第32話 奏でる音は白煙を呼び
空をくすぐる――その術式は、まだ形になっていなかった。
レンリの脳裏に浮かんでいるのは、いくつもの現象を繋ぎ合わせただけの曖昧な構想だった。
焼けた街路を吹き抜ける熱風。
石畳から立ち昇る蒸気。
炎に押し上げられる空気。
その先に広がる、月明かりを滲ませた薄い雲。
それらを一つの流れとして捉え直しながら、レンリは指先に残された魔力を慎重に動かした。
力を加えすぎれば術式そのものが崩れる。
だから、動かすのはほんの僅かでいい。
何かを生み出すのではなく、すでにそこにあるものの流れへ触れ、その向きをほんの少しだけ変える。
大きな力で空を動かすのではなく、空が動こうとしている方向へ、ほんの少しだけ手を添える。
それができるなら、今のレンリでも届く。
問題は、その「ほんの少し」の向きと匙加減だった。
レンリは目を細めた。
夜空を覆う雲は、遠い。
けれど、完全に動いていないわけではない。
街を焼く炎から生まれた熱が上へ流れ、その流れに沿うように雲の下端が僅かに揺らいでいる。
その変化を見逃さないよう、レンリは呼吸を整えた。
焼けた腕が痛む。
魔力は少ない。
それでも、この術式を成立させなければ――、この街も、リセナも、レンリ自身にも未来はない。
そう考えた瞬間、レザリアスの咆哮が街路を震わせた。
炎の壁が膨れ上がり、崩れた建物の向こうから巨大な前肢が振り下ろされる。
石畳が砕け、その衝撃が地面を伝ってレンリの足元まで届いた。
その直後、白銀の影が炎の中を駆け抜ける。
リセナだった。
澪剣が横薙ぎに振り抜かれ、水色の刀身が炎を切り裂く。
開いた炎の向こうから赤黒い鱗が現れ、刃がそこへ触れた瞬間、耳障りな金属音が響いた。
弾かれる。
リセナの身体が僅かに流れ、それでも倒れずに着地する。
そのまま間合いを取り直し、再び澪剣を構えた。
白い魔装は、先程よりも焦げ跡が増えている。
それでも彼女は戦っている。
レンリは、その姿から目を離さなかった。
時間が必要だった。
ほんの少しでいい。
「――リセナ!」
声を張ると、白銀の少女がこちらへ顔を向けた。
「もう少しだけ、お願い――!」
何をするのかは言わなかった。
言葉にしてしまえば、まだ不確かな術式が自分の中で形を失ってしまいそうだったからだ。
それに、今のリセナに説明は要らなかった。
見落としてしまいそうなほど小さな頷きと、鈴の音のような澄んだ声が返ってくる。
「……まだ、大丈夫」
リセナはレンリを見つめ、それからレザリアスへ視線を戻した。
次の瞬間には、もう走り出している。
水色の刃が炎を裂き、赤黒い巨体の前を白銀の少女が駆ける。
レザリアスがそれを追って首を振り、巨大な尾が街路を薙ぐ。
崩れた建物が音を立てて崩れ落ち、舞い上がった粉塵さえも炎の熱に煽られて空へ吸い上げられていく。
その流れを、レンリは見ていた。
熱は、風を呼び。
蒸気は、空へ流れ。
すべてが繋がっている。
その繋がりを正確に読み取り、手繰り寄せる。
レンリは指先を僅かに開いた。
残された魔力を、一気には放たない。
細く、細く伸ばしていく。
熱風に沿わせ、煙に紛れさせ、上へ向かわせる。
自分の魔力だけで何かを動かそうとはしない。
ただ、その流れが持っている力を借りる。
術式の中心が、僅かに震えた。
まだ足りない。
レンリは目を閉じる。
音が遠のいた。
炎の轟音も、石畳を砕く音も、リセナの澪剣が弾かれる音も、すべてが薄い膜の向こうへ押し込められていく。
