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土をこねる    作者: みか
2/3

今まで家族だったのに


   2


私がまだ芸大の大学院で学生をしていた十二年前のあの日――。家の前まで帰ってきて鍵を忘れて出ていたことに気づいた。呼び鈴を押しても誰も出ないし、家の中の電気もついていない。十月末の午後五時すぎ。すでに日は西に傾いている。少し離れたところにある祖母の家に行っているのかと思い、電話をかけようとしたが携帯電話までも忘れていたので、近所の公衆電話の受話器をとった。誰も電話に出なかった。あちこちに電話をしたが手掛かりがつかめず、二時間ほど公衆電話と家を行ったり来たりした。

住宅街に、ひたひたと夕闇が広がってきた。私は、次第に不安に駆られた。こんな時間に家族が家にいないことはそうそうない。この時間は必ず母が食事の準備をし、帰ってくるきれい好きの父のために、風呂を沸かしているはずだった。

すっかり闇に包まれた。いよいよ、これは何かあったに違いない。しかし、どこにも聞く当てがない。そう思った時、ふと思い当たって近所に住む母の友人に電話をかけた。

「瑞希ちゃん、今どこなの!?」

母の友人がこんなに上ずった声を出したのを始めて聞いた。

聞けば、昼過ぎに祖母が倒れ、家族全員が病院に付き添っているとのことだった。体中が急に冷たくなって身が固くなった。母の友人は病院まで車で連れていってくれた。

十月にしては寒い日だった。

急いで救急の待合室に駆け込むと、母のヒステリックな声が私に突き刺さった。

「今までどこにいたのよ! 何度も電話したのに!」

 私は何も言えなかった。私が鍵を忘れてうろうろしている間に、祖母が苦しんでいたかと思うと、自分の愚かさに吐き気を催し、悔しさに胸の内をかきむしりたくなった。

 父もすでに駆けつけていた。それが祖母の状態が思わしくないということの証に思えた。立ち上がって涙をぽろぽろ流して金切り声を上げる母の背後に、ベンチに座った曜子叔母がちらりと見えた。年甲斐もなく若者ぶった赤いスタジャンに黒のスキニーという、いつも通りの格好だった。足を組んで背を丸め、部屋の隅にぽつんと独りで身を縮めている。

「おばあちゃんは?」

 私はやっと声を出せた。

「くも膜下出血だって」

 息をのんだ。

 母の声は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。父が母をベンチに座らせる。妹の多恵子が母の背中を撫でた。多恵子は大学で実験中だったらしく手に白衣をたたんで持っていたし、父も仕事着のままだった。

「今……は、手術中なのね」

 声が震えてうまく発声できなかった。

私の質問に、その場にいる全員が一様に沈んだ面もちをした。多恵子が涙をこらえて唇を震わせながら、

「それが、なぜかまだ手術してもらえなくて。倒れて七時間くらい経ってるのに」

「え……」

 くも膜下出血に詳しくはないが、一分一秒を争うということくらいは知っている。処置が遅れるほど、出血によって脳細胞の死滅範囲が広がってしまう。七時間以上経っているのなら、後で障害が残るかもしれない。

「先生の説明では、とにかく今は脳を冷やすのが先決だって」

 母は泣き腫らした目を両手で覆った。

部屋の隅で曜子叔母が、

「早く手術するようにって、もう一回言ってこようか」

と、お酒で焼けた声を出した。心細そうな声だ。不眠症で、お酒を飲まないと眠れないらしいとは、前に聞いていた。

「まさか、こんなことになるなんて」

 母が肩を震わせると、父は心配そうに母の背中を撫でた。母は少し泣いて落ち着くと、倒れた時の状況を話し始めた。

「お昼頃、おばあちゃんから職場に電話があって。珍しいなと思っていたら、仕事帰りに寄ってほしいって。渡しておきたいお金があるからって言いだして」

 なぜ祖母は急にそんなことを言いだしたのだろう。この疑問は、当然母の胸にもあったらしく、電話口で「この頃変よ、お母さん。この前は遺言状を書いたなんて言ってたし、不吉なことを言わないで」と叱ったらしい。その後、一時間もしないうちに、今度は曜子叔母から職場に電話があったという。職場の上司の視線を気にしつつも、

「どうしたの?」

 母が聞くと、

「お母さんが、気分が悪いから病院に連れていってほしいって言ってるんだわ。仕事が終わってからでいいから来てくれるかな」

曜子叔母の声はさほど緊迫してはいなかったらしいが、先程の電話といい、あまりの悪い予感に追い立てられて、母はすぐに早退し、職場から歩いて十分ほどの祖母の家に駆け込んだということだった。

