第30話 守るべきものの牙
熱波の残響が、ゆっくりと夜空へ溶けていく。
炎に照らされた空には薄い雲が広がり、その向こうで月の光がぼんやりと滲んでいた。
煤と瓦礫に埋もれた暗がりから、幼い子供が小さく息を呑む音が聞こえた。
レンリはまだ焼けつくような空気の中に膝をついたまま、その気配へ顔を向ける。
崩れた壁の隙間から覗いた小さな顔には怯えの色が濃く浮かんでいたが、目立った怪我はないようだった。
「ねえ、キミさ……」
声を掛けると、子供の肩がびくりと震えた。
レンリはできるだけ穏やかな声を作りながら、子供を抱いているリセナへ視線を向ける。
ここに留まっていれば、次の攻撃に巻き込まれるのは時間の問題だった。
レザリアスはすぐそこにいる。
街路を埋める熱気が、それを嫌というほど教えてくれている。
「あの様子だと……あいつは今、炎を吐けない。逃げるなら、今のうちだ」
子供は何度かレンリとリセナの顔を見比べ、それから小さく頷いた。
リセナの腕を離れると、身を縮めるようにして崩れた壁の隙間を抜け、何度も転びそうになりながら、それでも南へ向かって走っていく。
その小さな背中が炎と煙の向こうへ消えるまで、レンリは視線を外さなかった。
やがて姿が完全に見えなくなると、ようやく張り詰めていた息が漏れる。
レンリは石畳に両膝をついたまま、浅く荒い呼吸を繰り返していた。
両腕の袖は黒く焦げ落ち、その下の皮膚は赤黒く腫れ上がっている。
脈打つたびに鋭い痛みが走り、指先まで痺れるようだった。
それでも、子供が逃げ切ったことだけは確かめたかった。
「ま、守れた……かな?」
喉も焼けていて、掠れた声しか出ない。
すぐ横で、白銀の髪が揺れた。
リセナが立ち上がったのだろう。
レンリも顔を上げようとした、そのときだった。
熱気の向こうから、重い気配が落ちてくる。
レンリは反射的に顔を上げた。
少し先――崩れた建物と建物の間、その向こうに広がる街路を塞ぐように、火竜レザリアスが立っている。
二人から数十歩ほど離れた位置にいるはずなのに、その巨体が放つ熱だけは距離など関係ないかのように肌へ届いていた。
先ほどまでの攻防などなかったかのように、その巨体には傷ひとつない。
赤く鈍い光を帯びた甲鱗が炎を照り返し、煙の向こうから黄色い瞳がこちらを捉えている。
その視線に晒されただけで、レンリは喉の奥が乾いていくのを感じた。
次の瞬間だった。
レザリアスの巨体が、沈んだ。
「――え?」
何が起きたのか理解するより先に、視界いっぱいに巨大な影が落ちてくる。
身体が横へ引かれた。
声を上げる暇もなかった。
リセナに腕を掴まれ、ほとんど引きずられるようにして後方へ退いた直後――轟音が街路を揺らした。
石畳が爆ぜる。
さっきまでレンリが膝をついていた場所へ、レザリアスの前肢が叩きつけられていた。
太い爪が地面を深く抉り、砕けた石が熱気に巻き上げられる。
レンリはリセナに支えられたまま、崩れた建物の陰へ転がり込んだ。
直撃は免れた。
けれど、頬を撫でた熱だけで皮膚が焼けるように痛む。
息を吸うだけでも熱が肺の奥まで入り込み、さっきまで炎を防いでいた身体から、さらに力が抜けていくようだった。
リセナが立ち上がる。
その白い魔装の裾が、いつの間にか黒く焦げていた。
レンリはそれを見て、息を詰めた。
炎を吐いていない。
それでも、あの熱は消えていない。
近くにいるだけで、焼けた空気が肌を撫でるたびに体力を奪われていく。
魔装の表面さえ焦がされ、呼吸をすることすら苦しくなる。
レンリは痛む両腕を胸元へ抱え込み、荒い息を整えながら竜を睨みつける。
「今度は……そうくるんだ」
レザリアスは答える代わりに、地面へ食い込んでいた前肢をゆっくりと持ち上げた。
その動作だけで周囲の空気が押し潰されるような重圧が生まれ、レンリの身体が無意識に強張る。
『ククク……我が武器は炎だけではない』
低く濁った笑いが、焼けた街路へ響いた。
