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第29話 覚悟の防御術式

 レンリは、考えるより先に身体を動かしていた。


 焼けた街路を蹴り、リセナとレザリアスの間へ駆け込む。


 視界の向こうで、赤黒い光が膨れ上がっていた。


 巨大な火球となったそれは、周囲の炎さえ吸い込むように膨張しながら、一直線に迫っている。


 その先にいるのは、リセナだった。


 腕の中には、幼い子供がいる。 


 あれほど巨大な炎が迫る中で、子供を抱えたまま逃げられるとは思えない。


 逃げる時間も、避ける手段もなかった。


 ならば――自分が間に入るしかなかった。


 両手を突き出す。


 魔力は、すでに魔装の形成に大半を使ってしまっている。


 残っている量が少ないことは、自分自身が一番よく分かっていた。


 それでも、今この瞬間に使わなければ、この魔力を残している意味がない。


 そもそも、この程度の魔術でレザリアスの炎を防げるのか。


 それすら分からなかった。


 けれど、考えている時間はない。


 指先へ意識を集めると、熱に揺らめく空気の中へ淡い光が浮かび上がった。


 複雑な術式の線が幾重にも絡み合い、やがて一枚の防御障壁として形を成していく。


「耐炎・防御術式(ボルミナス・デヅン)――!」


 挿絵(By みてみん)


