第25話 澪剣、エリオファナス
レンリは、差し出されたリセナの掌へ術式を重ねていった。
幾重にも走る光が掌の上で絡み合い、淡い青白い輝きへと変わっていく。
「と、とりあえず……剣でいいよね?」
レンリの問いに、リセナは小さく頷いた。
「そして、属性は――」
考えるまでもなかった。
「炎には、水……ってね」
言葉に呼応するように、青白い光の中へ水の魔力が流れ込んでいく。
熱気にさらされた肌がじりじりと痛む。
燃え盛る炎の向こうには、巨大な火竜がいる。
その存在を意識するほど、術式を組み上げる指先に余計な力が入りそうになる。
レンリは息を整え、魔力の流れだけを追った。
集めた水の魔力を束ねる。
流れを整え、形を与える。
光の中心が細く伸び、刀身を形作っていく。
続いて柄が生まれ、最後に全体を支える術式が収束した。
やがて青白い光がほどけ、その中から一本の剣が姿を現した。
透明感のある水色の刀身。
その内部では、ごく細い水流が静かに渦を巻いている。
「……できた。澪剣――エリオファナス」
レンリが告げると、リセナは掌に宿った剣へ視線を落とした。
青白い光が刀身を淡く縁取り、その輝きが白銀の髪へ映り込んでいる。
白銀の少女は紅い瞳を細め、唇を微かに動かした。
「……ありが……」
「えっ、なんて?」
リセナはわずかに唇を尖らせ、もう一度呟いた。
「ありが、とう……」
「あっ……うん」
思いがけない言葉に、レンリは少しだけ目を瞬いた。
それから、ようやく小さく笑う。
「気をつけて」
リセナは頷いた。
掌に収まった剣の柄を握り直す。
その姿を見届けてから、レンリはゆっくりと手を引いた。
リセナが一歩、前へ出る。
その瞬間だった。
火竜の黄色い瞳が、初めて明確にリセナを捉えた。
『ほう』
低い声が、焼けた街に響いた。
リセナの足が止まる。
レンリも思わず息を詰めた。
火竜の巨体を覆っていた炎が、大きく揺らめく。
その赤い炎の向こうで、巨大な口がゆっくりと開いていった。
『人間どもはすべて逃げ出したと思っていたが……まだ向かってくる者がいるか』
声には怒りがなかった。
むしろ、目の前に現れたものを面白がるような響きがあった。
レンリはその声音に、背筋を撫でられるような嫌悪を覚えた。
炎に包まれた巨体。
その奥に浮かぶ、黄色い瞳。
そこにあるのは怒りでも、焦りでもない。
自分たちがどう抗うのかを眺めるような、冷たい愉悦だった。
『面白い――何者だ、貴様たちは』
火竜の首がわずかに下がった。
巨大な黄色い瞳が、リセナを見据える。
『まず、我から名乗ろうか――』
炎が、ゆらりと揺れた。
『我は、火竜・レザリアス』
その名が、吐き出された炎とともに夜の街へ響き渡る。
『この地を灼き、人間どもの絶望を喰らう者――!』
その言葉が消えるより早く、リセナが動いた。
地面を蹴る。
一瞬だった。
白銀の少女の身体が、炎の向こうへ消える。
「――速い!」
レンリの声が遅れて響いた。
次の瞬間、火竜の前脚が振り下ろされた。
轟音。
巨大な爪が石畳を砕く。
しかし、そこにリセナはいない。
すでに横へ回り込んでいた。
白銀の髪が炎の中を走る。
澪剣が、低く構えられる。
そして――。
一閃。
青白い刃が、火竜の身体を覆う炎へ叩き込まれた。
炎が大きく揺らいだ。
赤い炎が、真っ二つに割れる。
その向こうに、一瞬だけ黒く焼けた鱗が覗いた。
レンリは目を見開いた。
「斬った……!」
炎そのものが、斬れている。
水の刃が炎を押し分け、そのまま火竜の身体へ迫る。
いける。
そう思った。
ほんの一瞬だけ。
けれど――。
甲高い音が響いた。
澪剣が、鱗に弾かれた。
リセナの身体がわずかに後ろへ流れる。
刀身が震えている。
火竜の鱗には、傷ひとつ残っていなかった。
「……えっ?」
レンリの声が漏れた。
炎は斬れた。
なのに、本体には届かない。
レザリアスは、自分の身体を見下ろした。
傷のない鱗。
その周囲を、再び炎が覆っていく。
『……なるほど』
低い声が響いた。
『我が炎を斬るか』
まるで、珍しいものを見つけたようだった。
けれど、そこに焦りはない。
レザリアスはただ、己の鱗を見下ろしている。
『だが』
炎が、一気に膨れ上がった。
『その剣で、我の身体を、鱗を――斬れると思うか?』
熱風が吹き荒れる。
レンリは反射的に腕で顔を庇った。
熱い。
炎の向こうで、リセナの姿が揺らいでいる。
それでも、少女は退かなかった。
澪剣を構え直す。
紅い瞳が、まっすぐにレザリアスを見据えていた。
そして再び、地面を蹴る。
炎の壁へ飛び込む。
澪剣が振り抜かれる。
二度。
三度。
そのたびに炎が大きく裂け、青白い水の刃が鱗へと迫る。
しかし――届かない。
弾かれる。
また弾かれる。
刃が鱗を打つたび、甲高い音が夜の街に響いた。
リセナは一度も足を止めない。
炎を斬り、踏み込み、鱗へ刃を叩き込む。
その動きに迷いはなかった。
けれど、レザリアスもまた動じない。
巨大な身体をわずかに揺らすだけで、リセナの斬撃を受け止めている。
レンリはその光景を見つめながら、胸の奥に焦りが積もっていくのを感じていた。
炎は斬れる。
そこまでは成功している。
ならば、あとは鱗を突破すればいい。
けれど、何度繰り返しても結果は変わらなかった。
炎の奥へ刃が届く。
鱗を打つ。
弾かれる。
それだけだ。
リセナが再び距離を取った。
白銀の髪が熱風に大きく揺れる。
澪剣を握ったまま、呼吸を整えるように一度だけ肩が上下した。
対して、レザリアスはほとんど変わっていない。
炎を纏い、巨大な身体をそこに置いたまま、ただ二人を見下ろしている。
レンリは、澪剣の刀身へ目を向けた。
まだ損傷はない。
剣そのものが通じないわけではない。
ただ――相手の鱗が、それ以上に硬い。
「……硬すぎる」
思わず声が漏れた。
リセナが振り返る。
その紅い瞳と、一瞬だけ目が合った。
レンリは言葉を続けられなかった。
何かを考えなければならない。
けれど、目の前の状況をどう変えればいいのか、まだ何も見えてこない。
『さあ、どうする?』
レザリアスが笑った。
炎が、さらに高く燃え上がる。
その熱が夜気を押し退けるように広がっていく。
レンリはその熱に晒されながら、指先を強く握った。
まだ始まったばかりだ。
それなのに――。
このままでは、勝てない。




