第5話 凍える選択
――トクン。
再び指先から伝わる小さな鼓動に、レンリは言葉を失った。
「今の……」
錯覚ではない。
確かに、この棺の中で何かが脈打った。
永い時を眠り続けていた何かが、自分の魔力に呼応するように、静かに目覚めようとしている。
「本当に、生きてるっていうの……?」
棺の表面を流れる淡い蒼色の光は、先ほどよりも僅かに強くなっているように見えた。
もし、この中に眠る存在が生きているのだとしたら――。
「いやいやいや! 何百年も棺の中で生きてるとか怖いんだけど!?」
思わず頭を抱える。
魔術師としては興味しかない。
だが、一人の人間としては全力で逃げ出したい案件だった。
何しろ、中に何が眠っているのかさえ分からないのだ。
人間なのか、魔族なのか、それとも全く別の何かなのか。目覚めた瞬間に襲いかかってくる可能性だって十分にある。
「あたし、何でこんなもの見つけちゃったんだろ……」
二日前に戻れるのなら、自室のベッドで二度寝を決め込んでいる自信がある。
だが、現実は非情だった。
『ギギギイッ――! 逃げるという選択肢はないようだぞ』
「っ!」
低く濁った声が洞窟の中へと響く。
蜘蛛の魔族が、その巨大な顎を不気味に軋ませた。
『貴様が何を目覚めさせようとしているのかは知らぬ。だが、その前に貴様を喰らえば済むこと』
「簡単に言ってくれるね!」
蜘蛛の魔族の八つの瞳が、獲物を値踏みするようにレンリを見つめる。
『貴様は既に逃げ場を失っている。洞窟の外へのルートには我が立ち塞がり、そしてこの狭き洞窟の中では、得意の幻術も有効に使えまい』
「それはまあ、その通りなんだけど!」
ぐうの音も出ない正論だった。
そもそも幻術とは、相手の認識を惑わせる魔術である。逃走や攪乱には優れているが、真正面からの戦闘には向かない。
おまけにレンリは、防御術式や封印術式の扱いこそ得意なものの、攻撃魔術はからっきしだ。
戦闘能力だけを見れば、蜘蛛の魔族とは比較にもならない。
『その身に宿す膨大な魔力――噛み締め、我の身体に沁み渡るときの味はいかほどか』
蜘蛛の魔族が、ゆっくりと舌なめずりをする。
『二日もの間、我から逃げ続けたことは褒めてやろう。だが、それもここまでだ』
「そんなこと褒められても全然嬉しくないんだけど!」
『グギギギギッ――!』
不気味な嗤い声と共に、蜘蛛の魔族の全身から膨大な冷気が溢れ出した。
次の瞬間、洞窟の床が一瞬にして白く染まる。
「障壁術式展開!」
レンリは咄嗟に幾重もの蒼い魔法陣を展開する。
障壁へと叩きつけられた冷気が、激しい音を立てた。
「くっ――!?」
凄まじい冷気だった。
障壁そのものを砕くほどではない。だが、その冷気は魔力を侵食するように障壁を伝い、少しずつレンリの身体から熱を奪っていく。
「寒っ……!」
指先の感覚が、僅かに鈍っていく。
障壁を展開しているはずだというのに、その冷気は容赦なく内側へと侵食してきていた。
「うそ……これ、障壁の上から侵食してるの?」
『グギャイイイッ――! 言ったであろう。我が冷気は肉体のみならず、魔力すら凍てつかせる』
「ほんと嫌な能力してるなぁ!」
思わず悪態をつく。
防御術式は攻撃を防ぐことはできても、その維持には常に魔力を消費し続ける。
しかもレンリは、この二日間ほとんど休むことなく山中を逃げ続けていた。
魔力こそ人並み外れているものの、体力はとっくに限界に近い。
このままでは、いずれ魔力も身体も冷気に侵されるだろう。
『終わりだ、黒髪。貴様の命運はここで尽きる』
「誰が終わるかっての!」
強がってみせる。
だが、現実は非情だ。
戦う術はなく、自分の後ろには得体の知れない何かを封じた巨大な棺が眠っている。
「くっそ……本当に最悪」
レンリは顔を引き攣らせた。
学院を卒業して、美味しいものを食べて、たまには家族や友達と旅なんかして――。
そんな普通の人生を送る予定だったのだ。
それがどうして、こんなことになっているのだろう。
「誰か説明してよ、ほんとに!」
もちろん、返事などない。
返ってくるのは、蜘蛛の魔族の嗤い声だけだった。
『解けぬ封印に何かを問うても、返答などあろうものか――だが、まだその封印、解くつもりか』
「ふん、そのつもりだけど」
『貴様ら人間は、理解できぬものほど手を伸ばしたがる。縋りたがる』
蜘蛛の魔族は棺を見つめ、低く呟く。
『だが、この状況においてそれは――無意味だ』
「そうかもね」
レンリは苦笑を漏らした。
「でも、このままじゃ死ぬんでしょ?」
棺へと視線を向ける。
淡い蒼色の光は、今もなお穏やかに揺らめいていた。
「だったら、最後まで足掻くしかないじゃない?」
何もしないまま喰われるなんて御免だった。
怖くないわけではない。
むしろ怖い。
この棺の中に眠るものが、自分に牙を剥く存在かもしれないのだから。
それでも、不思議と拒絶されているようには感じなかった。
膨大な魔力の流れが、自らの魔力に呼応するように穏やかに揺らめいている。
「それに、あたしは魔術師だっての」
未知の術式を前にして、その先を知りたいと思ってしまう。
それが危険だと分かっていても、手を伸ばしたいと願ってしまう。
それはきっと、どうしようもない性なのだろう。
「最後まで悪足掻きするってのが、昔からのスタンスでね!」
棺へとそっと手を添える。
淡い蒼色の光が、まるで応えるように僅かに揺らめいた。
「何百年も眠ってるなら、起こしてあげるから寝起きに少しくらい助けてくれてもいいでしょ!」
『愚かな――』
「よく言われる」
レンリは小さく笑った。
「でも、それでいい」
たとえこの先に待つものが希望ではなく、絶望だったとしても。
何もしないまま終わるよりは、最後まで足掻いてから終わりたい。
「だったら――あたしは、この封印を解く」
『その前に、貴様を喰らう』
「やだね。何もしないで死ぬのはごめんだね!」
次の瞬間だった。
『ギギギイッ――! その前に、命ごと凍てつかせてくれる!』
蜘蛛の魔族の全身から、先ほどとは比較にならないほどの冷気が溢れ出す。
洞窟の岩壁が軋みを上げ、白銀の氷が一瞬にして広がっていく。
「やばっ!? これ以上に本気あるの!?」
『当然だ。貴様が最後まで足掻くというのであれば、我もまた最後まで貴様を喰らおう』
足元から這い上がる冷気が、少しずつレンリの身体から熱を奪っていく。
障壁術式を維持するだけでも膨大な魔力を消費しているというのに、その魔力さえも凍てつかせようとしていた。
「くっ……!」
それでも、レンリは棺から手を離さなかった。
「最後まで足掻くって、決めたんだ」
たとえ、その先に待つものが希望ではなく絶望だったとしても。
命を賭してでも、この封印を解く。
それが、レンリの選んだ答えだった。
だが、この選択が何をもたらすのかを、この時のレンリはまだ知らない。
静まり返った洞窟の中で、巨大な棺だけが静かに脈動を続けていた――。




