祖母の死
愛子大叔母が遺産の話をして母を驚かせた日から幾日か経ったある日、夕食を囲みながら母が暗い声で言った。
「例の、お母さんが倒れる直前に用意してたって言うお金、見当たらないらしいのよ」
「引き出しかどっかにいれたんじゃないのか?」
父がそう言うが、母は首を横に振る。
「曜子は、一応お母さんの部屋は全部見たって言ってるし」
「まさか、泥棒に入られたのかな」
多恵子が気味悪げに肩をそびやかす。私は、それはないんじゃないかと思った。
「泥棒が入ったら、なんとなくわからないかな。荒らされてるとか、窓を破られてる形跡もないんでしょう」
私の言葉に反応もせず、母はしばらく思い詰めたように、お茶碗を持ったままの手をテーブルの上に置いていたが、
「遺言状も書いたって言ってたから、それもあるんじゃないかとも思うんだけど……」
「無いって言うのか」
母が頷くと、父は小首をかしげた。が、一つため息をつくと、気を取り直すかのように背筋を伸ばし、
「まあ、いいじゃないか。お母さんのことだ、ある日突然目を覚まして、ビフテキ食べに行こうなんて言いだすかもしれないし、その時にどこに置いたか聞けばいいさ」
「そうそう、この前おいしいお店があるから行こうって、おばあちゃん言ってたもん」
多恵子のこの言葉は、とても日常的で元気がわいた。祖母と一緒の未来の予定を入れるという方向に切り替わった気持ちに救われた。「あの祖母なら十分ありえる」と思えた。何でも不可能を可能にしてきた人だ。食卓の灯が急に明るくなったきがした。
「そうよね、お金のことも遺言状のことも、お母さんが目を覚ませば、すべて解決するんだから」
気を取り直したように、疲れた顔で笑顔を見せる母に、私は頷いた。
「この前テレビでやってたけど、ずっと諦めていたのに、八年後とか十何年後に目を覚ます人もいるって。とにかく長丁場になってもいいように、私たちが元気でいなきゃ」
正直言えば、自分としては自分の言葉に半信半疑だった。しかし、祖母が目を覚ましてくれることを信じていなければ潰れそうだった。私を唯一認め、初孫だと言ってかわいがってくれた祖母。祖母がいなくなってしまったら、私の生きる力も希望もなくなってしまう。そんな不安があった。
意識がなくても言葉を発せなくても、耳だけはずっと聞こえていると、看護師の一人が教えてくれた。毎日毎日祖母の傍で過ごす母と曜子叔母の姿、祖母の手を握って話しかけ続ける私と多恵子の姿に同情したらしかった。
「たとえば、おばあ様がお好きな歌とかお孫さんの声とか、テープに入れてもらえたら、ずっとおばあ様の耳元で流しておきますよ」
他の看護師もそう提案してくれた。重篤な患者ばかりを扱う病院だ。看護師の優しさも繊細だった。
ただ、正直言って録音した自分の声は好きではなかったし、それをずっと病室で流してもらうのも恥ずかしい気がした。しかし、そんなことは言ってられなかった。ここは勇気を振り絞って可能性にかけてみることにした。
妹と二人で「おばあちゃん、目を覚ましてね。待っています」とか「早く元気になってまた一緒に、どこかに遊びに行こうね」などと吹き込んだテープに、祖母の大好きだった美川憲一の「柳ケ瀬ブルース」をカップリングして看護師に渡した。いそがしいだろうに、看護師はすぐにデッキに入れて、祖母の耳元で流してくれた。
その後は、いつ行っても、必ず私か多恵子か美川憲一の声が流れていた。悲しい集中治療室の中に流れる自分たちの声と柳ケ瀬ブルースに、ほんの少し笑えた。祖母に聞こえてるなら、きっと嬉しそうにそして面白がってころころと笑っているはずだ。表情も次第に和らいで、楽そうな表情だった。きっと、表情に出せないだけで、祖母は心の中で笑ってる、そう信じる力がわいてきた。