ところが玄関を開けた途端に、恐ろしいほどの大音響で祖母のいびきが聞こえ、瞬時に脳内出血だと悟った母は、廊下に祖母と一緒に座り込んでいる曜子叔母を突き飛ばして、祖母の顎を上げて呼吸ができるように寝かし、

「バカ! 何やってるのよ! 早く、救急車!」

と叫んだのだそうだ。

 私に話しながら思いだしたのだろう、母は曜子叔母を情けなさそうに睨みつけた。

「だいたい救急車も呼ばないで、うつむいて座らせたままにしておくなんて!」

「お姉ちゃんが入ってくるちょっと前までは、意識は少しあったもの! 頭が痛くて吐きそうだっていうし、目も開けられないみたいで……、だから抱えてトイレに行ったのよ。そしたら崩れ落ちて。でも、呼びかけたら手も握り返したし」

どう考えても異常だった。目も開けられないほどの相当な激痛が、頭を襲っていたのだろうと想像はつく。しかし、母と一緒になって曜子叔母を責め立てるより、今は祖母のことが気にかかった。

多恵子は神妙にベンチの端に腰かけて黙り込んでいた。父も母も多恵子も、曜子叔母も、すっかり目の下を不安の色に染めて憔悴していた。その後も手術は行われず、待ち合いにあった薄い毛布を私たちは各々身にまとい、ひたひたと気配を強める死と晩秋の深夜の冷えに震えながら、時計の音ばかりを気にしていた。寿命が近づいている蛍光灯の、疲れたような青白い光が寂しく私たちを照らす中、みんなおし黙って身を縮めていた。

祖母の手術がようやく行われたのは、深夜零時頃だった。

「谷本千歳さんのご家族は……」

 すでに手術着に着替えた看護師が、待合室まで声かけに来てくれた。

手術室に入る直前のほんの数秒間、廊下で待ち構えていた私たちは、すっかり髪をそられてしまった祖母の顔を見た。

若い頃から何事にも積極的で破天荒。幼い頃に母親が亡くなり、胃潰瘍で働けなくなった父親に代わって一家の家計を支えるべく、小学校もろくに行かせてもらえず働きづめだった。わずか十四歳で岡山県の津山という田舎の城下町を出て、大阪へ出稼ぎに来た。バスガイドや飲食店で稼いで実家に送っていたという。十七歳の時には、若い後妻に追い出された三人の妹たちを引き取って大阪に暮らし、自分は受けられなかった教育を妹たちには受けさせたいと、三人とも大学に行かせた。独学で読み書きを身につけ、人を大事にし商才に長け、家族の生活の援助どころか巨額の財を成した人だった。いつもパリッと着物を着て、若い頃から女優のスカウトがかかるほどの粋な美しさがあった。機知に富んで知恵があり、困った時にはみんな祖母に相談していた。

勉強のできない私を母が冷たく扱う時にも、祖母だけは私を慈しんで理解し、「瑞希は大丈夫。ちゃんといろいろ見えている、しっかりしたおばあちゃんのかわいい孫」と受け入れてくれていた。

私だけでなく、おそらくみんなの心の支えなのだ。そんな祖母が、今、目の前に横たわっている。

髪をそってもなお美しい、やつれてもいないその面立ちが悲しかった。表情には苦痛の色がうっすらと浮かんでいる。数日前、美容院できれいに整えたばかりの髪がすべてそられてしまった祖母を見ると、胸がひどく痛んだ。堰を切ったように涙があふれた。

「おばあちゃん、頑張って」

「待ってるからね! 頑張って出てきてよ!」

 届こうが届くまいが、声をかけずにはいられなかった。その場にいた誰もが涙で声を詰まらせながら、口々に祖母を励ました。祖母はただ眉間を微かによせた静かな顔で、ドアの向こうに運ばれて行った。

 待合室に戻っても誰も一言も発せないままだった。多恵子は母にもたれて子供のように顔をくしゃくしゃにして声を押し殺し、ベンチの上で抱いた膝にいくつも涙を落とした。顔を両手で覆う母の横では、汚れた仕事着のままの父が壁に頭を持たせかけて、天井を仰いでいる。曜子叔母も、引きずるような足取りで一番奥の椅子に腰かけてうなだれた。目の下には大きな影を落とし、いつもの大きな目に輝きがなかった。

