第38話 散策
客室を出ると、リセナは迷いのない足取りで廊下を歩き始めた。
白銀の髪が船内の柔らかな灯りを受け、歩くたびに小さく揺れている。
左右には同じような扉が並び、磨き上げられた床には乗客たちの足音が遠く近く重なっていた。
どこへ向かっているのか分からないまま、それでもリセナは足を止めようとしない。
「ね……ねえ、リセナ。どこに行くつもりなの?」
返事はなかった。
レンリは小さく息を吐きながら、その背中を追った。
さっきは自分から「船の中を見に行かない?」と誘っておきながら、どうやら本人にも具体的な目的地はないらしい。
「リセナ、もしかして行き先決めてないでしょ」
「えっ、ええ……」
「やっぱりね……」
あまりにも素直な返事に、レンリは思わず苦笑する。
それを見て、リセナはぽつりと呟いた。
「レンリ……」
「な、なに……?」
「らしくない」
「はい?」
「行き先って……そんなに、大事?」
ハッとした。
これまでずっと、行き先も決めずに旅をしてきたはずだった。
リセナもそれを、とうに理解しているはずだ。
なのにここ最近は、行き先を決めなければと、無意識のうちに気を張っていた。
いつの間にか、リセナに気を使いすぎていたのかもしれない。
「……そっか。そうだね」
小さく笑って、肩の力を抜く。
「じゃあ、適当に歩こっか」
「ええ」
二人はそのまま並んで歩いた。
しばらく進むと、廊下の先に大きな扉が見えてきた。
わずかに開いた隙間から潮風が流れ込み、室内に残っていた空調の冷たさとは違う、塩気を含んだ湿った風が頬を撫でる。
その向こうに何があるのかは見えなかったが、レンリにはそれだけで甲板へ続く扉だと分かった。
扉を押し開ける。
途端に、視界いっぱいへ海が広がった。
港にいたときは、岸壁も建物も、遠くには町の輪郭さえ見えていた。
けれど今は違う。
どこまでも続く水平線と、その下で朝の光を弾く海面だけが広がり、船が進むたびに白い波が左右へほどけていく。
リセナは手すりへ近づくと、そこで足を止めた。
紅い瞳が、揺れる海面をじっと見つめている。
風に煽られた白銀の髪が頬へかかっても気にする様子はなく、波が崩れるたび、その視線だけが静かに動いていた。
「……海、初めて見るの?」
レンリの問い掛けに、リセナは小首を傾げる。
「さあ……」
けれど、リセナは海から目を離さない。
覚えていないだけなのかもしれない。
以前に見たことがあるのか、それとも本当に初めてなのか、レンリには判断できなかった。
だから、それ以上は聞かなかった。
答えを求めるよりも、今はただ、こうして隣で同じ景色を見ている時間のほうが大切な気がした。
「……でも……」
不意に、リセナが呟いた。
「見ていて、気持ちがいい……」
その声は風に溶けてしまいそうなほど小さかったが、レンリにははっきりと聞こえた。
レンリも海へ視線を戻す。
思えば、こんなふうに立ち止まって景色を眺めることなど、これまでの旅ではあまりなかった。
そういう考え自体が、浮かんでこなかった。
なぜだろう――。
たぶん、これまでは独りだったからだ。
でも今は、そうじゃないから。
この景色を共有できる、相手がいるから。
「……うん。そうだね」
返事をして、レンリは手すりに身体を預けた。
リセナと同じように海を眺める。
船底から伝わる低い振動と、規則正しく波を切る音。
その中に混じる風の音を聞いていると、胸の奥に張りつめていたものが少しずつほどけていくようだった。
どれくらいそうしていたのか。
不意に、レンリの腹から小さな音が鳴った。
「……あ」
慌てて腹を押さえる。
隣を見ると、リセナの紅い瞳がこちらへ向いていた。
表情はほとんど変わらない。
それでも、目元がほんのわずかに緩んだように見えて、レンリは急に気恥ずかしくなった。
リセナは訊く。
「……お腹、空いた?」
「うっ……まあね……そろそろお昼時だし」
誤魔化すように言って、レンリは甲板を離れた。
船内へ戻ると、先ほどまで感じていた潮風が扉の向こうへ閉じ込められ、代わりに柔らかな空調の風が肌を撫でた。
案内板を頼りに食堂へ向かう途中も、廊下の壁には細かな装飾が続いている。
ここへ来てからまだ数時間しか経っていないのに、見るものすべてが普段の旅とはかけ離れていて、レンリは少しずつ感覚が追いつかなくなっていた。
食堂に入ると、そこには白いテーブルクロスが整然と並んでいた。
窓の向こうには青い海が流れ続け、細かな装飾の施された食器が陽射しを受けて淡く輝いている。