曜子叔母は、「柳ケ瀬ブルース」が病室に流れていることに嫌な顔はしなかった。「聞こえてるといいよねぇ」とか「目を覚ましたら、もう聞きあきたわ、とか言いそう」なんていって、明るく努めていた。けれど、時々何かに取りつかれたように、急に吐き気を催してトイレに駆け込んでいた。
一方、母は食事をなかなかとろうとしなくなった。思いつめてため息ばかりついている。祖母が倒れてそろそろ一月が経とうとしていた。何とか希望を持ちたいと自分を奮い立たせている様子を見せることもあったが、ともすれば背を丸くして沈んだ面もちを見せていた。短期間で人がこんなにやせてしまうものかと思うほど、肩幅もせまく、一回りも二回りも小さくなったような気がした。
学校が終わって病院にいそぐ。いつも通り集中治療室の入り口で、滅菌スリッパに履きかえ白衣を着てキャップをかぶると、重いカーテンをよけて中に入る。カーテンで仕切られたいくつものベッドが壁に頭をつけて並び、それぞれに微かに電子音を立てている。近づけば次第に聞こえてくる自分の声に、もうすでに気恥ずかしさも覚えないようになっていた。
カーテンをあけて中を覗くと、夕焼けの光が照らす病室で、母がぽつんと一人座っていた。祖母の手をじっと握って、祖母の顔を静かに見つめている。母の横顔は悲壮感を押し殺した強さで、かえって脆く崩れそうな危うさを見せていた。
「お母さん」
静かに声をかけると、私に振り向いて「ああ、来たの」と呟くように言った。そして、モニターのバイタルサインに目をやった。
「おばあちゃん、心臓が弱かったみたい」
力のない母の言葉に、私も思わずモニターの数字を確認した。脈拍が五十代台を切っている。血圧も低かった。
「先生が、心臓が持つ分だけは、生きられますって……」
母はそれきり口をつぐんでしまった。祖母の顔をじっと見つめる母は、鮮烈にきれいだった。私もこの時、覚悟ができてしまったのかもしれない。ただ、本当に、その時が来て、本当に素直に受け入れられるかは、自分でも量れなかった。
ふと、母が悲しそうに息を漏らした。
「こんな状態なのに、爪はちゃんと伸びるのよ……」
引き出しから小さな爪切りを出して、母は丁寧に祖母の爪をつんだ。
すっかり剃られていたはずの祖母の頭は青みを見せていた。死に向かっている祖母の体は、しかしまっすぐ生きている。そう感じると切なかった。
西側の窓の外は、もうそこまで夜が差し迫っていた。遠い夕焼けを背景に病院の横にある教会の十字架が際立って見える。夕焼けと十字架と、そして母親の爪をつむ娘の悲しい横顔は、私にはとても美しく見えた。
母の運転する車で帰る道。外の雑音を押しやったような静かな車内だった。
「今日は、曜子姉ちゃん来なかったの?」
「来たけど、愛子叔母さんと一緒に帰っていったの。愛子叔母さんも足が弱ってるし、一人で帰すわけにいかないと思ったんじゃないかしら。タクシーで帰るって言うから、お母さんはもうちょっとゆっくりおばあちゃんと一緒に居ようと思って……。あんたも学校帰りに寄るって言ってたし」
「うん」と呟くような返事をしてシートに身を沈めた。
ふいに、曜子叔母が愛子大叔母のことを悪く言っていた記憶が甦った。二、三年前だったような気がする。胸に何かが引っ掛かったような気がした。たとえば、肉眼では見えにくい、極めて細かいトゲがささったような、そんなチクリとした感覚だった。
その時は、前触れなくやってきた。
夜の十一時――。
そろそろ寝る準備をしようとしていた頃あいだった。突然電話が鳴った。この頃、我が家はまだ黒電話だった。黒電話の呼び出しベルは、かなりけたたましく響き渡る。父と、母と、多恵子と、私。全員がハッと互いに顔を見合わせた。が、母がすぐに唇を引き締めて受話器をとった。
夜中の電話だ。良い報せなわけがなかった。
受話器を置いて、母は振り向き、
「急いで、すぐに出るから」
祖母が危篤状態になったという報せだった。母はすぐ、曜子叔母に電話をした。
