第42話 闇に踊るもの
最初の悲鳴が消えないうちに、別の場所で金属音が弾けた。
暗闇の中を、複数の何かが走っている。
床を蹴る音が重なり、倒れた椅子が床を擦る音が続いた。
誰かの手から落ちたグラスが砕け、細かな破片が靴底に踏まれて乾いた音を立てる。
ほんの少し前まで、そこには音楽があった。
笑い声があり、色とりどりの衣装があり、誰もが今夜という時間を楽しんでいた。
それが、もうない。
同じ場所なのに、まるで別の場所へ変わってしまったようだった。
レンリの目の前で、何かが光った。
一瞬だった。
照明の消えた大広間では、淡い光を拾ったものだけが異様なほど鮮明に見える。
これは、何だ。
そう考えた直後、それが刃物だと分かった。
避けるには近すぎる。
レンリは反射的に目を閉じた。
けれど、いつまで待っても、身体を裂く痛みは来なかった。
代わりに、すぐ目の前で何かが止まっていた。
恐る恐る目を開く。
白い腕があった。
リセナだった。
いつの間にか身体を滑り込ませた彼女が、刃を握った相手の手首を掴んでいる。
相手が力を込めても、その腕は微動だにしない。
ただ、握り締めた指だけが、わずかに沈んでいた。
遅れて風圧が頬を撫でた。
レンリの背筋に、冷たいものが走る。
「リ……リセナ……!」
「レンリ、下がって」
鈴の音のように小さく、しかし迷いや戸惑いを感じさせない芯の通った声。
「あっ、ありがと!」
レンリは反射的に後ろへ下がった。
その直後、床板を踏み込む音がした。
ひとつではない。
暗闇の向こうから、別の足音が近づいてくる。
床を伝わった振動が足の裏から身体へ上がってきて、次の攻撃が迫っていることを知らせていた。
考えている暇はない。
レンリは片手を突き出し、詠唱する。
「――簡易障壁!」
淡い光が弧を描き、レンリとリセナの前に薄い魔力の壁が立ち上がった。
ほとんど同時に、刃が叩きつけられる。
硬質な音が響き、術式の表面から火花のような光が散った。
その一瞬だけ、暗闇の中に襲撃者の姿が浮かび上がる。
レンリは障壁の位置をずらした。
「リセナ、その手を離して」
声が届くより早く、リセナの指が開いた。
掴まれていた相手の腕が自由になる。
直後、魔力の壁が相手の身体を横から押し流した。
男は数歩分の距離を転がった。
それでも、すぐに立ち上がる。
そして何事もなかったように、刃を構え直した。
レンリは息を呑んだ。
その男には見覚えがあった。
舞踏会で見た衣装も、髪型も、顔立ちも間違いない。
さっきまで同じ場所にいた乗客だ。
だからこそ、余計に分からなかった。
なぜ、この人は今、自分たちへ刃を向けているのか。
刃を振るうたび、その軌道は明確にこちらの身体を狙っている。
防御術式が衝撃を受ける。
また刃が来る。
レンリは障壁を傾けた。
刃が表面を滑り、床へ逸れる。
「レンリ、右からも」
声に反応して振り向く。
白銀の髪が、暗闇の中を流れた。
右側から別の刃が迫っている。
リセナが身を沈めた。
刃先が肩先を掠め、そのまま空を切る。
次の瞬間には、リセナは相手の懐へ入り込んでいた。
伸びてきた腕を外側へ払い、手首を掴む。
そのまま身体を反転させながら腰を落とし、相手の勢いを引き込んだ。
男の身体が宙へ浮き、床へ叩きつけられる。
鈍い音が響いた。
それでも男は止まらなかった。
床に手をつくこともなく身体を捻り、倒れた勢いを利用して立ち上がる。
その動作には、痛みをこらえる様子も、立て直すための間もなかった。
レンリは一瞬、言葉を失った。
あれだけの勢いで床に叩きつけられたのに。
深く考える間もなく、次の足音が迫ってきた。
レンリは振り返り、術式を展開する。
光の壁が生まれ、直後に激しい衝撃が走った。
防御術式が軋む。
向こう側に、一人。
その隣にも、一人。
さらに奥にも、人影がある。
暗闇の中で、刃だけが次々と光を拾っていた。
それだけではない。
大広間のあちこちから、人の気配が押し寄せてくる。
逃げようとする人々がいる。
誰かを助けようとする人もいる。
その間を縫うように、武器を手にした者たちが近づいてくる。
そのうちの一人が、いつの間にか距離を詰めていた。
レンリは、思わず目を凝らした。
何人いるのか分からない。
このままでは、防ぎきれない。
