第33話 ラガ・エリオバルク
豪雨は、街を覆っている。
焼け焦げた石畳を叩く雨音が、炎の唸りを少しずつ押し退けている。
濡れた瓦礫からは白い蒸気が立ち上り、先ほどまで街全体を包んでいた熱気は、雨に冷やされながら夜の空気へ溶けていた。
けれど――終わってはいない。
白煙の向こうで、赤黒い巨体が動いた。
火竜、レザリアス。
雨に打たれ、炎を弱めながらも、その巨体はなお健在だった。
灼熱を纏っていた鱗は黒く濡れ、ところどころから白い蒸気を噴き上げている。
レンリは息を詰めた。
雨を降らし、熱と炎を弱めることには成功した。
しかしまだ、それだけだった。
リセナの澪剣が、再び赤黒い鱗へ叩き込まれる。
硬質な音が、雨の向こうへ響いた。
弾かれる。
刀身を滑った水が飛沫となって散り、リセナの身体が僅かによろめいた。
それでも彼女は倒れず、濡れた石畳を踏みしめて間合いを取り直す。
相手の巨躯に、傷はない。
何度斬り込んでも、硬い鱗には刃の痕すら残らない。
リセナの手に握られた澪剣も、明らかに力を失っていた。
水色の刀身を包む輝きは、最初に見たときよりも薄くなっている。
魔装を維持する力そのものが、目に見えて弱まっていた。
このまま攻撃を続ければ、澪剣そのものを維持できなくなるかもしれない。
レンリの魔力も、ほぼ尽きている。
だからこそ、考えなければならなかった。
どうすれば、この剣であの鱗を破れるのか。
レザリアスが、ゆっくりと首をもたげた。
『ククク――我が熱を奪ったところで――その剣では、我は斬れぬ』
低い声が、雨音を押し退ける。
レンリは唇を噛んだ。
分かっている。
冷やすことと、斬ることは別だ。
炎を弱めても、あの鱗を破れなければ意味がない。
「どうすれば……あの鱗を……」
考える。
何度も考える。
澪剣は、限界に近い。
レンリに残された魔力では、今から新しい魔装を組み上げることもできない。
それでも、何か手はあるはずだ。
レンリは、周囲を見渡した。
雨が跳ねている。
石畳を叩き、瓦礫を濡らし、炎を消し、白い蒸気へ変わっていく。
「あの鱗を、破るためには……」
思わず、レンリは呟く。
答えはすぐそこにあるような気がする。
それなのに、手を伸ばしても掴めない。
考えながら、レンリはリセナへと視線を向ける。
レンリが思考を巡らせている間にも、リセナは澪剣を構えていた。
その白銀の髪から、雨が滴っている。
紅い瞳が、横目でレンリを見る。
「……レンリ」
「……な、なに?」
「難しく……考えすぎ」
「……へ?」
「この剣を、大きくするだけでいい」
あまりにも単純な言葉だった。
レンリは一瞬、意味を理解できなかった。
「……えっ?」
「この雨、これだけの水があれば……できるはず」
その言葉に、レンリの視線が澪剣へ落ちる。
確かに――、できる。
雨は、まだ降っている。
水なら、いくらでもある。
ただ集めればいい。
澪剣を核にさえすれば。
そこに纏わる水は、刃になる。
レンリの中で、散らばっていた考えが一つに繋がった。
「剣そのものを、大きくする……」
レンリは、澪剣へ手をかざした。
指先から、僅かな魔力を流す。
その瞬間だった。
澪剣の周囲へ降り注いでいた雨が、ふっと揺らめいた。
一粒。
二粒。
やがて、雨粒の軌道が変わる。
落ちていたはずの水が、澪剣へ吸い寄せられるように集まり始めた。
刀身の周囲で水が渦を巻く。
水色の刃が、僅かに膨らんだ。
レンリは、その変化を見つめた。
――できる。
ただ、すでにある水を引き寄せて、澪剣へ重ねていけばいい。
それなら、今の自分でもできる。
レンリは呼吸を整え、さらに魔力を流した。
無理に力を注ぐと、澪剣の崩壊に繋がりかねない。
水の流れを導けばいい。
そして、澪剣の刀身が伸びていく。
瞬く間に、長剣ほどの大きさになる。
「……このくらい、かな」
レンリの独り言に、リセナは小さく首を横に振った。
「……違う」
「えっ……?」
「もっと、大きく」
「もっと……大き……く……?」
レンリは目を瞬かせる。
すでに、澪剣はリセナの身長を遥かに超えている。
「いや……これ以上大きくしたら、持てないんじゃ……」
言いかけたレンリの声を、リセナの一言が止める。
「なんとか、する」
紅い瞳は、まっすぐレンリを見つめていた。
レンリは少しリセナを見つめ、それから苦笑する。
「……まあ、あんたがそう言うなら、大丈夫なのかもね」
返事はない。
ただ、リセナは澪剣を握ったまま、静かに待っている。
レンリは小さく息を吐いた。
「じゃあ、なんとかしてもらおうか――!」
両手を広げる。
残された魔力を、すべて術式へ回す。
さらに、雨が集まる。
街路を叩いていた水が、瓦礫の間を流れていく水が、空から落ちてくる無数の雨粒が、次々と澪剣へ引き寄せられていく。
水の奔流が、白銀の少女の前で渦を巻いた。
長い刀身が、さらに膨らむ。
幅が広がる。
長さが伸びる。
さらに水が重なり、その輪郭が一振りの巨大な剣へと変わっていく。
それはもう、これまでの澪剣ではなかった。
人の背丈を遥かに越える巨大な刀身。
大量の水が幾重にも重なり、透明な内部では無数の雨粒が絶え間なく流れている。
水色だった輝きは深く沈み、青い光を帯びた巨大な刃へ変わっていく。
それは、魔力で生み出された剣であると同時に、この街へ降り注いだ雨、そのもの。
完成したのは――人の背丈を遥かに越える大剣だった。
レンリは荒い息を吐いた。
「……このくらいの大きさで、どう?」
目の前に浮かぶ刃を見上げる。
これまでの澪剣とは、規模も、重さも、存在感もまるで違う。
レンリは、その名を口にした。
「澪豪剣――ラガ・エリオバルク」
巨大な刀身の奥で、水流が大きく渦を巻いた。
リセナが、その刃を見上げる。
「ええ。このくらいで……ちょうどいい」
リセナは両腕で柄を握り締める。
そして――持ち上げた。
巨大な水の刃が、何事もなかったかのように地面から離れる。
レンリは思わず目を見開いた。
「……本当に、持てるんだ」
リセナは答えない。
ただ、巨大な剣を一度だけ振るった。
ごう、と纏われた水流が巻き上がる。
水飛沫が弧を描き、強烈な風圧が周囲の瓦礫を押し退けた。
その一振りだけで、これまでの澪剣とは明らかに次元の違う力があることがわかる。
リセナは静かに剣を構え直す。
その重さを受け、少女の足元の石畳が軋んだ。
『ほう……』
レザリアスは首を伸ばし、声を漏らす。
黄色い瞳が、巨大な水の刃を見据えている。
『よもや、その小さき身体で――これほどの大剣を振るうとは――』
低い声が、雨の向こうへ落ちる。
リセナが、一歩前へ出る。
濃い青色の光を纏った巨大な刃が、雨の中で静かに揺らめいた。
レンリは、リセナの白い背中を見つめる。
豪雨の向こうで、レザリアスが低く身構えた。
リセナは何も言わない。
ただ、澪豪剣を握り直した。
雨音だけが、二人の少女と火竜の間に降り続いていた。