私は入り口近くの背もたれのないベンチに腰を落とした。薄いクッションのベンチは、表面的な柔らかさで私を受け止めたが、その底の方にある抗えない堅い冷たさに体の芯が固まった。

「良かったわ、手術してもらえて、一安心よ」

ハスキーな声が冷たい空気の中で、突然発せられた。さすがに元気のない声だった。曜子叔母は床に視線を落としたまま一呼吸置くと、今度は少し力のこもった声で言った。

「お母さんのことだもの、きっと大丈夫よ。いい方向に進んでるんだと思う」

 おそらく自身に言い聞かせようとして言ったか、あるいは本当に何もわかっていなかったのか、その疲れきった口元から響く明るい声が、待合室に異様に響いた。私は一応同意を示した方がいいかと思って小さく頷いたが、本心では非常に疑わしいと思った。

 

 長い手術だった。明け方、祖母は集中治療室に入れられ、私たちはキャップと白衣、手袋で身を包み、祖母を間近に見舞った。脳天に穴があけられ、そこから太いチューブが垂れている。このチューブが祖母の脳に直接つながっているのだと思うと、やり切れなかった。しかし、一つだけ救いだったのは祖母の表情だった。麻酔で痛みから解放されたためか、幾分安らいで柔らかい色を含んでいた。もしかしたら助かるかもしれない。そんな心持ちがにわかに湧き起って私の身を軽くした。しかし、そんな希望はすぐに掻き消された。

「一応、血管をクリップで止める処置は何とかできましたが、止めても止めても血管がぶつぶつ切れてしまうような状態で……。相当血管が弱っていたようです」

 助かるとも助からないとも言わない医師の申し訳なさそうな声が、電子音の響く室内に染みわたった。察したは母は顔をぐしゃぐしゃにした。

曜子叔母は、祖母の顔を覗き込んで、

「楽そうな顔してるもん、お母さんはきっと、大丈夫よ」

と、しかし元気のない声で呟くように言った。

集中治療室は優秀な医療スタッフがついているので、と、医師にも看護師にも強く勧められ、私たちは後ろ髪を引かれつつも一旦帰宅した。

 朝焼けが寒々しく夜を追いやる中、スモールライトをつけた車が通る。数台しか見当たらない静かな道を走る。昨日見た風景は、もう来ない。そんなことに気づいて、途方にくれた。

 三、四時間ほど仮眠をとって、父は仕事に出かけ、私たちは再び病院に戻った。

 目を疑った。

 たった数時間でここまで変わってしまうものか。祖母の顔はパンパンに腫れあがり、まるで乳幼児のような幼さを呈していた。ショックのあまり言葉も発せずにいると、看護師が開頭手術をするとどうしてもこうなるのだと説明してくれた。言いようのない切なさについ祖母に抱きつきたくなったが、管だらけの祖母にはまるで近づけなかった。 

「おばちゃん、しんどいのかな……」

 多恵子が頼りなげにそう呟く。

「痛み止めも薬もしてくれてるはずだから、大丈夫だと思う。ただ手術の反応で顔が腫れてるだけよ」

 祖母が辛いのは分かり切っていた。それでも私はそう言わざるを得なかったし、多恵子も頷かざるを得なかった。母は黙り込んでいた。車で一緒に来た曜子叔母は、本気にしたかもしれない。でも、その方が幸せだと思った。

翌日には、大叔母である祖母の妹たちが見舞いに来た。祖母の妹のうち愛子は祖母に引き取られてからそのまま大阪に生き、結婚していた。八千代と栄子は津山に舞い戻っていて、末っ子であったはずの栄子大叔母が婿をとって家業の呉服問屋を継いでいた。後妻に子がなかったのだ。

 大叔母たちは、祖母の膨れ上がった顔を見て言葉を失った。動揺を隠すように、「じゃけど、ほっとした顔しとるけん、安心した」と少々上ずった声で口々に言いつくろった。そして、遠くから来たにもかかわらず、ゆっくり話をするでもなく、早々に帰っていった。

同じ大阪に住んでいるということもあって、愛子大叔母は、その後もちょくちょく祖母の顔を見に来ては、「ちー姉ちゃん、来たで」と声をかけた。千歳という名の祖母を、妹たちは「ちー姉ちゃん」と呼んでいた。

愛子大叔母には子供はおらず、夫は地方で料理人をしている。一人で家にいるのも面白くないのかもしれないが、しょっちゅう祖母の顔を見に来た。六十六歳の筋張った足に赤色のピンヒールを履き、毛皮をこっぽりまとって集中治療室にたびたび姿を現した。もちろん、入る前に毛皮を注意され、白衣に着替えてはいたけれど。