 光の障壁が、レンリと炎の間へ広がった。


 だが、それだけでは足りない。


 目の前の火球を見た瞬間、これまで防御術式を組み上げてきた経験が、ほとんど反射に近い速度で答えを導き出していた。


 一枚では保たない。


 ならば、一枚で止める必要はない。


 レンリは最初の術式を維持したまま、その外側へさらに術式を重ねた。


 光の膜が一枚、また一枚と生まれていく。


 二枚、三枚、四枚。


 間に合う限り、残された魔力を惜しみなく注ぎ込んだ。


 最後の障壁が形を得た、その直後だった。


 赤黒い火球が、最初の障壁へ叩きつけられた。


 轟音とともに衝撃が両腕を突き抜け、肩から背中まで揺さぶられる。


 目の前は紅と白の光で埋め尽くされ、炎の向こう側にいるはずのレザリアスの姿さえ見えなくなった。


 障壁を幾重に重ねても、炎そのものの熱までは完全に遮れない。


 焼けた空気が肌を刺し、呼吸するたび、熱が喉の奥へ入り込んでくる。


 障壁の表面を炎が舐めるように覆い、術式を構成する魔力がじわじわと削られていった。


 最初の障壁が軋む。


 ひびが走った。


 レンリは反射的に魔力を注ぎ足す。しかし、崩壊の速度には追いつかない。


 次の瞬間、光の膜が砕け、無数の欠片となって弾け飛んだ。


 その向こうから、さらに濃密な熱が押し寄せる。


 二枚目の障壁が震えた。


 同時に、レンリの両腕も震えていた。


 魔力を注ぐたび、身体の奥から何かが抜け落ちていくような感覚がある。それでも手を下ろすことはできなかった。


 ここで術式を止めれば、その向こうにいるリセナと子供へ炎が届く。


 その事実だけが、崩れそうになる意識を繋ぎ止めていた。


 炎の向こうに、別の光景が重なる。


 崩れていく街。


 逃げ惑う人々。


 伸ばした手。


 その先へ届かなかったもの。


 ほんの一瞬だった。


 過去の光景が、目の前の炎と重なった。


 あのときと、似ている。


 悪意に満ちた魔力も。


 崩れていく街も。


 何もできないまま、ただ見ているしかなかった感覚も。


 けれど――。


 レンリは、震える自分の手を見た。


 あのときとは違う。


 今は、この手に魔術がある。


「……もう、なにも守れないのは、嫌だ」


 炎の轟音に消えそうなほど、小さな声だった。


 それだけを呟いて、レンリは再び前を見る。


 過去は消えない。


 あのとき何もできなかったことも、なくならない。


 それでも――今、背後にいる二人を守ることはできる。


 二枚目の障壁が、大きく軋む。


 レンリは奥歯を噛み締め、残された魔力を注ぎ込んだ。


 それでも、光の膜に亀裂が走る。


 そして――砕けた。


 炎の圧力が三枚目へ叩きつけられる。


 術式全体が大きく歪み、身体が後ろへ押し戻されそうになった。


 レンリは足を踏みしめる。背後にはリセナがいる。その腕には、守るべき子供が抱かれている。


 だから、退けない。


 炎の向こうから、低い声が響いた。


『……ほう』


 レザリアスの声だった。


 その一言に、これまでとは僅かに違う響きが混じっていた。


 レンリは炎越しに、巨大な黄色い瞳がこちらへ向けられるのを感じた。


『魔力を持たぬはずの黒髪(ノワール)が……これほどの防御術式を張るとは……』


 それまで、レザリアスの黄色い瞳が、自分へ向けられることなどなかった。


 けれど、今は違う。


 炎越しに向けられた視線が、レンリという存在を初めて捉えている。


 レンリは歯を食いしばったまま、その視線を受け止める。


 怖かった。


 巨大な瞳も、その奥に潜む力も。


 けれど今は、それを考えている余裕さえない。


 三枚目の障壁が、限界まで押し潰されていた。


 その隙間から、炎の熱が一気に流れ込んできた。


 両腕が焼けるように熱くなる。


 焦げた袖の下を鋭い痛みが走り、指先まで痺れるような感覚が広がっていった。


「……っ!」


 思わず息が漏れる。


 それでも、両手は下ろさない。


 痛みに意識を奪われれば、術式が崩れる。


 崩れれば、炎はリセナたちへ届く。


 だから、見るべきなのは目の前だけだった。


 三枚目の障壁が、さらに歪む。


 残るのは、最後の一枚。


 レンリはそこへ意識を集中させた。


 正面から受け続ければ、保たない。


 ならば――受け止める必要はない。


 火球そのものを止められなくても、進む方向を変えることならできる。


 術式の構造へ意識を向ける。


 障壁の形を崩さず、ほんの僅かに角度だけを変える。


 少しでも間違えれば、炎はそのままリセナたちへ流れ込む。


 それでも、今の自分に選べる方法は他になかった。


 炎が最後の障壁を覆う。


 淡い光の膜が赤く染まり、今にも砕けそうなほど震えた。


 レンリは歯を食いしばる。


「……お願い……!」


 ほんの僅かに、障壁の角度が変わった。


 火球の圧力が、真正面から外れる。


 巨大な赤黒い炎が、レンリたちの頭上へ滑るように逸れていった。


 次の瞬間、視界が開ける。


 炎が夜空を裂き、そのまま遥か後方の建物へ突き抜けた。


 遅れて轟音が響き、崩れ落ちた建物の向こうから火柱が立ち上る。


 熱風が街路を駆け抜けたが、それはレンリたちの身体を直撃することはなかった。


 最後に残った障壁が、淡い光の粒となって崩れていく。


 それを見届ける余裕もなく、レンリの身体から力が抜けた。


「はぁ……っ、はぁ……」


 膝が地面につく。


 荒い息が何度も喉を震わせる。


 両腕が重かった。


 焼けた袖の隙間から薄い煙が立ち昇り、腕を動かすたびに鋭い痛みが走る。


 それでも、そんなことは今はどうでもよかった。


 レンリは顔を上げる。


 振り向く。


 確かめなければならない。


 陽炎の向こうに、リセナがいた。


 腕の中には、幼い子供がいる。


 無事だった。


 リセナはレンリの姿を認めると、子供を抱いたまま駆け寄ってきた。


 白銀の髪が炎の残光を受けて揺れる。


 けれど、レンリの前まで来ると、ほんの少しだけ足を止めた。


 紅い瞳が、レンリの両腕へ向けられる。


 焦げた袖。


 赤く腫れた腕。


 指先に残る震え。


 そこから立ち昇る薄い煙。


 その視線を追うようにして、レンリ自身も自分の腕を見た。


 激しい痛みが、途切れなく続いている。


 けれど、子供は無事だった。 


 リセナも、守ることができた。


 それだけでよかった。


 張り詰めていたものが、胸の奥でほんの少しだけ緩んでいく。


 守れた。


 今度は、守れた。


 それは過去を消してくれるものではない。


 あのとき何もできなかった事実が、なくなるわけでもない。


 それでも、今この瞬間に自分が選んだことだけは、確かにここに残っている。


 その事実が、痛みの奥へ静かに染み込んでいった。


 リセナは何も言わなかった。


 ただ、紅い瞳でレンリを見つめている。


 その視線が、焦げた袖から両腕、そして掌へと移っていく。


 しばらくして、リセナが小さく口を開く。


「……だい……じょうぶ……?」


 その声は、炎の消えた街にはあまりにも小さかった。


 レンリは一瞬だけ目を瞬かせる。


 胸の奥に、わずかな驚きが浮かんだ。


 リセナが、自分のことを気にしている。


 それだけの言葉が、なぜか胸の奥に残った。


 だから、痛みを隠すように口元を緩める。


「ま、まあ……あとで治癒術式を使えば……なんとか、なる……かな」


 自分でも頼りないと思うほど、弱々しい声だった。


 レンリは、その紅い瞳を見つめ返した。


「ありがとう……」


 ぽつりと落ちた声に、レンリは一瞬、言葉を失った。


 たったそれだけなのに、胸の奥に残っていた緊張が、また少しだけほどけていく。


 そのときだった。


『……やるではないか』


 低い声が、焼けた街に響いた。


 レンリは反射的に顔を上げる。


 煙の向こうに、レザリアスが立っていた。


 巨大な身体は、先ほどと変わらない。


 炎を吐き切ったばかりの喉の奥から、細い煙が一筋、夜空へ昇っている。


 それだけだった。


 それを見たレンリは、改めて理解する。


 自分は、ただ炎を防いだだけだ。


 レザリアスそのものには、何の傷も与えていない。


『まさか、我が炎を正面から受け、凌ぎ切るとはな』


 その声には、先ほどまでにはなかった色が混じっていた。


 驚き。


 そして、それ以上に興味。


 初めて、レンリという存在そのものへ向けられる、これまでとは異なる視線。


 けれど、それでもレザリアスの余裕が崩れることはない。


『だが――』


 黄色い瞳が細められる。


『所詮は、一時凌ぎに過ぎぬ』


 その言葉が、静まり返った街路へ落ちた。


『我が身体に、傷ひとつつけられぬ以上――』


 レンリは、焼けた両腕を庇うようにして息を吐く。


 確かに、その通りだった。


『貴様たちに、勝ちは無い』


 低い声が、夜の街に重く響く。


 レンリは、その黄色い瞳から逃げなかった。


 焼けた街の熱が、まだ頬を撫でている。


 確かに、レザリアスの言う通りだった。


 レンリは、焼けた両腕を見下ろす。


 魔力も、ほとんど残っていない。


 それでも――。


 レンリは、震える両手を見つめた。


 さっきまで、この手は炎を防いでいた。


 何もできなかったあの日とは違う。


 少なくとも今は、この手で誰かを守ることができる。


 その事実だけを、レンリは静かに握り締めた。

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