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第43話 照らす正体

 防御術式の向こうで、男が刃を振り上げた。


 薄い光の膜がその動きを受け止める。


 衝撃が術式全体へ伝わり、淡い光が水面のように揺れた。


 男は構わず刃を押し込んでくる。


 握った手にも、踏み込んだ足にも、ためらいはない。


 レンリは障壁越しに、その姿を見つめた。


 先ほどから、何度も同じことが起きている。


 倒しても立ち上がる。


 姿勢を崩しても、動きが止まらない。


 痛みに反応する様子もほとんどなく、ただこちらへ向かってくる。


 それだけなら、何かの術式で身体能力を強化されている可能性もある。


 けれど、目の前の男を見ていると、それだけでは説明できない違和感が残った。


 人間の身体なら、動きには限界がある。


 筋肉が引かれ、関節が動き、重心が移る。


 その一つひとつが繋がって、ようやく人間の動きになる。


 なのに、この男の動きには、その一つひとつが繋がっていない瞬間がある。


 刃を振り切った腕が止まらない。


 身体まで、その勢いに引きずられていく。


 上半身の動きに足が遅れても、倒れることなく次の一歩へ移る。


 レンリは、障壁へ集中していた意識をほんの少しだけずらした。


 目の前の男ではなく、その姿を形作っているものへ、意識を向けた。


 魔力の流れを探る。


 身体の周囲には、わずかな魔力が漂っている。


 けれど、それは人間が魔術を使うときに生じるものとは違った。


 身体の内側から流れ出てくるはずの魔力が、どこか外側を流れている。


 まるで、その身体を包むように。


「……これ、だ」


 声が漏れた。


 男が刃を引く。


 レンリは反射的に障壁を傾けた。


 刃が光の膜に触れ、そのまま横へ流れていく。


 男の身体が一歩踏み込んだところで、リセナが横から腕を取った。


 白銀の少女は、相手の勢いを殺すことなく身体を回す。


 男の足が床から離れた。


 その身体が宙を回り、床へ落ちる。


 レンリはその隙に、もう一度魔力を探った。


 やはり同じだ。


 人間の身体そのものから感じるはずの魔力の気配が薄い。


 代わりに、表面を覆うような何かがある。


 もしも――。


 もしも、この姿そのものが偽りだったとしたら。


 レンリの脳裏に、その考えが浮かんだ。


 まだ確信はない。


 だからこそ、確かめる必要がある。


 レンリは右手を胸元まで上げた。


 指先に淡い魔力が集まる。


 男の姿を覆っているものへ、意識を集中させた。


 ただ――この姿を形作っているものだけを、見極める。


「リセナ!」


 呼ぶと、少女が振り向いた。


「少しだけ、時間を作って」


 それだけ伝える。


 リセナは何も訊かず、ただ小さく頷いた。


 それでも、その視線がほんの一瞬だけ、男の身体の縁を辿った。


 まるで、レンリと同じものを、彼女もどこかで感じ取っているかのように。


 倒れていた男が起き上がる。


 その瞬間、リセナが踏み込んだ。


 男の刃が振り下ろされる。


 白銀の髪が揺れ、リセナの身体が刃の下へ滑り込んだ。


 腕を払い、肩を押す。


 男の身体が横へ流れ、床を踏み直した。


 その間に、レンリは術式を組み上げる。


 複雑な構成ではない。


 敵意を持つ者は、一人ではない。


 ならば、一人ずつ見破っている暇はなかった。


 レンリは術式の構造を組み替え、同じ光を周囲へ広げられる形へ整えていく。


 さらに、周囲にいる敵意のない人々には悪影響がないようにしなければならない。


 指先に淡い光が集まった。


 レンリは男へ向けて手を伸ばした。


「――擬装照明(リョス・セラーゲ)」


 レンリの指先から伸びる魔力の光が、男の身体を包んだ。


 何の音もしない。


 ただ、男の周囲の空気だけが、ゆっくりと揺らいだ。


 その揺らぎを見た瞬間、レンリの喉が小さく鳴った。


 髪が崩れる。


 顔の輪郭が滲む。


 衣服の縫い目が、意味を失っていく。


 まるで、水面に映った姿が波紋で乱れていくように、男の身体全体が形を保てなくなっていく。


 それでも、レンリはすぐには言葉にしなかった。


 目に映るものが、まだ現実だと信じきれなかった。