『灼熱を帯びたこの巨体で押し潰してもよい。この爪で引き裂いても、この牙で噛み砕いてもよい――』
その言葉に、レンリの視線が自然とレザリアスの口元へ向いた。
『さて、どうしてくれよう――』
炎を吐き出したばかりの巨大な顎。その奥には、夜の炎を受けて鈍く光る牙が並んでいる。
レンリは、その牙から視線を逸らせなかった。
「牙ね……」
レンリは、焼けた両腕へ目を落とした。
自分には、敵を討ち果たす術がない。
術式を読み解き、防御の障壁を組むことはできる。
剣、弓、防具――あらゆる魔装を形成することもできる。
しかし、そうやって形成した武器を振るうことは、できない。
こんな状況になって、痛いほど思い知る。
それは、守るために必要な力なのだと。
脅威から誰かを守るためには、その装甲を穿ち、噛み千切るための『牙』が、必要なのだと。
獣には牙がある。戦士には武器がある。魔術師には攻撃魔術がある。
けれど、自分には――。
「あたしにも……そんなものがあれば、ね」
小さく漏れた声は、熱気の中へ溶けていった。
返事はない。
けれど、隣にいたリセナが動いた。
レンリが顔を上げる。
白銀の少女は、レザリアスではなく、レンリを見ていた。
紅い瞳が、焦げた袖から赤く腫れた皮膚へ、そして震える指先へと静かに移っていく。
何を考えているのか、レンリには分からなかった。
ただ、その視線だけが妙に静かだった。
リセナが口を開く。
「レンリは……」
レンリはハッとしてリセナを見た。
その言葉の続きを待つように、視線を離せない。
リセナは手にした澪剣を強く握り直していた。
纏っていた水の魔力を削られ、細い煙を吹き上げている刃。
この状態では、火球はしばらく飛んでこないとしても、火竜の鱗に掠り傷ひとつ付けることすら叶わない。
それでも、リセナは剣を下ろさなかった。
一歩、前へ踏み出す。
「レンリは……そのままでいい」
焦げた裾を夜風に揺らし、衰えた水の刃を真っ直ぐ前方に構える。
背後のレンリへ振り返らないまま、静かに言葉を紡ぐ。
「私が……レンリの牙になる……から」
レンリの胸が、強く跳ねた。
その言葉だけが、灼熱に満ちた街の中で、不思議なほど鮮明に残った。
「……リセナ……」
返す声が震える。
けれど、すぐに現実へ引き戻された。
レンリはリセナの手元へ目を向ける。
澪剣の刀身に残された水の魔力は、もう僅かしかない。
「いや……かっこいいセリフだけどさ……さすがに無茶だ。その剣に残った水属性の魔力は僅か。そもそも、この剣じゃ、あいつの身体に傷一つつけられなかった」
「……だから、考えて」
「……へ?」
あまりにも簡単に返された言葉に、レンリは目を瞬かせる。
リセナは構えた刃の先を火竜に向けたまま、静かに立っている。
「まだ、方法は……あるはず」
「いや、そんな無茶振りは……」
「レンリなら……できるはず」
「あのねぇ……!」
「レンリは、私に出来ないことができる……から」
その言葉を聞いても、レンリにはすぐに返す言葉が見つからなかった。
目の前に立つ華奢な背中を見つめる。
自分には何ができるのか。
リセナが言う「できること」が何なのか。
考えたところで、今すぐ答えが出てくるわけではない。
「……考えて、か」
レンリは掠れた声で、その言葉を反芻した。
無茶だ。
どう考えても無茶だ。
目の前には、炎を吐かずとも街を破壊できる火竜がいる。
自分の魔力はほとんど残っておらず、両腕も焼けている。
リセナの持つ澪剣も限界に近い。
それでも、不思議と諦める気にはなれなかった。
目の前に立つ小さな背中を見ていると、ただ無理だと決めつけることができなかった。
灼熱の街のただ中で、火竜がこちらを見下ろしている。
もはや、逃げ出す場所もない。
ならば――考えるしかない。
両腕の激痛を意識の底へ押し込み、レンリはゆっくりと、眼前に立ちはだかる火竜を見上げた。
何ができるのか。
何をすれば、この状況を変えられるのか。
まだ、何ひとつ思いつかない。
それでもレンリは、目を逸らさなかった。




