第36話 港町にて
前の街を出てから、一週間ほどが過ぎていた。
火竜との戦いで負った傷は、もうほとんど残っていない。
両腕を動かしても痛みはなく、傷口を確かめる必要もなくなった頃になって、レンリはようやく、自分の身体がいつもの調子を取り戻したことを実感していた。
あの戦いを思い返せば、今でも火竜の巨大な顎や、迫りくる炎の熱が鮮明に蘇ることがある。
それでも、あの夜はもう過ぎた。
街の人々は無事に避難でき、火竜も倒した。自分たちにできることは、あの場で精一杯やったのだ。
だからこそ、もう前を向いていい。
旅は、すでに次へ進んでいる。
特に決まった目的地があるわけではなかった。
故郷を失ったレンリには、帰る場所も、目指す場所もない。
修行を兼ねて、気の向くままにあちこちを渡り歩く。
それが、今のレンリの旅だった。
ただ、以前とは違うことが一つだけある。
隣を歩く少女の存在だ。
白銀の髪を二つに束ねたリセナは、今日も静かにレンリの隣を歩いている。
潮の匂いを含んだ風が吹くたび、その髪が細く揺れ、陽光を受けた銀色が淡く輝いた。
一人なら、どこへ行ってもいい。
けれど今は二人だ。
自分が行きたい場所だけではなく、リセナがどうしたいのかも、少しくらいは考えたほうがいいのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いているうちに、二人は港へ続く大通りへ出た。
途端に、空気が変わった。
内陸の町では感じなかった湿った風が頬を撫で、遠くから船員たちの掛け声が響いてくる。
木箱を運ぶ音、縄の軋む音、荷車の車輪が石畳を擦る音。
それらが絶え間なく重なり合い、港全体が忙しなく動いていた。
レンリは足を止め、海を眺めた。
視界の果てまで続く青い水面。
「海か……久しぶりだな」
思わず口から漏れた。
山や平原なら、その先に何があるのか想像できる。
けれど海は違う。
どこまで続いているのか、その向こうに何があるのか、ここからでは確かめることさえできない。
その広さを眺めていると、次にどこへ向かうのか、今すぐ決める必要もないような気がしてきた。
とはいえ、いつまでも当てもなく歩き続けるわけにもいかない。
「リセナは、どこか行ってみたいところある?」
尋ねると、リセナは海を見つめたまま、少しだけ考えるように目を細めた。
「……特には」
やはり、そういう答えになる。
レンリは苦笑した。
「まあ、そうだよね」
リセナはしばらく黙っていたが、やがて視線を海からレンリへ移した。
「レンリは……?」
「あたし――?」
少し考える。
どうしても行きたい場所があるわけではない。
「あたしも、これといってないかな。面白そうなところがあれば、そこへ行けばいいと思ってる」
「なら、私も……それでいい」
あまりにも自然に言われて、レンリは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……そっか」
なんとなく、胸の奥が軽くなる。
そんな二人の視線の先に、一隻の巨大な船があった。
「うわ、大きいな……」
思わず呟いてしまうほどだった。
港の一角を占める白い船体は、周囲の船とは明らかに規模が違う。
幾層にも重なった甲板には無数の窓が並び、船尾へ向かって伸びる船体には細かな装飾まで施されている。
船というより、巨大な建物をそのまま海に浮かべたような姿だった。
そのあまりの大きさに、レンリはしばらく言葉を失った。
こんなものが本当に海の上を進むのか。
それだけでも、少し不思議な気分になる。
リセナが小さく呟いた。
「……グラシャラボラス」
「ん……? 知ってるの?」
「名前が……書いてある」
指差された船体を見ると、確かに金色の文字が刻まれていた。
――グラシャラボラス。
「豪華客船、ねぇ……」
レンリはその船を見上げた。
自分たちがこれまで乗ってきたのは、荷物を運ぶ小さな船か、町と町を結ぶ簡素な渡し船くらいだ。
こんな豪華な船に乗る機会など、自分には縁がないと思っていた。
けれど、隣にはリセナがいる。
二人で旅をしているのだから、たまにはこういう場所を覗いてみるのも悪くない。
「一度くらいは、乗ってみたいもんだね」
こくりと、リセナは小さく頷く。
白銀の少女は、じっと船を眺めていた。
ほんの少しだけ、興味があるのかもしれない。
それが妙に嬉しくて、レンリは小さく笑った。
その日の昼過ぎ。
二人は港から少し離れた広場で、旅に必要な食料を買い足していた。
魚を選ぶ客、荷物を運ぶ船員、露店の前を走り抜ける子供たち。港町らしい雑多な気配が、潮風とともに広場を満たしている。
その喧騒に耳を傾けながら、レンリは知らず知らずのうちに歩調を緩めていた。
買い物を終え、荷物を抱え直したときだった。
広場の一角から、鐘の音が響いた。
人々が一斉にそちらを振り向く。
色とりどりの旗を掲げた小さな屋台があり、その前では店員らしき男が声を張り上げていた。
「港町観光祭、最後の一回です! 特賞はグラシャラボラス号のペア乗船券!」
レンリの足が止まった。
「……グラシャラボラス?」
つい先ほど見たばかりの名前だった。
隣を見ると、リセナも屋台へ視線を向けている。
レンリは手元に残っていた福引券を見た。
買い物のおまけでもらった、一枚だけの券。
「まさかね」
自分でも半ば呆れながら、福引所へ近づいた。
どうせ当たらない。
そう思っていた。
けれど、せっかく一枚あるのだから、使わずに捨てるのも惜しい。
箱の中へ手を入れ、指先に触れた玉を一つ掴む。
取り出した瞬間、係員の表情が変わった。
次いで、広場に鐘の音が鳴り響く。
「おめでとうございます! 特賞です!」
「……え?」
レンリは手の中の玉を見つめた。
何度見ても、色は変わらない。
係員から手渡された乗船券を見て、ようやく状況を理解した。
二名分。
グラシャラボラス号のペア乗船券だった。
「……当たっちゃった」
思わず、間の抜けた声が出る。
隣にいるリセナを見ると、彼女も乗船券を静かに見つめていた。
「……えっ、と……つまり……乗れる?」
「うん。どうやら……そうみたい……」
レンリは券を指先で持ち上げた。
目的地を決めるために歩いていたはずなのに、まさか向こうから目的地が転がり込んでくるとは思わなかった。
少しだけ可笑しくなる。
「せっかくだし、乗ってみようか」
レンリが言うと、リセナは乗船券へ視線を落としたまま、ほんの少しだけ頷いた。
「……えっ、ええ……」
それだけで十分だった。
二人は荷物を抱え直し、港へ向かって歩き始める。
遠くに見えるグラシャラボラスの白い船体が、午後の陽射しを受けて眩しく輝いていた。
レンリは潮風に髪を揺らされながら、隣を歩くリセナの姿を確かめる。
思いがけず決まった次の目的地。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
それでも――あの大きな船に乗り、海の向こうへ旅をする。
そう考えると、レンリの足取りは自然と軽くなっていた。
次の旅は、少しだけ特別なものになりそうだった。




