第39話 ドレスを纏って
衣装室へ入ると、それまで歩いてきた船内とは少し違う空気が漂っていた。
外の海から離れた室内には潮の匂いがなく、代わりに布地の柔らかな匂いと、香料のかすかな甘さが混じっている。
壁際には色とりどりの衣装が並び、淡い灯りを受けた布地が、誰かに触れられるのを待つように静かに揺れていた。
レンリはその前に立ったまま、しばらく動けなかった。
「うーん……どれにすればいいの、これ」
目の前に並ぶ衣装は、どれも普段の旅装とはかけ離れている。
淡い色のドレスもあれば、刺繍や飾りのついた華やかなものもある。
眺めているだけなら綺麗だと思えるのに、いざ自分が着るとなると、どうにも落ち着かなかった。
係の女性がいくつか候補を示してくれたが、レンリはそのたびに首を傾げた。
自分の姿を想像しようとしても、どうしても旅の途中で着ていた服のほうがしっくりくる。
そもそも、舞踏会というものに参加すること自体、まだ実感が湧いていなかった。
ふと隣を見る。
リセナは、すでに一着の前で足を止めていた。
白銀の髪に似合う、白を基調としたドレスだった。
裾には銀糸の細かな刺繍が施されていて、灯りが触れるたびに、ごく淡い光を返している。
「それにするの……?」
「ええ」
リセナに迷う様子はなかった。
レンリはもう一度、その衣装を見る。
なぜそれを選んだのか、理由を訊こうとして、やめた。
リセナ自身がそれを気に入ったのなら、それで十分なのだろう。
そして、おそらく――そのドレスは彼女にとても良く似合うように思われたから。
「そっか。あたしは迷って決められないや……」
レンリの言葉に、リセナは不思議そうに小首を傾げた。
「それなら、これは……?」
リセナは少し離れた場所にあるドレスを指さす。
彼女の指し示す先にあったのは、深みのあるロイヤルブルーのクラシカルなドレス。
確かに、これなら私にも似合いそうだ。
実際、鏡の前で合わせてみると、自身の黒髪と蒼い瞳によく似合った。
「ありがとね。リセナ」
リセナに礼を言うと、なんでそんなことを言うんだと言わんばかりに瞳を見開かれて。
「いや、これが……レンリに似合うと思っただけだから……」
そう言うと、そそくさと着替えの個室へと入っていってしまった。
レンリも選んだドレスへと着替える。
控室から出ると、先に待っていたリセナが、静かにこちらを振り向いた。
その瞬間、レンリの足が止まった。
白銀の髪はいつものように左右で結われ、その先が肩から胸元へ流れている。
白いドレスには銀糸の細かな刺繍が施され、灯りを受けるたびに淡い光を返していた。
いつも見慣れている髪型のはずなのに、旅装とは違う衣装をまとっているだけで、レンリにはまるで別の少女のように見えた。
紅い瞳だけが、いつもと変わらない。
「……変?」
問いかけられて、レンリはようやく我に返った。
「え、あ……いや……」
何か言おうとしたのに、うまく言葉が出てこない。
「……すごく、似合ってる」
「あ、うん……」
リセナはそれだけ言って、小さく頷いた。
その仕草はいつもと変わらないはずなのに、ドレスをまとっているだけで妙に様になっている。
「……あたしこそ、変じゃない?」
「別に……」
「いや、そこは、ちゃんと褒めてよ……」
思わず苦笑すると、リセナの紅い瞳がわずかに細められた。
それだけの変化だったが、レンリには、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。
衣装室を出て大広間へ向かうと、廊下の先から音楽が聞こえてきた。
先ほどまで聞いていたものよりもはっきりとした旋律で、複数の楽器が重なりながら船内を満たしている。
扉の向こうから漏れる光も廊下とは違い、金色に近い明るさを帯びていた。
扉が開かれる。
途端に、視界いっぱいへ華やかな光景が広がった。
高い天井から吊るされた照明が幾重にも輝き、その下では着飾った乗客たちが静かに言葉を交わしている。
中央では楽団が音楽を奏で、その旋律に合わせて何組もの男女がゆるやかに身体を動かしていた。
レンリは思わず歩みを緩めた。
「……やっぱり、場違いな気がする」
声を落として呟く。
ついこの間まで、魔族に追いかけられ、また火竜と対峙してた自分が、今はこんな場所にいる。
その落差がおかしくて、まだ認識が追いついていない。
隣に立つリセナは、そんなレンリを見てから、会場へ視線を戻した。
「……そう?」
「そうだよ。あたしたち、こういうところに来るような格好してなかったでしょ」
「今は……してる」
「……まあ、そうなんだけど」
あまりにも簡単に返されて、レンリは言葉を失った。
確かに、今の自分たちは舞踏会に合わせた衣装を着ている。
さっきまで自分が気にしていたことなど、リセナにとってはそれだけの話なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ可笑しくなった。
そのとき、リセナが会場の中央へ目を向けた。
音楽に合わせて、人々がゆっくりと円を描いている。
「ねえ……踊る?」
リセナが呟くように囁いてくる。
「え……?」
思わず聞き返す。
「踊るの……?」
「そう」
「いや、あたし、踊ったことないんだけど?」
「それは、大丈夫……たぶん」
