第8話 白銀の少女
白銀の少女は一歩前へ出た。
レンリと蜘蛛の魔族の間へ割り込むように立ち、その小さな背中でレンリを庇う。
『……』
魔族は何も言わない。
ただ八つの紅い瞳を細め、その姿を見据えていた。
洞窟を満たしていた冷気が、わずかに揺らぐ。
先ほどまで絶対的な余裕を崩さなかった魔族が、初めて警戒を露わにしていた。
少女は静かだった。
魔族を前にしているというのに、怯える様子もなければ、気負う様子もない。
ただそこに立ち、紅い瞳で巨大な蜘蛛を見上げている。
その姿はあまりにも小さい。
華奢な肩に細い腕。
人間の少女として見ても小柄な部類だろう。
対する蜘蛛の魔族は、洞窟を埋め尽くさんばかりの巨体を誇っていた。
鋭い脚は岩壁へ深々と突き刺さり、白く凍りついた外殻はまるで氷の鎧のようだ。
体格差だけを見れば勝負にもならない。
本来ならば、一瞬で踏み潰される側と踏み潰す側。
それほどまでの差があった。
だが、なぜだろうか。
レンリの目には、少女が劣勢であるようには見えなかった。
むしろ追い詰められているのは蜘蛛の魔族の方ではないかと、そんな錯覚さえ覚える。
白銀の少女がゆっくりと右手を持ち上げる。
その動作は妙に自然だった。
まるで何百回、何千回と繰り返してきた習慣のように。
指先が空を掴む。
何かを握るように。
何かを引き抜くように。
『――ッ』
蜘蛛の魔族が反射的に身を引いた。
今にも振り下ろされる刃を避けようとするかのように。
八つの瞳が見開かれる。
その瞬間だった。
「……あ」
小さな声が漏れる。
驚きとも戸惑いとも違う。
何かに気付いたような声だった。
「……え?」
レンリは思わず目を瞬く。
少女は自分の右手を見つめていた。
そこに存在するはずの何かを探すように。
「……ない」
ぽつりと呟く。
「……武器が」
「は、はい?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
少女はなおも自分の手を見つめている。
まるでそこに剣が存在していた記憶だけが残っているかのように。
その様子が妙に真剣だったせいで、レンリは思わずツッコミを入れずにはいられなかった。
「あるわけないでしょ!」
緊迫した空気も忘れて声を上げる。
「てか、何も着てなかったくらいだし!」
少女は小さく首を傾げた。
納得したのか。
していないのか。
相変わらずよく分からない。
だが、そのやり取りのおかげでレンリは少しだけ冷静さを取り戻した。
蜘蛛の魔族はまだ動かない。
少女の不可解な仕草を警戒している。
今なら隙がある。
レンリは即座に判断した。
「――今だ」
蒼い光が足元を駆ける。
幾何学模様が地面へ刻まれ、複数の術式が重なり合いながら一つの防御陣を形成していく。
魔力が一気に消費される感覚に、レンリは奥歯を噛み締めた。
これが、ほとんど最後の手段。
『何ッ――!?』
蜘蛛の魔族が気付く。
だが遅い。
「天壁術式――展開!」
詠唱と同時に蒼い光が弾けた。
魔力の奔流が洞窟を駆け抜ける。
次の瞬間、巨大な障壁が出現した。
それは壁というより、洞窟を上下に分断する低い天井のようだった。
蒼い光で編まれた防御術式が、レンリと少女を覆い隠す。
『ギイイイッ――小癪なァッ!!』
怒号と共に蜘蛛の脚が振り下ろされた。
轟音。
洞窟全体が震える。
障壁が激しく軋み、蒼い光が波打つ。
だが、その一撃は確かに魔族の動きを止めた。
ほんの一瞬。
瞬きをするよりも短い時間。
それでもレンリには十分だった。
「走るよ!」
叫ぶと同時に、少女の手を掴む。
その瞬間、ひやりとした感触が掌を包んだ。
驚くほど冷たい。
それでいて、その肌は柔らかい。
小さく、華奢で、滑らかな感触が掌を伝う。
思わず、鼓動が跳ねた。
こんな状況で何を考えているんだと、自分でも呆れてしまう。
だが――。
「……え?」
次の瞬間、レンリは思わず目を見開いた。
違和感があった。
少女の手を通して伝わってくる感覚に。
魔力が薄い。
いや。
薄いという表現ですら足りなかった。
ほとんど、魔力の流れを感じられない。
魔術師であるレンリには分かる。
人間も。
魔族も。
生きている限り魔力を持つ。
大小の差はあれど、それは呼吸と同じくらい当たり前のことだ。
だが少女から感じる魔力は、信じられないほど希薄だった。
脳裏に浮かぶのは、つい先ほどまで棺を満たしていた白銀の輝き。
何重にも重なった封印術式。
何百年という歳月。
洞窟を埋め尽くすほどの膨大な魔力。
あれほどの力の中心にいた存在とは思えない。
掌の中にあるのは、どこにでもいる少女の手。
少なくともレンリにはそう思えた。
だからこそ分からない。
なぜ。
何のために。
この少女は、あの棺の中で眠り続けていたのか。
「……ねえ」
不意に声がした。
鈴を転がしたような、静かな声。
少女がこちらを見つめている。
紅い瞳がまっすぐレンリを映していた。
レンリは、はっと我に返る。
「ご、ごめん!」
考えている場合じゃない。
今は生き延びることが先だ。
「こっちへ!」
少女の手を引き、レンリは駆け出した。
少女は抵抗しなかった。
ただ当然のようにその後を追う。
障壁に阻まれて動きを止めている蜘蛛の魔族の足元を抜け、洞窟の出口へ向かって走る。
『ギギギイイイイッ――待てェッ!!』
怒号が洞窟を震わせた。
再び、振り下ろされた脚が障壁へ叩きつけられる。
蒼い光に大きな亀裂が走った。
砕け散った魔力の欠片が、淡い光となって宙を舞う。
長くは保たない。
次の一撃で突破されてもおかしくはなかった。
背後では岩壁が砕ける、その抉れた箇所から冷気が漏れ広がりつつある。
障壁術式が悲鳴を上げていた。
それでもレンリは振り返らない。
止まれば終わる。
それだけは分かっていた。
魔族の咆哮が追いすがる。
洞窟全体が震える。
それでも、レンリは少女の手を離さなかった。
止まれば終わる。
そのことだけを胸に刻みながら、洞窟の出口へ向かって走り続ける。