 半透明の輪郭。


 その向こうに透けて見える、大広間の壁。


 足元には、影すらない。


 白く濁った輪郭の奥、そこにぼんやりと人の顔だけが浮かんでいる。


 目は、開いていた。


 けれど、それは生きている人間の目ではない。


 何も映していない。


 何も探していない。


 ただ、そこに空いているだけの穴のようだった。


 男の姿をしていたものが、ゆっくりと首を傾ける。


 レンリは、その動きから目を逸らせなかった。


 魔族ではない。


 人間でもない。


 そこにあるのは、身体という形を借りているだけの、何かだった。


「……幽霊(ゴースト)……? いや、違う」


 声が、自分のものとは思えないほど掠れていた。


 レンリは、その違いをうまく言葉にできなかった。


 ただ、目の前のそれを見ていると、はっきりと分かることがあった。


 これは、迷ってここにいるのではない。


 留まって、誰かを待っているのでもない。


 ただ、人間の形を写し取って、動かされている。


「――亡霊(ファントム)」


 その言葉が、自分の口からこぼれ落ちた瞬間、ようやく違和感のすべてが一本の線に繋がった。


 動きの噛み合わなさも。


 感情の伴わない笑みも。


 痛みへの無反応も。


 全部、これなら説明がつく。


「なるほど……」


 息を吐き出しながら、レンリは掌を広げた。


「さっきまでの違和感の正体は、これか」


 声に、微かな苦さが滲んだ。


 答えが分かったからといって、安堵できる種類のものではなかった。


 レンリは腕を掲げ、身体を巡らせながら術式を広げていく。


 擬装を照らし出す光が、大広間の暗闇へいくつも走った。


 最初は、遠くで小さな悲鳴が上がった。


 次に、もっと近くで。


 誰かが「その姿は――」と言いかけて、言葉を失う声が聞こえた。


 レンリが視線を巡らせると、大広間のあちこちで、同じ揺らぎが広がっていた。


 刃物を構え敵意を帯びた人影の輪郭が、次々と溶けていく。


 髪が、服が、顔が、意味を失っていく。


 その内側から、青白く透けた身体が滲み出てくる。


 暗闇だったはずの大広間が、いつの間にか、無数の淡い光でひたひたと満たされていた。


 人の形をした灯りが、そこかしこに浮かんでいる。


 美しいとさえ思えるほどの光景だった。


 けれど、その正体を知っているレンリには、それが恐ろしいものにしか見えなかった。


 乗客たちの悲鳴が、質を変えていく。


 襲われる恐怖から、得体の知れないものへの恐怖へ。


 誰かが床に座り込み、また誰かは仲間の名を呼びながら後ずさっていた。


「……レンリ。これは……」


 隣で、リセナがぽつりと呟いた。


 その声には、これまで聞いたことのない色があった。


 怯えではない。


 ただ、敵の正体を見定めようとする、静かな響きだった。


 レンリはリセナを見た。


「亡霊……悪意のある幽霊ってとこかな」


 白銀の少女は、揺らぎ続ける輪郭の群れを見つめたまま、動かなかった。


 まるで、その光景のどこかに、自分の知っている何かを探しているように。


 レンリは、それ以上を訊かなかった。


 今は、その余裕がない。


「でも、マズイね……」


「数が、多い」


「そう」


 亡霊たちは、その正体を晒されてもなお、乗客たちに向かって腕を伸ばし続けている。


 半透明で、細く長い腕だった。


 伸ばされた腕を見て、レンリは知識の中にある亡霊の性質を思い出した。


 亡霊に触れられれば、魂に傷がつく。


 その苦痛は、刃物で刺されるよりも遙かに辛く、後にまで残るものだと。


 レンリは息を呑んだ。


 この数の亡霊が、次々と乗客へ手を伸ばしている。


 止めなければ。


 そう思った瞬間、低く長い音が響いた。


 船そのものが、軋んでいた。


 レンリはその音を聞きながら、背後の壁へ視線を向ける。


 豪華な装飾。


 磨かれた床。


 舞踏会のために飾られた大広間。


 それらすべてが、急に別のものに見えてきた。


 豪華客船グラシャラボラス――。


 その姿さえも、偽りなのだとしたら。


 遠くで、また船体が軋んだ。


 まるで、深い海の底から、何かが目を覚ましたような音だった。

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