第4話 静かに揺らめく鼓動
淡い蒼色の光が、巨大な棺の表面を静かに駆け巡っていた。
「なんなの、これ……」
レンリは思わず息を呑む。
先ほどまで沈黙を守っていた術式が、今は僅かに揺らめき、レンリの魔力に応えるような反応を見せている。棺へと添えた指先からは、膨大な魔力の奔流が伝わってきた。
それは決して荒々しいものではない。
大河のように悠久の時を流れ続ける、穏やかで、どこか懐かしさすら感じさせる魔力だった。
「これだけの魔力を、何百年も維持してたってこと……?」
あり得ない。
封印術式は、永遠ではない。どれほど優れた術者が施したものであっても、時と共に綻び、やがては失われていくものだ。
だからこそ、封印を維持するためには定期的な魔力の補充や、術式の修復が必要になる。
だが、この棺にはそれが見当たらない。
まるで、自らが魔力を循環させ、生き続けているかのようだった。
「いやしかし、これ本当に人間が作ったの?」
思わず呟く。
術式の構築はあまりにも美しい。
一切の無駄がなく、それでいて幾つもの術式が互いを補完し合い、一つの完成された存在としてそこに在る。
レンリが知る多くの大魔術師の術式より、これは遥かに洗練されていた。
「こんなものを作った人、絶対変人だよ……」
呆れたように苦笑を浮かべる。
恐ろしいと思う。
触れてはいけないものだということも分かる。
それでも、魔術師である以上、この未知を前にして目を逸らすことなどできなかった。
「それに、どうせ外に出たところで蜘蛛が待ってるんだし」
このまま逃げたところで、結末は変わらない。
ならば最後まで足掻くだけだ。
「解析術式展開」
幾重もの蒼い魔法陣が、レンリの周囲へと展開される。
棺を傷つけぬよう、細い糸を紡ぐように少しずつ術式を読み解いていく。
「第一階層は封印術式……その下に魔力循環の補助術式。それに何か別の術式まで混じってる?」
解析を進めるほどに、レンリの表情は真剣なものへと変わっていく。
「何これ……維持術式? でも何を維持してるの?」
少なくとも、ただの魔術道具ではない。
膨大な魔力を循環させ続け、それを維持し続ける理由がある。
「何だこれ――生き物――?」
ふと、棺の奥底から微かな温もりが伝わってくる。
それは錯覚かと思うほど小さなものだった。
だが、確かに感じた。
静かに眠る誰かの寝息のような、穏やかな温もりを。
「まさか、本当に何か生きてるの?」
その時だった。
『グギギキィ――』
低く濁った声が、洞窟の中へと響く。
「っ!」
レンリが振り返る。
いつの間にか、蜘蛛の魔族は洞窟の入口から数歩だけ足を踏み入れていた。
八つの紅い瞳が、レンリと巨大な棺とを静かに見据えている。
「ちょっ――もう来たのっ!?」
『貴様の幻術――なかなかに厄介であったぞ。黒髪と思い、少々侮っていたわ』
「そりゃ、そんだけ目ん玉あったら幻術の類はよく効くでしょう?」
『グキャギャッ――! 言っていろ』
蜘蛛の魔族は低く嗤う。
その声音には、獲物を追い詰めた捕食者の余裕があった。
レンリなど、いつでも喰らうことができる。
そう言わんばかりの態度だった。
だが、その視線だけは、僅かに棺へと向けられている。
『……何だ、その妙なものは』
「妙なもの?」
『この洞窟を満たすほどの魔力を留めていながら、その気配は我ら魔族とも違う』
蜘蛛の魔族は、静かに目を細める。
『かといって、人間の魔術とも異なる。何とも形容し難いもの』
「魔族でも分からないんだ?」
『知らぬ』
短く言い切る。
『だが、これほどの封印を施さねばならぬ存在であるならば、尋常のものではあるまい』
それは恐怖というよりも、本能が抱く違和感なのだろうか。
不用意に触れてはならないもの。
ただ漠然と、そう感じているに過ぎない。
しかし――。
『もっとも、それは我には関係のないこと』
八つの瞳が、再びレンリへと向けられる。
『貴様を喰らうことに変わりはない』
「うわぁ、ぶれないね」
『グギイイイイッ――! 我はいま、空腹だ』
蜘蛛の魔族の全身から、冷気が溢れ出す。
洞窟の床が白く凍りつき始めていた。
『それに、貴様も――なかなか興味深い』
「はい?」
『そう、貴様こそ何者だ――? 黒髪でありながら、その身に膨大な魔力を宿す存在』
紅い瞳が、獲物を吟味するように細められる。
『その芳醇な魔力の香り……たまらぬな』
蜘蛛の魔族は、歓喜するように咆哮を上げた。
『ギギイイイイイッ! 我は、もはやこの飢餓を抑えられぬ――!』
「最初から抑える気なんて無いくせに」
『そう! 貴様を喰らえば、我はさらなる高みへと至るだろう』
「あんたはよくても、あたしはよくないの!」
『安心するがよい。苦しむのは最初だけだ』
「全然安心できない!」
しかし、不思議なことに蜘蛛の魔族は飛びかかってこようとはしない。ただ、獲物を追い詰めるように、じりじりと距離を詰めてくるだけだった。
棺を警戒しているのだろうか。
だが、それ以上にレンリを格下の存在と見ているのは明らかだった。
封印が何であれ、それが目覚める前に始末してしまえばいい。
そんな余裕が、その姿からはありありと伝わってくる。
「くっそ……本当に最悪だ」
レンリは顔を引き攣らせる。
外に逃げても駄目。
中にいても駄目。
本当に八方塞がりだった。
それでも、不思議と棺へと添えた手を離そうとは思わない。
膨大な魔力の流れが、自らの魔力に呼応するように穏やかに揺らめいている。
「……あたしの魔力に反応してる?」
封印へと触れた瞬間から、その流れは少しずつ変化しているように感じられた。
失われた何かを補うように。
あるいは、長い眠りから目覚めようとしているかのように。
「本当に、生きてるみたいだ」
そう呟いた、その時だった。
――トクン。
「え?」
指先から、小さな鼓動が伝わってくる。
それはほんの一瞬の出来事だった。
だが、確かに感じた。
心臓が脈打つような、小さな温もり。
「今の……」
錯覚ではない。
この棺の中で、何かが鼓動した。
永い眠りの中で、静かに目覚めの時を待っていたかのように。
レンリは息を呑み、棺を見つめる。
その蒼い光は、まるで彼女の魔力に呼応するように、静かに揺らめいていた。




