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第37話 白い船へ

 港には、朝の冷たさがまだ残っていた。


 夜のうちに降りた露が石畳を濡らし、朝陽を受けてわずかに光っている。


 潮の匂いを含んだ風が吹き抜けるたび、係留された船のロープが軋んだ音を立てた。


 その中でも、ひときわ目を引く白い船体があった。


 豪華客船グラシャラボラス。


 昨日、遠くから見上げたときも大きいとは思ったが、こうして波止場のすぐそばまで来てみると、その印象はまるで違っていた。


 視界に収まりきらない。


 幾層にも重なった甲板、磨き上げられた船壁に施された装飾、朝の光を受けて淡く輝く船首の曲線。


「……ほんとに、これに乗るんだ」


 思わず呟く。


 隣に立つリセナは、何も言わず船を見上げていた。


 白銀の髪が朝の風に揺れている。


 表情はいつもと変わらないはずなのに、その視線だけが珍しく船体の上をゆっくりと動いていた。


 興味があるのだろうか。


 それとも、ただ見慣れないものを眺めているだけなのか。


 レンリにはまだ分からなかったが、昨日よりもその横顔は少しだけ楽しそうに見えた。


「行こうか」


 レンリの声に、リセナは小さく頷く。


「……ええ」


 短い返事とともに、二人は乗船口へと向かう列に並んだ。


 列は思ったよりも長く、様々な身なりの客が順番を待っている。


 豪奢な衣装を纏った貴族らしき一団もいれば、旅装のままの商人風の男もいた。


 列がゆっくりと進んでいく。


 係員が乗船券を確認し、簡単な荷物検査を済ませては、次々と客を船内へ通していく。


 拍子抜けするほど簡単な手続きだった。


 そう思っていた矢先、レンリの数人前で、列の流れが止まった。


 係員の声が聞こえる。


「申し訳ございません。お客様の乗船は――お断りいたします」


 係員の声が、いつもより硬い。


 列に並んでいた一人の男が、怪訝な顔で係員へ詰め寄っていた。旅装束の上から紋様の入った外套を羽織っている。


 術式を縫い込んだ外套。黄金色の髪。その身体を覆う、隠しようのない魔力の気配。


 見るからに魔術師……の典型例だ。


「理由を聞かせてもらおう。券は正規のものだ」


「安全上の理由ですので……詳細をご説明できず申し訳ございません。また上からの指示でもございますので……何卒、ご了承ください」


 男は苛立たしげに何かを言い募っていたが、係員は頑なに首を横に振るばかりだった。


 やがて男は舌打ちをして、列を離れていく。


 その一部始終を、レンリは黙って見ていた。


 ただの手違いではない。


 係員の態度から、そう感じた。


 あの男が特別、何か問題があるようには見えなかった。


 ただ、目についたものが一つある。


 魔術師だったこと。


 それが理由なのだとしたら――いったい、何を警戒してのことだろう。


 考えを巡らせているうちに、列は進んだ。


 次第に、自分たちの番が近づいてくる。


「お連れ様と、乗船券をお願いいたします」


 差し出した券を、係員は事務的に確認する。


 視線がレンリの顔を一瞬だけ捉え、それから離れた。


 魔力を確かめるような素振りは、一切なかった。


「ご乗船、ありがとうございます。良い船旅を」


 あっさりと通された。


 拍子抜けするほど、あっさりと。


 「えっ……あ、はい……」


 自分だって、魔術師のはずなのだけれど。


 隣を見ると、リセナも何も言わず、ただレンリの後ろについてきている。彼女には、この違和感は伝わっていないのかもしれない。


 それならそれでいい。


 レンリは小さく息を吐き、それ以上は考えるのをやめた。


 乗船口を抜けると、磨き上げられた床が朝の光を柔らかく反射していた。


 壁には見たこともない絵画が掛けられ、天井の照明には細かな細工が施されている。


「……うわ……すごっ」


 それしか言葉が出なかった。


 リセナも隣で静かに辺りを見回している。


「……広い」


 短い呟きだったが、レンリも同じことを思っていた。


 確かに、船というより一つの町に近い。


 案内された客室は、これまで泊まったどの宿とも比べものにならなかった。


 大きな窓の向こうには海が見え、寝台は二つ並んでいる。


 荷物を置くと、レンリはしばらく黙って室内を見回した。


 豪華な部屋も、磨かれた床も、窓の外へ出ればただの船の上にある。


 そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。


 そのとき、低い鐘の音が港いっぱいに響いた。


 床から、かすかな振動が伝わってくる。


 ゆっくりと、本当にゆっくりと、グラシャラボラスが動き始めていた。


「おっ、出航だね」


 呟くと、リセナが小さく頷く。


 その視線は、窓の外へと向けられていた。


「……動いてる」


 レンリも彼女と同じように窓の外へ視線を送る。


 岸壁が遠ざかっていく。


 昨日まで立っていた港が、少しずつ小さくなっていった。


 行き先を決めたわけではない。


 ただ、当たった船に乗っただけだ。


 それでも、こうして岸を離れてしまえば、もう立派な旅の途中だった。


 その時だった。


 ふと、先ほど見た光景が、まだ胸の奥に小さく引っかかっていることに気付く。


 あの魔術師は、なぜ拒まれたのか。


 その答えは、分からない。


「ねえ……」


 リセナの声で、その思考は掻き消えた。


 彼女の方から話しかけてくるのは珍しい。


 レンリは思わず急いで、リセナへと向き直った。


「どうしたの、リセナ」


「船の中……」


 リセナの紅い瞳が、まっすぐにレンリを見つめている。


 いつもなら先に口を開くのは自分のほうだったから、その視線が少しだけ新鮮だった。


「もっと……見に行かない?」


 思いがけない言葉に、レンリは一瞬だけ目を瞬かせた。


 リセナのほうから、こんなふうに要望が出てくるというのは、戦闘中でもなければ本当に珍しい。


 そう思うと、胸の奥に小さな嬉しさが湧いた。


「うん……行こうか」


 レンリが笑うと、リセナもほんの少しだけ頷いた。


 豪華客船グラシャラボラスは、港からゆっくりと遠ざかっている。


 白い船体は朝の海を滑るように進み、その後ろへ細長い航跡を残していた。

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