第34話 断ち斬られる悪意
豪雨が、焼け落ちた街を叩き続けていた。
消えかけた炎から白い蒸気が立ち上り、濡れた石畳には雨水が絶え間なく流れている。
先ほどまで火竜の熱に焼かれていた空気は、雨によって少しずつ冷やされていたが、レンリの頬にはまだ熱が残っていた。
目の前では、リセナが巨大な水の大剣を構えている。
白銀の髪から雨が滴っていた。
束ねられた髪を伝った雫は肩を流れ、白い服を濡らしながら、その手が握る柄へと流れ落ちていく。
人の背丈を遥かに越える大剣――澪豪剣ラガ・エリオバルク。
雨を受けた刀身は、静かに脈打つような光を帯びている。
その姿は、降り続く豪雨そのものが、一振りの剣へ姿を変えたかのようだった。
そんな異様な光景を前にしても、レザリアスは退かなかった。
赤黒い巨体がゆっくりと身を起こす。
濡れた鱗の隙間から蒸気が立ち上り、黄色い瞳が巨大な剣と、それを握る小さな少女を交互に捉えていた。
けれど、その瞳に宿っていたものは、先ほどまでの余裕とは明らかに異なっていた。
『……来るがいい』
低い声が、雨を震わせた。
リセナは答えなかった。
ただ、両手で握った柄を静かに締め直す。
その仕草を見て、レンリはリセナの横顔へ目を向けた。
これほど巨大な剣を手にしても、表情は変わらない。
力を込める様子もなく、ただ自分の身体の延長であるかのように、ごく自然な動きで大剣を構えている。
次の瞬間、リセナが踏み込んだ。
水飛沫が足元から大きく弾ける。
レンリが目で追うより早く、白銀の少女がレザリアスとの距離を一気に詰めていく。
身体の動きに合わせて、水を帯びた巨大な刀身が持ち上がり、雨を巻き込みながら、赤黒い巨体へ向かって横薙ぎに振り抜かれた。
レザリアスが首を捻り、巨体を反らす。
だが、避けきれない。
リセナの大剣が、火竜の側面を捉えた。
鈍い衝撃音が街に響き、赤黒い鱗が大きく砕ける。
砕けた鱗の破片が、刀身を覆う水に弾き飛ばされ、雨飛沫とともに周囲へ散った。
『――グッ!?』
レザリアスの喉から、声にならない呻きが漏れた。
レンリは、思わず息を呑んだ。
何度斬り込んでも傷ひとつつかなかった鱗が、今、目の前で砕かれた。
信じられない。
そんな思いが頭をよぎった瞬間、火竜の赤黒い鱗に、はっきりとした裂傷が走っているのが見えた。
そこから滲み出た赤黒い体液が雨に混じり、焼けた石畳の上で薄く赤い水へ変わっていく。
「……き、斬れた……!」
自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。
その呟きを背に受けても、リセナは振り返らなかった。
一撃を振り抜いた勢いのまま身体を回転させ、巨大な刀身を反対側から叩き込んだ。
レザリアスが前脚を上げて受け止めようとした瞬間、大剣と爪が真正面から激突する。
轟音が弾けた。
赤い火花が散り、同時に刀身を形作る大量の水が弾け飛ぶ。
青い飛沫が豪雨の中へ広がり、火花と水が交差して、焼け焦げた街の闇を一瞬だけ鮮やかに照らした。
レンリは反射的に腕を上げて顔を庇った。
腕越しに伝わってくる衝撃だけで、二つの力が真正面からぶつかっていることが分かる。
そして――その力関係も、はっきりしていた。
レザリアスの巨体が、わずかに後退していた。
リセナの足元では石畳が軋み、巨大な水の刃から飛び散った水が渦を巻いている。
その小さな身体からは想像もできない力が大剣へ伝わり、火竜の爪を少しずつ押し上げていた。
『この人間の、小さな身体のどこに――これほどの力が――!?』
レザリアスの声に、焦りが滲み出ている。
レンリは、その問いに答えられない。
自分だって知りたい。
なぜリセナは、あんな巨大な剣を軽々と扱えるのか。
なぜ、あれほど強大な火竜を真正面から押し返せるのか。
分からない。
けれど今は、その理由を考えている場合ではなかった。
リセナが、さらに一歩踏み込む。
巨大な水の刃が、爪へ食い込んだ。
乾いた亀裂音が、雨音の中に混じる。
レザリアスの爪に、ひびが走った。
一本。
また一本。
亀裂は瞬く間に広がり――次の瞬間、爪が砕け散った。
『――グッ!?』
赤黒い破片が、水飛沫とともに舞う。
レンリは目を見開いた。
あの爪まで。
これまで何度攻撃を受けても揺るがなかった火竜の身体が、確実に崩されている。