その答えに、レンリは思わずリセナの顔を見る。
「た、たぶん……?」
返ってきた答えに、レンリは小さく息を吐く。
どうやら、本人にも確信があるわけではないらしい。
でも、その言葉が妙にリセナらしく聞こえた。
レンリは少しだけ考える。
舞踏会に来た以上、踊る人がいるのは当たり前なのだろう。
それでも、自分たちまでそこへ混ざる必要があるのかと思うと、やはり気後れする。
けれど、隣を見ると、リセナはいつもと変わらない顔で会場を眺めていた。
嫌がっているようには見えない。
それなら――。
「……まあ、やってみる?」
「ええ」
レンリが手を差し出す。
リセナの指が、その手に重なった。
冷たい指先が手のひらに触れた瞬間、レンリはほんの少しだけ息を止めた。
以前にも、こうして手を取ったことがある。
けれど、今は何かに追われているわけでもない。
急いでどこかへ逃げるためでもない。
ただ音楽の中へ歩いていくために、互いの手が重なっている。
レンリは握った手の感触を確かめるように、ほんの少しだけ指に力を込めた。
音楽に合わせて、足を動かす。
最初は互いに探るような動きだった。
レンリもどこへ足を出せばいいのか分からず、何度か相手の動きを真似しながら身体を動かした。
それでも、何度か繰り返すうちに、不思議と足取りが合い始める。
そのことに気づいたのは、レンリのほうだった。
「……あれ?」
自分の足が、さっきよりも自然に動いている。
けれど、それ以上にレンリを驚かせたのは、リセナの動きだった。
足運びが自然で、身体の向きを変えるタイミングも、次の一歩を置く位置も、音楽に導かれるように滑らかだった。
記憶がないはずなのに、リセナの動きには迷いがなかった。
まるで身体だけが、音楽に合わせる方法を知っているかのようだった。
その動きに合わせているだけで、レンリの身体も自然とついていった。
リセナの動きを追っているだけなのに、いつの間にか足取りが軽くなっていた。
身体から余計な力が抜け、音楽の流れに乗るように二人の動きが重なっていく。
「リ、リセナ……」
「なに?」
「なんで……そんなに踊れるの?」
「さあ……」
やはり、それ以上の答えは返ってこなかった。
けれど、リセナはそのまま音楽に合わせて身体を動かしている。
そのことが、レンリの胸に小さな引っかかりを残した。
けれど、それを今ここで追いかける気にはなれなかった。
今は、目の前の音楽が心地よかった。
船の揺れも、外から届く波の音も、いつもの旅とは違う。
けれど、その中でリセナと向き合っていると、不思議と肩の力が抜けていく。
ふと、足を踏み外しかけた。
「わっ……」
身体がわずかに傾く。
その腕を、リセナが支えた。
咄嗟のことだったのだろう。
けれど、その手には力があった。
「大丈夫……?」
「う、うん……」
支えられたまま、レンリは一瞬だけ動きを止めた。
近い。
普段なら気にしないほどの距離なのに、今はドレスを着ているせいなのか、妙に意識してしまう。
「……さすがに、慣れないとちょっとね」
「大丈夫……できてる」
リセナはそう言って手を離した。
離れたはずなのに、腕に残った感触だけが妙に鮮明だった。
曲が一区切りつく。
二人は人の流れから少し離れ、会場の端へ移動した。
給仕から飲み物を受け取り、レンリは小さく息を吐く。
頬が少し熱い。
踊ったせいだと思いたかった。
「……思ったより疲れるね」
「そう……?」
「リセナは平気そうだけど」
そう言いながら見ると、リセナはいつものように静かな表情をしている。
そのときだった。
「素晴らしいダンスでしたよ」
背後から、穏やかな声がした。
振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
仕立てのよい服を身につけ、整えられた髪と穏やかな笑みを浮かべている。
年齢をはっきりと判断するのは難しいが、物腰には落ち着きがあり、周囲の乗客たちと比べてもどこか人目を引く雰囲気があった。
「えっ……あ、はい」
突然声をかけられ、レンリは少し戸惑いながら答える。
男はそんな様子を気にすることもなく、二人へ軽く会釈した。
「今宵は、素敵な夜をお楽しみください」
それだけだった。
男はそれ以上何も言わず、人の間を縫うようにして離れていく。
レンリはその背中を少しだけ目で追った。
船の関係者なのだろうか。それとも、ただの乗客なのか。
考えようとしたところで、楽団から次の曲が流れ始めた。
会場の空気が再び動き出す。
夜は、まだ始まったばかりだった。
レンリは隣に立つリセナへ視線を戻した。
白銀の髪が照明を受けて淡く輝いている。
その姿を見ていると、衣装室で足を止めたときとはまた違った感覚が胸に浮かんだ。
「もう一曲……踊る?」
今度は、レンリから尋ねた。
リセナは少しだけ目を細める。
「ええ」
差し出された手を、レンリは取った。
再び音楽の中へ足を踏み入れる。
船は夜の海を進み続けていた。
遠くでは波が砕け、窓の向こうには月明かりが細い道を作っている。
ただ隣にいる少女と、同じ音楽を聴き、同じ時間を過ごす。
それだけのことが、今のレンリには不思議なくらい心地よかった。
この夜が、もう少しだけ続けばいい。
レンリは、そんなことを思った。




