第6話 永き眠りの終わり
洞窟の中を、白銀の冷気が埋め尽くしていく。
『ギギギイイイイッ――!!』
蜘蛛の魔族が放つ冷気は、もはや先ほどまでの比ではなかった。
岩壁は白く凍りつき、天井からは無数の氷柱が生み出されていく。障壁術式によって防いでいるはずだというのに、指先から熱が奪われていく感覚は止まらない。
「くっ……!」
レンリは歯を食いしばった。
障壁術式の維持だけでも、膨大な魔力を消費している。それにもかかわらず、冷気は障壁を侵食し、少しずつ身体の自由を奪っていく。
あとどれだけ保つのだろうか。
十分か。
それとも五分か。
いや、もしかすると一分すら残されていないのかもしれない。
『終わりだ、黒髪』
蜘蛛の魔族が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
『我は待った。二日もの間、貴様がどこまで足掻くのかをな』
八つの紅い瞳が、愉悦を滲ませながらレンリを見下ろしていた。
『だが、それもここまでだ』
「まだ……終わってないっての……!」
棺へと添えた手に、力を込める。
淡い蒼色の光は、今なお静かに脈動を続けていた。
自分の魔力に呼応するように。
まるで、眠りの中で誰かが微睡んでいるかのように。
「お願いだから、少しくらい空気読んで起きてくれないかな……」
思わずそんな言葉が零れる。
自分でも馬鹿なことを言っていると思う。
何百年もの時を眠り続けてきた存在が、自分の都合よく目覚めてくれる保証などどこにもないのだから。
それでも――。
この棺だけは、自分を拒絶していない。
それだけは、最初に触れた時から変わらなかった。
『そのようなものに命を預けるか』
「他に手がないんだっての!」
『グギギイッ――ッ、実に愚かだ』
蜘蛛の魔族は嗤う。
『だが、それも悪くない。絶望に縋る姿というものは、実に美しいものだ』
その巨大な口元が、三日月のように歪んだ。
『せめて最後は、その得体の知れぬものと共に我の糧となるがいい』
次の瞬間、蜘蛛の魔族の前方に巨大な魔法陣が展開される。
空気が凍りつく。
いや、空気そのものが悲鳴を上げていると言った方が正しいだろう。
「うそでしょ……」
レンリの表情が引き攣った。
「まだ本気じゃなかったの!?」
『無論』
当然だと言わんばかりに、蜘蛛の魔族は告げる。
『我は貴様を喰らうと言った。それならば、最後の一片まで味わい尽くしてやらねばなるまい』
膨大な冷気が、洞窟の中で渦を巻く。
『ギギッィッッ――ッ、まずは絶望に染まったその顔面から丸齧りしてやろう。芯まで凍った人間の頭は、砕ける時に良い音がするのでな』
障壁術式が軋みを上げ始めていた。
「まずい……!」
この一撃は、防ぎきれない。
たとえ防げたとしても、その時には自分の魔力は底を尽いているだろう。
それで終わりだ。
何もかも。
「はぁ……」
レンリは小さく息を吐いた。
案外、最期というものは呆気ないものなのかもしれない。
怖くないと言えば嘘になる。
まだやりたいことだって沢山あった。
恋だってしたかった。
「まあ……最後まで悪足掻きできたし、少しくらいは格好ついたかな」
小さく苦笑を浮かべる。
そして、棺へと添えていた手に、僅かに力を込めた。
「ごめんね。起こしてあげるなんて言っておいて、どうやら時間切れみたい」
その言葉を聞いていた者は、誰もいなかった。
だが――。
――トクン。
「え?」
指先から伝わる鼓動が、一際強く脈打った。
それは、これまでとは明らかに違うものだった。
トクン。
トクン。
まるで、本物の心臓が脈打つかのように。
淡い蒼色だった光が、その輝きを増していく。
『何――!?』
蜘蛛の魔族の声に、初めて明確な動揺が混じった。
棺の表面を流れる無数の術式が、一斉に輝き始める。
それはまるで、永い眠りから目覚めるための祝福のように。
「これって……」
レンリが目を見開く。
棺の内側から、膨大な魔力が溢れ出していた。
あまりにも穏やかで、それでいて底知れない魔力。
人とも違う。
魔族とも違う。
ただ、どこまでも澄み切った白銀の輝き。
『馬鹿な……封印が、解けるというのか――!?』
蜘蛛の魔族が、思わず後ずさる。
先ほどまで感じていた漠然とした違和感が、本能的な畏怖へと変わっていく。
理解できない。
だが、本能が告げていた。
これだけは、決して目を逸らしてはならないものなのだと。
そして――。
パキッ。
静寂の中、小さな音が響いた。
「今の音……」
棺の表面に刻まれた術式の一部が、淡い光の粒子となって宙へと溶けていく。
一つ。
また一つと。
何百年もの時を刻み続けてきた封印が、静かにその役目を終えようとしていた。
『止めろ……』
蜘蛛の魔族が低く唸る。
『止めろ、黒髪!!』
「今さら止められると思う?」
レンリは、小さく笑った。
「最後まで足掻くって決めたんだから」
眩い白銀の光が、洞窟を包み込む。
その光は、どこまでも優しく、そして美しかった。
まるで永い夜の終わりを告げる、朝焼けのように。
やがて、巨大な棺の蓋が――静かに開かれる。
その中に眠っていたのは、一人の少女だった。
白銀のツインテール。
雪のように白い肌。
人形のように整った顔立ち。
「うそ……」
レンリは、ただ呆然とその姿を見つめていた。
何百年もの時を眠り続けていたとは思えないほど、その姿は美しく、小柄で、そして儚い。
少女の胸が、小さく上下する。
――確かに、生きている。
そして次の瞬間――。
ゆっくりと、その紅き瞳が開かれた。
永き眠りは、今ここに終わりを告げる。




