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第41話 狂宴の幕開け

 男は口を閉じ、喉の奥で小さく笑った。


 暗闇に包まれた大広間には、まだ舞踏会の余韻が残っている。


 床には踊りの途中で止まった人々が立ち尽くし、倒れた椅子の向こうでは、何が起きたのか理解できないまま周囲を見回している者もいた。


 照明は戻らない。


 楽団も沈黙したままだった。


 その異様な静けさの中で、壇上に立つ男だけが、淡い光を身に纏っている。


 レンリは、握ったままのリセナの手に意識を向けた。


 ひんやりと冷たい。


 けれど、その感触だけは確かだった。


 目に見えるものがほとんどない今だからこそ、触れているという事実が、妙に心強い。


 先ほどまで華やかな音楽に合わせて握っていた手とは違う意味で、その存在を確かめるために、レンリは指先へわずかに力を込めた。


 そのとき、壇上の男が再び口を開いた。


「まずは、名乗っておきましょうか」


 穏やかな声音だった。


 まるで、これから始まることが宴の余興であるかのような口調だった。


「私の名は――ヴァグラゲル」


 その名が、暗闇の大広間へ響く。


「この船を預かる者として、皆様を今宵の遊戯へご招待いたします」


 船を預かる者。


 その言葉に、レンリはわずかに眉を寄せた。


 何者なのか。


 なぜ、この状況を当然のように語れるのか。


 疑問が浮かぶより早く、周囲から困惑した声が上がった。


「遊戯……?」


「何を言っているんだ?」


「照明を戻せ!」


 怒声と戸惑いが入り混じる。


 けれど、ヴァグラゲルはそれらを意に介した様子もない。


「難しいものではありません」


 淡い光の中で、男の笑みが深くなる。


「この大広間から出る必要もありません。皆様には、ただ――最後まで生き残っていただくだけです」


 その言葉の意味を、レンリはすぐには理解できなかった。


 生き残る。


 何から生き残るというのか。


 疑問が形になるより早く、ヴァグラゲルが続けた。


「誰かが生きている限り、宴は続きます。最後の一人が残ったそのときまで――この扉が開くことはありません」


 大広間の周囲に設けられた扉へ、いくつもの視線が向いた。


 誰かが駆け寄り、扉の取っ手を掴む。


 力任せに引こうとする。


 しかし、開かない。


 ガタガタと取っ手が鳴る音だけが、喧騒の中に響いた。


「開けろ!」


 別の男が叫びながら扉を叩いた。


 返ってきたのは、鈍い音だけだった。


 レンリの背筋を、冷たいものが走った。


 ただ照明が消えただけではない。


 この場そのものが、閉じられている。


 そしてヴァグラゲルは、それを当然のこととして語っている。


「もちろん、皆様が互いに何もしなければ――いつまで経っても宴は終わりません」


 そこで男は、わずかに首を傾けた。


「ですから、少しばかり刺激を用意してあります」


 その瞬間だった。


 大広間の奥から、金属が擦れる音が響いた。


 短く、乾いた音。


 直後、鋭い悲鳴が闇を裂いた。


 レンリの視線が反射的に向く。


 暗闇の中に、一人の乗客が立っていた。


 先ほどまで舞踏会を楽しんでいた男だった。


 華やかな衣装に身を包み、周囲と同じように戸惑っていたはずの人物。


 けれど今、その手には短い刃物が握られていた。


「な、何をしている?!」


 近くにいた乗客が、不安そうに声をかける。


 男は答えなかった。


 刃を握った手を、ゆっくりと持ち上げる。


 レンリは息を詰めた。


 殺意。


 そう呼ぶには、あまりにも静かだった。


 怒っているわけでもない。


 怯えているわけでもない。


 ただ、目の前にいる人間へ向けて、手にした刃を動かしている。


「やめろ!」


 誰かが叫んだ。


 男が、一歩踏み出した。


 次の瞬間、刃が閃いた。


 標的になった乗客が咄嗟に身を引く。刃先が衣服を裂き、肩を浅く掠めた。


「きゃああっ!」


 再び、悲鳴が上がった。


