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第46話 異形の片鱗

 軋みが、また響いた。


 先ほどよりも長く続いたその音は、船体の奥深くを擦るようにして広間へ伝わり、床をわずかに震わせた。


 足元から伝わってくる振動を感じながら、レンリは静かに近づいてくるヴァグラゲルを見つめる。


 先ほどまで亡霊たちを操っていたときと同じように、彼の表情には余裕が残っていた。


 けれど、その瞳に宿るものだけが僅かに変わっている。


「まったく……実に、面白いですね」


 ヴァグラゲルは、どこか芝居がかった声でそう言った。


 声は相変わらず滑らかだった。


 けれど、亡霊たちを眺めていたときの軽い愉悦は薄れ、代わりに、こちらの出方を窺うような響きが混じっている。


 その変化をレンリが捉えた直後、ヴァグラゲルの背後で白いものがゆっくりと持ち上がった。


 腕のようにも見える。


 だが、関節がない。


 白い表面には濡れたような光沢があり、照明を受けるたびに粘つくような輝きを返している。


 人間の身体から生えているものとは思えない異様な太さが、ヴァグラゲルの背後でゆっくりと身を起こし、その先端がこちらへ向いた。


「……来る」


 リセナの声が落ちた。


 直後、白いものが空間を裂くように伸びた。


「なっ……!? 簡易障壁(ゼラ・デヅン)――!」


 凄まじい勢いで迫ってくるそれを見て、レンリは反射的に防御魔術を展開した。


 淡い光の膜が二人の前に広がる。けれど、白い触手は障壁へ真正面からぶつかることなく、途中で軌道を変えた。


 大きく弧を描きながら障壁の側面を抜け、そのままリセナへと襲いかかる。


「リセナ――!」


 レンリが声を上げるより早く、リセナはすでに動いていた。


 手にした霊短剣ハザルシャが青白い光を引きながら振り抜かれ、迫る触手を正確に捉える。


 亡霊を斬ったときと同じように、刃が触れた場所から存在そのものが崩れていく――レンリは、無意識のうちにそう予想していた。


 しかし、何も起こらなかった。


「あっ……?」


 レンリは思わず声を漏らした。


 ハザルシャの刃先は白い表面を通り抜けただけで、傷どころか、触れた痕跡すら残していなかった。


 リセナはすぐさま身を翻し、紙一重で触手をかわす。


 白いそれは勢いを失うことなく伸び続け、空中で大きくしなりながら、再びリセナへ向かってきた。


 リセナが身を引く。


 その目が、一瞬だけ手元のハザルシャへ向けられた。


 レンリは、その光景を見ながら理解した。


 ハザルシャが干渉できるのは、あくまで霊素子によって構成された存在だ。


 目の前の白い触手には、それが通じない。


 つまり、あの触手は亡霊とは違う。


 白い触手は空気を押し退けるようにして伸びていた。


 暗い広間の中でも、その白い表面だけが照明をわずかに拾い、異様な存在感を放っている。


 避けるたびに風が生まれ、その重さが床板へ伝わってくる。


 目の前にあるそれは、確かな質量を持って、この世界に存在している。


 この触手は、霊短剣では斬れない。


「リセナ、それは通らない。霊短剣は――」


「わかってる」


 短い返事が返ってきた。


 次の攻撃をかわしながら、リセナは握っていたハザルシャから手を離した。


 青白い刃は、その場に留まることなく輪郭を失っていく。


 光が静かに薄れ、やがてリセナの手から完全に消えた。


 その直後にも、白い触手が床を擦るようにして迫る。


 リセナは咄嗟に身をかがめ、その下を抜けた。


 足元で、何かが光を返した。


 リセナは反射的に手を伸ばし、指先へ触れたものをそのまま掴む。


 短い刃物だった。


 大広間の混乱の中で床に落ちたものだろう。


 魔装でもなければ、特殊な術式が刻まれているわけでもない。


 ただの小さな刃物に過ぎない。


 それでも、リセナの手に収まった瞬間、その刃は迷いなく振るわれた。


 触手が迫る。


 リセナはさらに身を低くしてその下を抜け、身体を反転させた。


 そのまま振り抜く。


 刃が確かに、白い表面へ食い込んだ。


 白い触手の表面に浅い裂傷が走る。


「……す、すご……ただの刃物で……」


 レンリは息を呑んだ。


 白い触手には、確かな傷が刻まれていた。


 やはり――あの触手は霊ではない。


 確かに、この世界に存在する肉体だ。


 ならば、あの男はいったい何者なのか。


 レンリは防御魔術越しに、ヴァグラゲルの姿を見据えた。


 ヴァグラゲルはその視線に気付いたように、レンリを一瞥する。


 そして傷ついた触手へ視線を移した。


 そこに浮かんでいたのは、痛みに耐える表情ではなかった。


 予想していなかった結果を目にした者の、冷たい警戒だった。


 白い触手がゆっくりと震え、やがてヴァグラゲルの身体へ引き戻されていく。


「なるほど……魔術師と魔装使いですか。これは、なかなか厄介ですね」


 声に苛立ちはなかった。


 むしろ、得られた情報を楽しむような響きがある。


 その余裕が、かえってレンリには不気味だった。


 ヴァグラゲルの視線が、レンリとリセナの間を静かに往復する。


「予定を変えた方がよさそうだ」


 ヴァグラゲルはそう言うと、広間の奥へ視線を向けた。


 そして、そのまま踵を返す。


「ま、待てっ――!」


 レンリが声を上げる。


 けれど、ヴァグラゲルは振り返らなかった。


 封鎖されていたはずの扉が、いつの間にか開いている。


 その向こうには、照明の届かない暗い通路が続いていた。


 ヴァグラゲルの姿が、その闇へ溶けるように遠ざかっていく。


「……レンリ。追いかける」


 リセナが短く告げた。


「うん。そうだね」


 レンリは頷いた。


 そのときだった。


 開かれた扉が、軋むような音を立てた。


 ゆっくりと、閉じようとしている。


「リセナ、急ごう」


 二人は大広間を駆け抜け、扉の向こうへ飛び込んだ。


 直後、背後で扉が閉じた。


 空気が変わった。


 大広間を出た先の通路は、肌にまとわりつくような湿り気に満ちている。


 どこから流れてきたのか、遠くから海水を思わせる匂いが漂っていた。


 廊下には照明が灯されている。


 それなのに、奥へ進むほど暗闇が濃くなっていく。


 まるで、灯りそのものが届かなくなっているようだった。


 また、船体の軋む音が響いた。


 今度は、さっきより近い。


 レンリは思わず足を緩めかけたが、前を行くリセナは止まらない。


 二人は足を止めることなく、暗い通路の奥へと進んでいった。

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