その状況を理解した瞬間、別の考えが頭をよぎった。
もし、ここでリセナが魔装を使ったら。
その力がどれほど強いか、レンリは知っている。
けれど、ここには襲ってくる者たちだけがいるわけではない。
逃げ惑う乗客もいれば、倒れて動けない人もいる。
誰かを助けようとしている人だっている。
これだけ人が密集した場所では、魔装の力が誰を巻き込むことになるか分からない。
レンリは視線を戻した。
今は、使うべきではない。
リセナも理解しているのだろう。
何も言わない。
ただ、迫ってきた敵へ向き直る。
その動きに迷いはなかった。
白銀の髪が揺れる。
迫る刃をかわし、腕を取る。
相手の重心が崩れたところへ身体を滑り込ませ、その勢いを利用して投げ飛ばす。
動作に無駄がない。
レンリは障壁を維持しながら、その姿を目で追った。
どうして、こんな動きができるのだろう。
そんな疑問が、ふと胸に浮かんだ。
けれど、答えを考えている暇はなかった。
また刃が来る。
レンリは術式を傾けた。
刃が光の表面を滑り、狙いを外れて床へ落ちる。
その隙に、レンリも足を引いた。
肺へ入ってくる空気が熱い。
冷たい魔力が大広間に満ちている。
その中を人々が走り、叫び、ぶつかり合っていた。
恐怖で熱を持った空気と、魔術によって震える空気が混ざり、喉の奥まで息苦しい。
悲鳴が近づく。
次の瞬間には遠ざかる。
どこかで椅子が倒れ、別の場所でガラスが砕ける。
広い大広間を音が四方へ逃げていくせいで、どこに誰がいるのか、ますます分からなくなっていた。
レンリは指先に力を込めた。
防御術式を広げすぎれば、敵だけでなく周囲の人間まで巻き込む可能性がある。
ならば、刃の軌道を逸らすために、必要な場所へ必要なだけ防御術式を置く。
それしかない。
「また、左からも」
リセナの声がした。
レンリは指を払う。
魔力の壁が闇の中へ滑り込んだ。
襲いかかってきた男は、それを避けようともしなかった。
正面から突っ込み、身体ごと壁へぶつかる。
防御術式が震え、男の身体が大きく弾かれた。
だが、そのすぐ後ろから別の人影が現れた。
リセナが振り返る。
刃が閃いた。
彼女は身体をわずかに傾け、刃先をかわした。
その動きに、違和感はなかった。
けれど、その直後だった。
レンリは目を疑った。
刃を振り切った男の身体が、その勢いを受け止めることなく動いていた。
肩が不自然なところまで回る。
身体全体が、それにつられるように捻れる。
それでも倒れない。
足がもつれることもない。
捻れた身体を、そのまま元へ戻した。
何事もなかったように。
レンリの胸の奥へ、冷たい違和感が落ちた。
今のは、何だ。
ただの人間ではない。
そう思った。
けれど、それ以上は分からない。
操られているのかもしれない。
何らかの術式で身体を動かされているのかもしれない。
あるいは、もっと別の何かなのか。
答えが出る前に、男が再び踏み込んできた。
レンリは防御術式を展開する。
衝撃が走った。
淡い光が弾け、その向こうで男の顔が揺れる。
笑っている。
けれど、その笑みは笑顔には見えなかった。
口元だけが妙な形に吊り上がっている。
恐怖もない。
苦痛もない。
だからといって、楽しんでいるようにも見えない。
ただ、そういう形に顔が動いている。
それだけだった。
レンリは息を呑んだ。
違う。
この人たちは、何かがおかしい。
攻撃は本気だ。
こちらを殺すつもりで襲ってきている。
そのことだけは、間違いない。
なのに、その身体だけが、人間の動きから少しずつ外れている。
まるで――。
何か別のものが、人間の身体を動かしているような。
そんな考えが浮かんだ。
しかしレンリは、すぐにそれを打ち消した。
――いや、違う。
また刃が振り下ろされる。
防御術式が受け止めた。
――たぶん、逆だ。
遠くで金属音が響き、別の場所から悲鳴が上がる。
大広間は、誰かの声が誰かの声を消してしまうほどの混沌に包まれていた。
その中心で、レンリは術式を維持し続ける。
襲ってくる者たちを止める。
敵意のない人たちを巻き込まないように。
それだけを考えながら、暗闇の中で次の動きを探した。
敵の正体は、まだ分からない。
ただ一つだけ。
もう、襲ってくる者たちを普通の人間として見ることはできなかった。