レザリアスが、さらに後退した。
濡れた石畳を巨体が踏み抜き、瓦礫が押し潰される。
その姿を見た瞬間、レンリは初めて理解した。
追い詰めている。
今、追い詰められているのは――レザリアスのほうだ。
だが、火竜もしぶとい。
失った爪の根元から、赤い炎が噴き上がる。
雨に弱められていた熱が一瞬だけ膨れ上がり、周囲の水を蒸発させながら白い霧を生み出した。
視界が一気に閉ざされる。
レンリは咳き込み、濡れた腕で顔を覆った。
「リセナ!」
叫んでも、返事はない。
霧の向こうから、何かが地面を踏み砕く音が響いた。
一度。
二度。
そして、低い唸り。
レンリの背筋を冷たいものが走った。
見えなくても分かる。
レザリアスは、この霧に紛れて攻撃を仕掛けるつもりなのだ。
次の瞬間、霧の向こうで巨大な影が動いた。
赤黒い巨体が、リセナのいる方向へ突っ込んでいく。
そして、その影の先で――火竜の口が大きく開いた。
『噛み砕いてくれるわ――!』
鋭く歪んだ牙の並ぶ顎が、リセナへ向かって迫る。
「リセナ――!」
叫んだ。
けれど、間に合わない。
あまりにも近い。
リセナは、あの攻撃を避けきれない。
そう思った瞬間だった。
白銀の髪が、雨の中で翻った。
リセナは避ける素振りすら見せなかった。
迫り来る顎を真正面に見据えたまま、身体を低く沈める。
握り締めた柄を身体の側へ引き寄せ、巨大な水の刀身を後方へ回した。
次の瞬間、火竜の顎がリセナを呑み込もうと閉じる。
その寸前――。
リセナが地面を強く踏み込んだ。
巨大な水の刃が、下方から跳ね上がる。
迫り来る火竜の顎を真正面から捉え、そのまま口腔へと突き上げた。
『グルァォァアアアアアッ!!』
絶叫が街を震わせた。
大剣が、火竜の口蓋を裂く。
レザリアスの頭が大きく跳ね上がり、赤い炎と白い蒸気が入り混じったものが口から噴き出した。
それでも、リセナは剣を引かなかった。
両腕に力を込め、そのまま前へ押し込んでいく。
巨大な水の刃が、火竜の身体の奥へ進んでいった。
レザリアスが激しく身を捩る。
巨大な尾が石畳を薙ぎ払い、崩れた壁が音を立てて崩落した。
その衝撃で周囲の水が大きく跳ね上がる中、リセナは両腕で柄を握り締め、一歩ずつ前へ進んでいく。
レンリは、その姿から目を離せなかった。
小さな身体だった。
白銀の髪も、細い腕も、雨に濡れた服も、いつもと何も変わらない。
なのに今、その身体が巨大な火竜を押し切ろうとしている。
大剣が、さらに奥へ進む。
赤黒い鱗の下を走る亀裂が広がっていく。
最初は一筋だった傷が、次第に火竜の身体全体へ伸びていった。
鱗が裂け、炎が零れ、その奥から黒紫色の魔力が雨の中へ漏れ出していく。
『グ……ル……』
レザリアスの咆哮が、途切れた。
巨大な身体から、力が抜けていく。
それでもリセナは止まらない。
残された力を押し込むように、柄をさらに前へ押し出した。
そして――最後の一押し。
巨大な水の刀身が、火竜の身体を貫き抜ける。
赤黒い巨体が、大きく傾いた。
次の瞬間、左右へ分かれた身体が、濡れた石畳へ重い音を響かせる。
レンリは、動けなかった。
崩れた街を冷やしている豪雨の音だけが聞こえる。
さっきまで街を震わせていた火竜の咆哮は、もう聞こえない。
その静けさの中で、倒れたレザリアスの身体から小さな光が浮かび上がった。
赤黒い鱗が、淡い粒子へ変わっていく。
爪も、牙も、炎も。
巨大な身体を形作っていたすべてが、無数の魔力の粒子となって雨の中へ舞い上がった。
粒子は空へ逃げることもなく、雨に打たれながら少しずつ薄れていく。
やがて最後の光が消えた。
そこにはもう、火竜の姿はなかった。
レンリは、ようやく息を吐いた。
「……お、終わった……」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
視線の先では、リセナがまだ大剣を握っている。
巨大な水の刀身には無数の雨粒が流れ続け、その刃先から落ちた雫が石畳へ小さな波紋を作っていた。
胸の奥へ、遅れて実感が広がっていく。
勝ったのだ。
あれほど強大な火竜を、リセナは倒した。
降り続く雨が、焼けた街を洗っていく。
その中で、白銀の少女だけが、巨大な水の大剣を手に立っていた。
レンリは、その背中を見つめていた。