静かに行き交う給仕たちの姿まで含めれば、船の中というより、どこか別の世界へ迷い込んだような気分になる。
「ひぇ……すごい。あたし、こういうところ慣れてないんだよね」
目の前には、見たことのない料理まで並んでいる。
どれから手をつければいいのかさえ分からず、レンリが少しばかり戸惑っている横で、リセナは迷いなくナイフとフォークを手に取っていた。
その所作に、レンリは思わず目を留めた。
背筋を伸ばし、肘を張らず、指先に至るまで無駄がない。
切り分ける動きも、口へ運ぶ角度も、まるで作法そのものを身体が覚えているかのようだった。
――洗練されたその動きは、まるでお嬢様のようだった。
まあ、その白い肌に整った顔立ちと、そもそも見た目自体がお嬢様然としているのだけれど。
しかし一方で、この少女は魔装を握り、火竜すら両断する力を振るう。
レンリは、だんだんよく分からなくなってくる。
「……リセナ、こういうところ、来たことあるの?」
「……さあ」
やはり、短い答えだった。
けれど、フォークを持つ手にはやはり迷いがない。
記憶がないと言うわりに、身体だけは何かを覚えているのかもしれない。
そう思うと、少しだけ落ち着かない気分になった。
リセナが何者なのか、まだ何も分かっていない。
それでも今は、詮索するよりも、この時間を過ごすほうがいい気がした。
食事を終えて二人は、再び船内を歩き始めた。
談話室には乗客たちが思い思いにくつろぎ、窓際では海を眺めながら本を読む者もいる。
その先には小さな庭園を模した一角まであり、鉢植えの木々が人工的な潮風に揺れていた。
すべてを見て回るには、この船はあまりにも広い。
「こんなところまであるんだ……」
レンリは思わず呟いた。
午後も遅くなった頃、船内に穏やかな案内放送が響いた。
「本日夜、大広間にて舞踏会を開催いたします。ご乗船の皆様は、ぜひご参加くださいませ」
その声が消えると、周囲の乗客たちから小さなざわめきが起こった。
「舞踏会……」
レンリも足を止めた。
そういえば、これは豪華客船なのだった。
当たった乗船券をきっかけに乗り込んだだけで、そんな華やかな催しがあることまでは考えていなかった。
「舞踏会ねぇ……せっかくだから、出てみる?」
レンリは半ば冗談のつもりでリセナへ尋ねてみる。
自分たちは旅装のままだし、そもそも舞踏会なんてものに参加した経験もない。
こんな場所に、自分たちが混ざるのは、さすがに場違いなような気がした。
そう考えながら隣を見る。
リセナは放送が聞こえてきた方向を、じっと見つめていた。
「ええ……」
思ったよりも、はっきりとした声だった。
レンリは目を瞬かせた。
「えっ?」
「え、とは……?」
「いや、リセナはそういうの、嫌かなって……」
「別に」
迷いのない即答だった。
「じゃあ……い、行こうか……」
自分から誘っておいて、今さらやめるとは言えない。
本当に舞踏会へ参加するなら、今の旅装のままというわけにはいかないだろう。
衣装について係員へ尋ねると、乗客向けに貸し出しを行っている部屋があるらしい。
二人でその場所へ向かいながら、レンリは妙な気分になっていた。
ついこの間まで火竜と対峙していた自分たちが豪華客船の舞踏会に出ることになるとは。
それがおかしくて、レンリは小さく笑った。
「……まあ、たまには、こういうのも悪くないか」
隣を歩くリセナは、何も答えなかった。
けれど、少しだけ歩幅が軽くなったように見えた。
衣装室へ続く廊下の途中、大きな窓が海側に開けていた。
足を止めるつもりはなかったのに、レンリは思わずそちらへ目を向けた。
傾き始めた陽が海面へ長い光の道を作り、朝とは違う色の海がどこまでも広がっている。
そこにあるのは遠ざかっていく水平線だけだった。
ここまで来れば、昨日までの町さえ別の世界の出来事のように感じられた。
「……だいぶ、遠くまで来たのかな」
レンリが呟く。
「たぶん……」
リセナは小さく頷く。
その時、微かな音色が風に乗って聴こえてきた。
楽団が夜の舞踏会に向けて音を合わせているのだろう。
まだ形にならない旋律が、船の揺れと潮騒に混じりながら、少しずつ近づいてくる。
レンリは歩きながら、その音へ耳を傾けた。
今日だけは、何も考えなくてもいい。
誰から逃げる必要もない。
ただ、隣にいる少女と同じ船に乗り、同じ海を眺めている。
それだけでいいのだと思えた。
その先には、まだ始まっていない夜が待っていた。
そしてその夜を、レンリは少しだけ楽しみにしていた。




