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第9話 その手が求めるもの

 洞窟の中を駆ける。


 背後では砕けた障壁術式の残光が消え、蜘蛛の魔族の咆哮が岩壁を震わせていた。冷気は執拗に追い縋るように洞窟の奥を這い、肌を刺す寒気となってレンリの背中へまとわりついてくる。


 振り返る余裕はない。


 今は一歩でも先へ進むことだけを考えなければならなかった。


「はぁ……っ、はぁ……っ……!」


 肺が焼けるように痛い。


 二日間の逃亡。


 魔力の消耗。


 棺の解析。


 封印解除。


 その全てが今になって身体へ重くのしかかっていた。


 それでも足を止められない。


 止まれば終わる。


 そんなことは嫌というほど理解していた。


 だが、隣を走る少女は違った。


 白銀の髪を揺らしながら、当然のようにレンリの速度へ合わせている。


 呼吸は乱れていない。


 足取りも軽い。


 ごつごつとした岩場を走っているはずなのに、一度たりとも体勢を崩さない。


 まるで何年も、こんなことをし続けてきた人間のようだった。


 いや。


 むしろ訓練された兵士や冒険者の方が近いのかもしれない。


 つい先ほどまで棺の中で眠っていた少女とは、とても思えなかった。


「なんなの、ほんと……」


 思わずそんな言葉が漏れる。


 魔力はほとんど感じない。


 記憶もない。


 本人ですら自分のことを分かっていない。


 それなのに、あの蜘蛛の魔族は明らかに警戒していた。


 何一つ辻褄が合わない。


 考えれば考えるほど分からなくなる。


 その疑問に答えなど見つかりそうもない。


「……ねえ」


 不意に、隣から声がした。


 鈴の音を思わせる静かな声。


 レンリは思わずそちらを見る。


「な、なに? どうしたの?」


 少女は前を向いたまま、小さく首を傾げた。


「どうして……逃げ続ける?」


 レンリは一瞬、自分の耳を疑った。


 どうして逃げるのか。


 そんなことを聞かれるとは思ってもいなかった。


「どうしてって……」


 思わず苦笑が漏れる。


「追われてるからでしょ」


 背後から再び轟音が響く。


 岩壁が砕ける音。


 魔族の咆哮。


 それだけで十分な説明になるはずだった。


 だが少女は納得していないようだった。


 不思議そうに目を瞬かせる。


「あなたの……その魔術なら……」


 そこで言葉が途切れる。


 何を言おうとしたのか分からない。


 だが次の瞬間、その続きを聞く余裕は消し飛んだ。


 足元を白い霜が走る。


 嫌な予感がした。


 そう思った時にはもう遅い。


 洞窟の床が一瞬で凍りついた。


「うわっ!?」


 足が滑る。


 踏ん張る間もなく身体が投げ出された。


 肩から地面へ叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出される。


「っ……!」


 鈍い痛みが走った。


 握っていた少女の手も離れてしまう。


 だが。


 視界の端で白銀の髪が揺れた。


 少女の身体も同じように体勢を崩していたはずだった。


 それなのに。


「……」


 倒れない。


 地面へ手をついたかと思えば、その勢いを利用するように身体を回転させ、そのまま自然な動作で立ち上がっていた。


 あまりにも滑らかだった。


 無意識だったのかもしれない。


 だが、そうであるなら尚更おかしい。


 何度も繰り返した者だけが身につける動きだった。


「へえ……」


 思わず感心してしまう。


「小さい身体して、運動得意なのね」


 少女は自分の身体を見下ろした。


 そして小さく首を傾げる。


 どうやら自覚はないらしい。


 その反応に苦笑しかけて――レンリは顔をしかめた。


 立ち上がれない。


 腕に力が入らない。


 足も鉛のように重かった。


 限界だった。


 魔力が尽きかけている。


 いや。


 もうほとんど尽きていると言った方が正しい。