祖母の顔の腫れはしだいに治まり、また美しくきりりとした色気を醸し出しはじめた。


「あ、そうだ、曜子ちゃん」

 祖母が倒れて十日程経った頃、母が急に思いだしたように曜子叔母の袖を引っ張って、病室の隅に二人して身を寄せ合った。多恵子は愛子大叔母と話している。

「ここで話すのもなんだけど、私、すぐ忘れてしまうから、今、言っておくわね」

 曜子叔母は、何事かと耳を傾ける。

小声で話し始めた母の声は、しかし、電子音の定期的にリズムを刻む音以外ほとんど音のない集中治療室内で、微かに響いた。

「お母さんが倒れる直前、現金を銀行から引き下ろして用意してるから取りに来てほしいって電話をくれてたのよ。結構な額だから、そのまま置いていたら危ないと思って。たぶんお母さんの部屋にあるはずだから、銀行に入れておいて」

 曜子叔母の顔色が変わった。

「え……いくら?」

 母がそっと指を二本立てた。

「二百?」

 母は、小刻みに首を横に振った。私はそれで確信した。二千万円だ。

「あ、そう。知らなかった。さがしておくわ。銀行に入れておけばいいのね」

 曜子叔母はそう約束した。母も安心したように頷いた。祖母の部屋は一階の道路際で大きな窓もある。もしうっかりコタツの上にでも置きっぱなしだったら危険だった。

私の横で、多恵子の話を聞いて頷いていた愛子大叔母が、急にコーヒーが飲みたいと言いだした。喫茶店のあるような民間のくだけた病院でもないので、仕方なく家族待合室に行くことになった。家族待合室に入ると、愛子大叔母が財布からお札を出して、曜子叔母と多恵子に、

「二人でコーヒーを買ってきてくれる。悪いねぇ」

 と言った。曜子叔母と多恵子が出て行くと、すぐに母に向かって身を乗り出した。

「広美ちゃん、遺産の話やけどねぇ」

 突然、耳慣れない言葉を切り出され、私と母は驚いて顔を上げた。

「ちー姉ちゃんの遺産は、ちゃんと管理しないといけんよ。あんたが長女なんだからねぇ」

「遺産って……、愛子おばさん、今そんな話やめて」

 母は嫌がったが、愛子大叔母は優しく甘い声で続ける。

「曜子ちゃんに全部渡ってしもうたら、曜子ちゃんの、ほら、あっちの方に渡ってしまうけん」

 長く大阪に住んでいても時折混ざる岡山弁で、猫なで声をだした。

あっちの方、というのは、曜子叔母の父方の親戚のことだ。祖母は二度結婚し二度離婚している。

「何も、今そんなこと言わなくても。お母さんはちゃんと生きているのに」

「じゃけど、こういうことは、早め早めに動いとかんとねぇ。曜子ちゃんに全部取られたらどうするん。あんたには娘が二人もおるんやけん、お金も必要じゃろう?」

 愛子大叔母の頬は、心なしか紅潮しているように見えた。微笑ともとれる口元だった。なるほど祖母とは姉妹なりの美しい頬だった。しかし、祖母と姉妹とは思えぬ微かな邪な笑みが隠しとおせず漏れていた。母もそれを感じ取ったらしい。ギュッと眉根を寄せると、立ち上がって見下ろすように言った。

「愛子おばさん、私と曜子はたった二人の姉妹なのよ。お母さんが悲しむようなことは、私はしないから」

 愛子大叔母は、きれいに整えられた細い眉を弓なりに軽く上げると、興ざめだといわんばかりに笑みをひっこめた。

ほどなく曜子叔母が戻ってきた。当然ながら何も知らない曜子叔母と多恵子だけが、見舞いに来てくれた愛子大叔母に愛想よく話しかけ、愛子大叔母の笑みを見た私は缶コーヒーを味気なく口に含んだ。母は、頬を固くして、缶コーヒーを両手で包んでいた。

 愛子大叔母を駅まで送る。駅の近所に建てた祖母の家に同居している曜子叔母も一緒に車を降り、私たちに手を振った。

「じゃあ、また明日ね」

 明日も仕事を終えた母が、曜子叔母を車に載せて二人で祖母のところへ行くのだ。祖母が倒れてまだ十日。きっと目覚めるという希望を胸に、二人の姉妹は毎日母親の顔を見に行く。私も毎日行きたかったが、学校が終わってからだと夜間になってしまうため、そう頻繁に行くことはできなかった。


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