着く空気があった。人が生きる匂いが、ここには満ちている。


「傷はひどかったぞ。山の薬草で手当てはしたが、まだ熱が引ききっとらん」


男はそう言って、私の腕に巻かれた布を指で示した。よく見れば、裂いた布の内側には、すり潰した葉が詰められている。血止めと熱取りのためであろう。


「……手間をかけたな」

「なに、山で生きてりゃこれくらいは当たり前だ」


その言葉に、私は僅かに目を伏せた。戦場で負った傷とは違う、生きるための知恵がそこにあった。


「あの、助けていただいたのは私だけでしょうか?供の者がいたのですが、途中ではぐれてしまい……」


男は囲炉裏の灰をかき混ぜながら、ゆっくりと首を振る。


「いや、あの辺りにいたのはあんただけだ。他に人影は見ておらんし、怪我人を助けたという話も聞かん。この山の者なら、何かあればすぐ噂になる」

「……そうか」


胸の奥に沈んでいた不安が、形を持って浮かび上がる。谷へ落ちたあの瞬間の蘭丸の姿が焼き付いて離れぬ。


「それで、私はどれほど眠っておったのだ」

「六日だ。このまま目を覚まさねえんじゃねえかと、皆で話してたところだ」

「……六日」


思わず、息が詰まる。六日も経てば、状況は大きく変わる。追手が去ったかどうかも分からぬ。蘭丸が生きているのか、それとも……。


(探さねばならぬ……)


そう思い、身を起こそうとするが、力が入らず、そのまま崩れ落ちる。


「やだ、まだ無理だってば」


女が慌てて肩を支えた。


「しかし……これ以上世話になるわけには……」

「何言ってんだい。困った時はお互い様だろ。こんな山ん中じゃ、助け合わなきゃ誰も生きていけねえよ」


その言葉は、飾り気のない真であった。


「……かたじけない」


私は小さく呟く。ふと、思う。もしこの者たちが、私が信長の妻であると知ればどうなるであろうか。比叡山を焼き、敵対する者を容赦なく討ち果たしたあの男。その名は、領民にとっては恐れの象徴であったはずだ。だが、今目の前にいるこの者たちは、名も知らぬ旅の女を、何の見返りもなく助けている。


(信長……そなたは、この者たちの目に、どう映っておったのだ)

お読みいただきありがとうございます。

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