「そうだ、津山の大叔母さんたちは無理だけど、愛子叔母さんだけは近いから間に合うかも」
母がそう言うので、愛子大叔母のところには私が電話した。
「あ、愛子おばちゃん、瑞希です。おばあちゃんが危ないらしいから」
さっさと電話を済ませて出る用意をしたいという焦りも手伝って、全く感情のこもらない事務的な声が出た。
「うん、わかった、すぐ行くわ」とだけ返事があって、互いに受話器を置いた。
その間に、母は寝巻の上にセーターとコートだけひっかけて玄関を開けていた。私も大急ぎで、パジャマの上からしっかりしたウールのニットを着てコートを片手に、飛び出した。
青白い電灯の病院玄関を通る。息を切らしてカーテンを開けると、祖母の周りには医師と看護師が二人立っていた。
「いや、お母さん!」
母のぐらついた声が響いた。
間に合わなかったと思ったらしかったが、看護師が崩れ落ちそうな母の肩を支えた。
「大丈夫ですよ、先ほど一度、心停止しましたけど、先生が処置なさいましたから」
祖母の腕に注射器が刺さったまま固定されていて、ピストンの中にはまだ液剤がたっぷり残っている。モニターの心拍数は、100を超える速さで、どう見ても不自然だった。
母は、祖母の胸に顔をうずめて子供のように泣いた。私たちも、堪えられなくなって、声を上げた。
「いやだ、おばあちゃん、死なないでよぉ」
小さい頃から唯一甘やかしてくれて、何でも願いを叶えてくれていた。だから頼めば、死なないような気がした。おばあちゃんが死ぬわけない、おばあちゃんに不可能はない。そういう子供じみた迷信が、極めて限界を感じさせるここへ来て、なぜか再び私の胸を支配した。
多恵子も、母とは反対側から祖母に抱き付いて、声を上げて泣いている。ここが集中治療室だとか、他にも患者さんがいるんだとか、自分はもういい大人なのだとか、そんな感覚は一切なかった。ただただ、祖母にすがった。「死なないで」とお願いすれば聞いてくれる祖母のはずだったのだ。なのに、どんどん脈が落ち、血圧が落ち、モニターのアラームがヒステリックな高音で空気を切り裂く。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
私たちが気が狂ったように叫ぶので、看護師までもが目頭を押さえた。医師が、冷静に私たちの様子を見て、何事かを判断し、注射器のピストンを押した。
とたんに、アラームが止まり、代わりに祖母の心拍に合わせたピッピッという音が、恐ろしい速さで駆け出す。祖母の胸に頬をつけていた母が、驚いて顔を上げた。
「心臓が、こんなに早く動いて……」
切ない声が、母の口から零れた。
「瑞希」
母が、私を振り返った。
「今しかないから」
母が場所を変わってくれて、私も祖母の胸に頬をつけた。吸盤や管がついているために、ある程度はだけた祖母の肌は、暖かくて柔らかくて、まだ若々しかった。
私の頬の感触を、おばあちゃん、覚えていてねと心で語りかけた。そして、私もおばあちゃんのこの感触を忘れないからと、約束した。多恵子もモニターのある方から身を乗り出し、二人で祖母の胸に頬をつけた。
「お母さん!」
ハスキーな声がして、曜子叔母が駆け込んでくる。医師や看護師をも押しのけ、多恵子を祖母から引きはがして、祖母に抱き付いた。震える手で、祖母の頬を撫でて、顔をくしゃくしゃにして、声にならない息遣いのような悲しい叫び声を何度も漏らしている。かと思えば、ふと足許を見て、
「多恵子ちゃん、点滴の管、踏んでるじゃないの!」
と、多恵子を肘で押しのけた。
ふと、何かを感じた。ヒステリックなはずの曜子叔母の中に、氷のような冷静さを、私はこの時確かに感じていた。
「もう、皆さんおそろいですか?」