 それを合図にしたかのように、大広間のあちこちで人々が動き始める。


 逃げる者。


 倒れた者を助けようとする者。


 恐怖のあまり、周囲を押し退ける者。


 そして――同じように、刃物を取り出す者。


 金属音が重なった。


 一つ。


 二つ。


 さらに奥から、もう一つ。


 レンリの呼吸が止まる。


 さっきの男だけではない。


 暗闇のあちこちで、刃先だけが淡い光を拾っていた。


 一つではない。


 二つでもない。


 さらに、その奥にも――。


 暗闇の中で、何人もの乗客が武器を手にしている。


 しかも、その動きには奇妙な共通点があった。


 迷いがない。


 自分が何をしているのか分からないという様子ではない。


 けれど、そこに本人の意思があるようにも見えなかった。


 誰かに命令されている。


 そんな単純なものとも違う。


 もっと内側から、身体そのものを動かされているような――。


「リセナ……!」


 レンリは、握った手を離さなかった。


 周囲では人々が逃げ惑っている。


 このまま立っていれば、巻き込まれる。


 けれど、むやみに走れば、別の誰かとぶつかる。暗闇の中では、味方も敵も見分けられない。


 そのとき、隣からリセナの視線が動いた。


 レンリも、その先を見る。


 一人の乗客が、別の乗客へ向かって歩いていた。


 武器を持っている。


 それなのに、その顔には恐怖も怒りも浮かんでいなかった。


 ただ、口元だけが笑っている。


 楽しんでいるようにも見えた。


 けれど、その笑みには本人の感情が宿っていない。


 貼り付けられたもののようだった。


 レンリの中で、何かが繋がった。


 この状況は、ただの暴動ではない。


 恐怖に駆られて誰かを傷つけている者もいるだろう。


 けれど、あの人間たちは違う。


 まるで、自分の意思とは別のところで、殺すという行動だけを強いられているように見える。


 だとすれば――。


 レンリは目を閉じた。


 周囲の音へ意識を集中させる。


 悲鳴。


 足音。


 床を擦る靴。


 倒れる椅子。


 割れるグラス。


 それらの向こうに、別のものがある。


 魔力の流れ。


 かすかすぎて、普通なら見落としてしまうほどのものだった。


 それは一か所から流れているのではない。


 床にも、壁にも、天井にも、薄い膜のように広がっている。


 大広間の空気そのものに、何かが絡みついている。


 まるで見えない糸が、人々を一本ずつ繋いでいるように。


 レンリは息を呑んだ。


 術式。


 そう考えれば、いくつかの違和感が繋がる。


 照明が落ちたこと。


 扉が開かないこと。


 そして、何人もの乗客が同時に武器を取ったこと。


 この大広間そのものが、何かの術式に組み込まれている。


 けれど、術式の中心がどこにあるのか分からない。


 床なのか。


 壁なのか。


 あるいは――。


 レンリは顔を上げた。


 淡い光の中にいるヴァグラゲル。


 男は、逃げ惑う人々を眺めている。


 助けようとも、止めようともしない。


 ただ静かに、その光景を楽しんでいる。


 その視線が、ふとレンリへ向いた。


 目が合った。


 ほんの一瞬。


 ヴァグラゲルの口元が、わずかに歪む。


 笑みだった。


 それを見た瞬間、レンリは確信した。


 この男は、何も知らずにここに立っているわけではない。


 少なくとも、この状況そのものを最初から知っていた。


 握ったリセナの手に、再び力が入った。


 冷たい感触が返ってくる。


 その確かさだけが、混乱の中で唯一変わらないものだった。


 もう、舞踏会の面影はどこにもなかった。


 大広間を満たしていた音楽も、笑い声も、華やかな灯りも消えている。


 残っているのは、悲鳴と足音と、暗闇の中で交わされる刃の音だけだった。


 けれど――。


 レンリには分かった。


 今、始まったのだ。


 本当の意味での、狂宴が。

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