 身体を動かしているだけで息苦しい。


 ここまで無茶を重ねれば当然だった。


「大丈夫……?」


 いつの間にか、少女はレンリに寄り添うように立っていた。


 紅い瞳が静かにこちらを見つめている。


 だか、心配しているようにも見えない。


 とはいえ、無関心とも違う。


 その微妙な距離感が、どこか不思議だった。


「だ、大丈夫じゃない……かな」


 レンリは力なく笑った。


「魔力を使いすぎた。もう立つだけで精一杯」


 悔しかった。


 出口は見えている。


 あと少しだ。


 あと少し走れば辿り着ける。


 それなのに。


 身体が言うことを聞かない。


 レンリは唇を噛み締める。


 そして少女を見上げた。


「ていうか、あたしのことはいいから!」


 掠れた声で言う。


「あんたは、早く、逃げて――!」


 根拠はなかった。


 だが、この少女なら逃げ切れる気がした。


 理由は分からない。


 何一つ分からないままなのに。


 そう思わせる何かがあった。


「いいから」


 レンリはもう一度言う。


「逃げて」


 少女は黙っていた。


 ただ紅い瞳でこちらを見つめている。


 やがて。


「それは」


 静かな声が響く。


「できない」


 短い言葉だった。


 迷いの感じられない口調。


 レンリが言葉を失った、その時だった。


『ギギイイイイイッ!!』


 怒号が洞窟を震わせる。


 蜘蛛の魔族だ。


 砕けた岩を踏み潰しながら、その巨体が洞窟の奥から姿を現す。


 白い冷気が渦を巻く。


 八つの紅い瞳が獲物を捉える。


 出口までは、もう目と鼻の先だった。


 それなのに。


 間に合わない。


 レンリはそう悟った。


「だから逃げろって言ってるの!」


 レンリは叫んだ。


「もういいから!」


 だが、少女は動かなかった。


 静かに向き直り、迫り来る蜘蛛の魔族を見据える。


 その横顔に恐怖はない。


 勇気とも違う。


 ただ、そこに敵がいるから見ている。


 そんな当たり前の静けさだけがあった。


 白銀の髪が揺れる。


 紅い瞳は、ただ真っ直ぐに魔族へ向けられていた。


『ギギギ……』


 蜘蛛の魔族もまた動かない。


 やはり、警戒している。


 あれほど圧倒的な力を見せていた魔族が、目の前の小さな少女を前にして、未だ距離を測りかねている。


 その事実だけが異様だった。


「それなら……せめて」


 少女が小さく呟く。


「武器を」


「……え?」


 レンリは目を瞬いた。


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 武器。


 こんな状況で。


 そんな言葉が出てくること自体が理解できない。


 背後では冷気が渦を巻いている。


 蜘蛛の魔族は確実に距離を詰めている。


 魔力も残っていない。


 逃げることすら難しい状況だ。


 それなのに少女だけは妙に落ち着いていた。


 まるで、次に何をするべきか最初から決まっているかのように。


「武器を……出して」


 静かな声だった。


 焦りもない。


 恐怖もない。


 ただ必要なものを求めるような口調。


 レンリは思わず少女を見上げる。


「さっき……」


 白銀の髪が揺れる。


「私の……服を出したみたいに」


 洞窟の空気が張り詰める。


 背後では蜘蛛の魔族の冷気が唸りを上げていた。


 終わりは確実に近付いている。


 それなのに。


 少女だけが不思議なほど静かだった。


 まるで武器さえあれば十分だとでも言うように。


『ギギイイイイイッ――!!』


 蜘蛛の魔族の咆哮が洞窟を震わせる。


 冷気が一気に膨れ上がった。


 だが、少女は微動だにしない。


 ただ魔族を見据えたまま、小さく続ける。


「さっきの、魔装術――」


 ひと呼吸。


 それから、ごく当たり前のことを確認するように告げた。


「あなたは、出来るはずだ」

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