医師がそう聞くと、「もう一人、来るはずなんです!」と曜子叔母が言った。医師は、黙ったままそっとピストンを押した。とたんに、祖母の心拍が激しく上がった。まるで、マラソンの後の耳の奥にまで心臓が上がってきているような、そんな感覚を、祖母が今味わっているのだろうと思うと、いたたまれなかった。
愛子大叔母は間にあった。薄いピンク色のハンカチを握ったままの細い指で、祖母の胸元を触った。きれいにネイルされた爪が天井の冷たい蛍光灯を映していた。愛子大叔母の顔は、夜中だというのに、まるで今から食事に出も行くように美しく化粧されていた。
「また! 管踏んでるって言ってるでしょ!!」
曜子叔母が、いらだたしげに多恵子を押した。
多恵子は、管がどうとかそこまで神経が回っておらず、必死に祖母の手を撫でている。急に多恵子が哀れになり、「多恵子、こっちに回っておいで」と管の少ない私側に来させた。
ふたたび祖母のモニターからアラームが響いた。医師が注射器に手を伸ばしかけたその時、ほぼ反射的に、私は呟いていた。
「おばあちゃんが、かわいそう」
注射器のほんの手前で、医師は手を止めた。
「おばあちゃんが、しんどそう。辛そうな顔してるもの」
多恵子も涙の中から声を絞り出した。祖母は少し、眉根を寄せていた。涙が一筋、目じりからこめかみへと流れ落ちるのが見えた。
医師が、父と母の顔を確認するように見た。二人が顔を見合わせて静かに肯いた。医師は、注射器へと伸ばしていた手をひっこめ、アラームの音をミュートにした。
悲しくて静かな波が、白い泡を立てて私の胸を襲った。
「おばあちゃん、ありがとう。たくさん遊んでくれてありがとう」
「おばあちゃんの孫でよかった」
思いつく限りの感謝の言葉を、多恵子と二人で口々に言って祖母の首に抱き付いた。それまで静かだった父が、祖母の耳もとに口を寄せて、何ごとかを一生懸命呟いていた。私には聞き取れなかったが、それは祖母と父だけの会話なのだから、それでいいんだと思った。父は真っ赤な眼をして母と交替した。私たちは足許の方へ移動して、祖母の足を撫でていた。
母がいる側とは反対側のベッドサイドには、声が出ない様子で泣き崩れている曜子叔母とショックを受けているのか何も言葉を発せずにいる愛子大叔母が、ただ立ちつくしていた。
「十一月十八日、午前一時二十八分、ご臨終です」
しばらくは嗚咽しか聞こえなかった。が、突然曜子叔母がえづき始め、急いでトイレに走っていった。母は、静かに祖母の手を握った。
「たった一月だけだったけど、お母さん、私たちに看病させてくれたんだと思うわ。私たちが後悔しないように。だから一月頑張ってくれたんだと思う」
「曜子ちゃんほど、親思いな子はおらんけんね」
愛子大叔母が、急にそんなことを言った。
私たちと同じように、鼻と涙でずるずる言わせている看護師が、清拭の道具を持ってきてくれた。一か月以上も付き合いがあったからここまで一緒に分かち合ってくれるのか、あるいは、感受性が豊かな人なのか、それは分からなかった。看護師としては失格かもしれないが、この場での血縁のない者の涙はありがたい気がした。
曜子叔母がもどってきた。母と曜子叔母は祖母の体を拭くらしい。愛子大叔母も一緒にしたいと申し出た。
清拭がおわると、祖母は丈の長い黒塗りの車に載せられた。病院が呼んでくれた葬儀社の車だった。家の鍵を開けなければならないので、曜子叔母がその車に同乗して、祖母とともに帰宅するということだった。
外に出ると、細雪が舞っていた。さらさらさらさら、優しく私の頬に小さな白いものがふれた。不意に、もっと祖母を大事にできなかったのかという気持ちが沸き起こった。愛してもらうばかりで祖母に何もしてあげられなかったという後悔が、喉元を支配した。雪は音もなく天から降りてくる。私を責めるようにもっともっと厳しく降り注いで、埋めてしまってくれれば、いっそ私も冷たいと叫べたかもしれなかった。けれど、細雪はどこまでも優しく私を包んだ。