残ったのは、指先に伝わる空気の感触だけだった。
熱と、蒸気。
上へ流れている。
その先に――。
レンリは、ほんの僅かに魔力を傾けた。
その瞬間だった。
頬に、冷たいものが触れた。
レンリは目を開いた。
熱せられていた肌の上を、一滴の水が滑っていく。
すぐに蒸発して消えた。
けれど、それだけで十分だった。
もう一滴。
今度は焼けた石畳へ落ちる。
ぽつり、と小さな音がした。
炎の音に掻き消されそうなほど弱い音だった。
それでも、レンリにははっきり聞こえた。
雨だった。
まだ数えることができるほどの、ほんの僅かな雨。
しかし、その異変に気づいたのはレンリだけではなかった。
レザリアスの動きが止まる。
巨大な頭部が、ゆっくりと空へ持ち上がった。
炎を纏った赤黒い身体に、また一粒の雨が落ちる。
レザリアスは頭を動かし、レンリへと視線を向ける。
黄色い瞳が見開かれ、巨体から低い声が響いた。
『貴様――何か、したか――?』
レンリは、雨粒の落ちてくる空を見上げた。
薄かった雲が、いつの間にか街の上空へ広がっている。
けれど、まだ足りない。
これでは、レザリアスの炎を消すには弱すぎる。
それでも――。
レンリは濡れ始めた頬を拭わず、そのままレザリアスを見返した。
「あったよ。灼熱のその巨体を冷ます方法――」
自分で口にしてみると、不思議なほど確信があった。
レザリアスの瞳が細くなる。
『なに――?』
怪訝な声が落ちた。
その直後、雨音が変わった。
ぽつり。
ぽつり。
離れていた音が、少しずつ近づいていく。
石畳を叩く音が増え、瓦礫を濡らす音が重なり、建物の残骸を打つ雨粒が次々と響き始める。
ひとつひとつの音が繋がり、やがて街全体を覆う一つの音へと変わっていった。
雨脚が強くなる。
空を見上げる暇もないほど、大粒の雨が降り始めた。
焼けた街路へ降り注いだ雨が、炎へ触れる。
シューッ、と白い煙が噴き上がった。
赤く燃えていた石畳が次々と濡れ、炎の輪郭が崩れていく。
熱せられていた空気も、濃密な雨の向こうへ押し流されるように冷えていった。
そして、レザリアスの巨体にも雨が降り注ぐ。
灼熱の外皮に触れた無数の雨粒が、次々と蒸気へ変わった。
白い煙が巨大な身体を覆い、炎の向こうにあった輪郭さえ霞ませていく。
それでも、レザリアスは倒れない。
炎はまだ燃えている。
巨大な身体も、まだそこにある。
けれど、さっきまで街そのものを焼き尽くしていた熱は、確実に弱まっていた。
レンリは、冷たい雨を全身に受けながら息を吐いた。
その視線の先で、白銀の少女が立っていた。
リセナだった。
濡れた銀髪が頬へ張り付き、白い魔装からはまだ薄く蒸気が上がっている。
それでも、その姿から先ほどまでの硬さは消えていた。
リセナが、澪剣を握り直す。
水色の刀身へ、雨粒が次々と落ちていく。
レンリはその光景を見つめ、胸の奥に残っていた緊張が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
これなら――まだ、戦える。
レンリは白煙の向こうに立つレザリアスを見据えた。
「天候干渉――成立ギリギリだったけど、おかげで、だいぶ頭は冷えただろ――?」
返事はない。
ただ、豪雨の向こうで、レザリアスの熱の残滓だけが静かに揺らめいている。
リセナは、何も言わずに澪剣を構え直す。
雨音の中で、水色の刀身が淡く輝いていた。
レンリはその光を見つめた。
まだ終わっていない。
けれど――今度はこちらから、踏み込める。




