前田利家ー③:山里の灯――束の間の休息
利家という柱の有り様
だからこそ利家は、信長の光だけでなく影も知っている。追放され、なお戻り、再び刃を預けた男。あの出来事があったからこそ、二人の間には奇妙な強さが生まれた。信長にとって利家は、裏切るかもしれぬ男ではなく、一度離れても戻ってくる男となったのだ。今、私が会おうとしているのは、その利家だ。
一度主を離れ、なお帰った男。では本能寺ののち、あやつは何を思い、誰のもとへ帰ったのか。それを確かめねばならぬ。蘭丸が横目で私を伺い、声を潜める。
「お方様……どうか、ご無理だけは」
「案ずるな。私は大丈夫。少しばかり昔を思い返しただけじゃ」
口にした言葉ほど、心は穏やかではない。利家の名を出すたび、あの時のことが思い出される。夕刻、山里の宿場で握り飯と干し肉を買い求める。裏手の林に身を潜め、焚き火を起こした。しばし体を休める。火の粉が風に舞い、蘭丸の横顔を赤く染める。枝の爆ぜる音が、夜気に溶ける。
「蘭丸。そなたは……利家がどう動くと思う」
「利家様は……今は秀吉様に従っておられるように見えます。しかし、信長様への忠心を捨てたわけではありませぬ。あの方は……二つの心を抱えておられるように思えます」
秀吉の名が出ると、火がひときわ大きく弾けた。秀吉は機を見るに敏い。殿亡き後、誰よりも早く動いた。利家がその傘下にあるのは事実。だが、あの男の胸奥に、殿の影が消えたとは思えぬ。
「二つの心、か」
焚き火を見つめながら、胸のざわめきが収まらぬ。信長という烈日を失った織田家の者たち。その影の形は、誰一人同じではない。光秀が謀反に走り、柴田勝家は義に殉じようとし、秀吉は機を制した。利家は、その狭間に立たされた。疑いたくはない。だが、信じ切ることもまた危うい。
今、この乱世に柱と呼べる者はおらぬ。ゆえに皆が己の正義を掲げ、刃を抜く。その渦中で味方と敵を見誤れば、命は無い。私の命など惜しくはないが、ここで果てれば、何のためにあの炎から逃げ延びたのか分からぬ。
火が小さくなり、夜の冷えが忍び寄る。蘭丸は黙って薪を足す。その手の震えを、私は見逃さぬ。利家と会う日が来れば、私は何を問うのか。忠か、野心か、それとも――あの頃と変わらぬ心か。
炎の向こうに、若き日の殿と利家の姿が重なる。笑い、叱り、剣を交えた日々。その絆が今も生きているならば、利家はまだ、織田の男であろう。だが乱世は、人の心を試す。その答えを確かめるためにも、私は生きねばならぬ。
夜更け、途中にあった山の民家で一夜の宿を借りた。老夫婦の小さな住まいで、囲炉裏を挟み、互いを労わり合う姿に、胸の奥の強ばりがわずかに解ける。土壁には煤が重なり、天井の梁は黒く光る。戦とは無縁の静かな時が、そこには流れていた。
信長が最後に洩らした言葉が、ふと蘇る。――「生まれ変わったなら、田を耕してみるのも悪くない」と。あの烈しい人の口からこぼれた、ひどく柔らかな声音であった。夢のような暮らしが今、目の前に在る。
老夫婦は小さな田畑を守り、慎ましく日を重ねるという。その姿を羨む心が、私の中に確かにある。私は武家の女としての生き方しか知らぬ。政と戦の匂いの中で息をし、それ以外の道を思うたことはなかったはずだ。それでも、この家の温もりは胸を疼かせる。
農婦が湯気の立つ飯を差し出す。
「粗末な物でございますが……」
「お心遣い、かたじけのうございます」
頭を下げると、農婦は目を瞬かせ、静かに言う。
「あなた様は……武家のお方でございますね」
思わず息を呑む。旅姿は武士の名残を崩し、髪も整えぬ。百姓に紛れたはずであるから、この姿から武家の者だと感じるは難しいかと思うておったのだが。
「何故……」
私がこぼすと、蘭丸が小さく息をついた。
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