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第24話 劫炎の火竜

 放たれた矢が、夜空を埋め尽くした。


 幾十もの矢が月明かりを裂き、炎を纏った巨体へ向かって飛んでいく。


 その光景を、レンリは息を詰めて見つめていた。


 当たる。


 そう思った。


 これだけの数なら、いくら強大な魔族でも、何本かは身体へ届く。


 ――けれど。


 火竜は、動かなかった。


 ただ、わずかに首を傾けただけだった。


 次の瞬間。


 紅蓮の炎が、その巨体を覆った。


 炎は意思を持っているかのように渦を巻き、飛来した矢を次々と飲み込んでいく。


 乾いた音が、夜空に連続して響いた。


 一本。


 二本。


 十本。


 炎に触れた矢は、火竜の身体へ届くことさえなく、瞬く間に燃え尽きて灰となった。


「……う、嘘だろ……」


 誰かの声が漏れる。


 それを合図にしたかのように、城壁の上へ動揺が広がった。


 次の矢を番える音も、指示を飛ばす声も、先ほどまでの勢いを失っている。


 渾身の一斉攻撃が、何の意味も持たなかった。


 その事実だけが、兵士たちの間へ重く落ちていた。


 その時、隣に立っていたリセナが、静かに口を開いた。


「次は……本気で来る」


「えっ……?」


 レンリが振り向く。


 リセナは火竜から目を離さない。


「このままだと、皆……やられる」


「あの炎……あれで、まだ本気じゃない……?」


 リセナは、わずかに紅い瞳を細めた。


 そして、小さく頷く。


 白銀のツインテールが熱風に煽られ、頬の横で揺れた。


 レンリは再び火竜を見る。


 これほどの炎をまといながら。


 これほどの攻撃を受けながら。


 それでも、まだ本気ではない。


 その事実が、遅れて恐怖となって胸へ落ちてきた。


 熱気が強くなる。


 頬や首筋に汗が滲む。


 その向こうで、火竜の黄色い瞳が静かにこちらを見下ろしていた。


 そこに怒りはない。


 攻撃を受けたことへの憤りもない。


 ただ、愉しんでいる。


 人間が必死に抗おうとする姿そのものを、興味深そうに眺めている。


『……人間というもの』


 火竜の声が、夜の街へ響いた。


『これほどまでに、無力か……』


 その言葉に呼応するように、全身を覆う炎が大きく膨れ上がった。


「――まずい!」


 城壁の上から声が上がる。


 兵士たちが一斉に弓を構え直した。


 けれど、火竜は二度目の矢を待つことすらしなかった。


 巨大な翼が、ゆっくりと開く。


 その動きに合わせて、周囲の空気が震えた。


 炎が膨らむ。


 夜空そのものが、赤く染まっていく。


 レンリは思わず息を呑んだ。


「……来る」


 次の瞬間。


 炎が、吐き出された。


 轟音とともに、紅蓮の奔流が夜空を埋め尽くす。


 視界が、すべて赤く染まった。


 熱風が城壁を叩きつけ、立っていることすら困難なほどの勢いで駆け抜けていく。


 兵士たちの悲鳴が重なった。


 城壁が赤く染まる。


 石が焼け、亀裂が走り、その一部が轟音とともに崩れ落ちた。


「な……!」


「城壁が……!」


「下がれ! 全員、下がれ!」


 叫び声が飛び交う。


 炎の勢いは衰えない。


 石畳が熱で変色し、城壁に取りつけられていた鉄製の金具が赤く焼けていく。


 熱気に耐えきれず、兵士たちの手から武器が落ちていく。


「無理だ……!」


「こんなの、どうやって戦えっていうんだ!」


 指揮を執っていた兵士が、炎の向こうを睨みながら叫んだ。


「撤退だ! これ以上ここにいたら全滅する!」


「ですが、街が――!」


「分かっている!」


 怒鳴り返した声には、悔しさが滲んでいた。


「南へ下がれ! 住民の避難を優先するんだ!」


 兵士たちは一瞬だけ動きを止めた。


 けれど、すぐに命令へ従った。


 槍を抱えたまま城壁を駆け下りる者。


 熱気に咳き込みながら仲間の肩を支える者。


 北を振り返り、悔しげに拳を握る者。


 それでも、誰も炎の前へ戻ろうとはしなかった。


 やがて、北門から兵士たちの姿が消えていく。


 最後までその場に残っていた兵士が、ふとレンリたちに気づいた。


「お前たちも早く逃げろ!」


 レンリは答えられなかった。


「ここに残っても死ぬだけだ! 南へ行け!」


 その声を最後に、兵士もまた城壁を駆け下りていった。


 その背中を見送ったあと、レンリはゆっくりと周囲を見回した。


 崩れかけた城壁。


 焼け焦げた石畳。


 熱を孕んだ夜気。


 そして、その向こうには、まだ南へ逃げていく人々の姿が見えている。


 けれど、街からすべての人が逃げ出せたわけではない。


 避難が間に合っていない家もあるだろう。


 このまま火竜が街へ入れば――。


 レンリは、無意識に拳を握った。


「……ひどいね。これは……」


 思わず漏れた声に、隣のリセナは答えなかった。


 ただ、火竜を見つめている。


 巨大な翼。


 燃え盛る身体。


 そして、こちらを見下ろす黄色い瞳。


 あれほどの力を持つ魔族を前にして、兵士たちは撤退した。


 それは仕方のないことだった。


 あのまま戦い続ければ、街を守る前に兵士たち自身が焼き尽くされる。


 でも、だからこそ――。


 ここで自分たちまで逃げれば、本当に誰も残らない。


 レンリは、隣の少女へ視線を向けた。


「……どうする?」


 自分でも驚くほど、弱々しい声だった。


「このまま……逃げる?」


 返事を待つ間、レンリは火竜へ目を向けたまま、自分の胸の奥にある恐怖を見つめていた。


 怖い。


 できることなら逃げたい。


 あんなものと戦って勝てるなど、到底思えない。


 けれど、ここから南へ逃げれば、自分たちは助かるかもしれない。


 その代わり、その背後にある街はどうなる。


 さっきまで笑っていた人たちは。


 子どもを抱えて走っていた母親は。


 老人の手を引いていた若者は。


 そして、まだ街の中に残っている人たちは。


 レンリは答えを急かさなかった。


 ただ、隣にいる少女の言葉を待った。


 やがて。


 リセナが、ゆっくりと片手を上げた。


 その掌が、レンリへ向けられる。


「魔族は……倒す」


 短い言葉だった。


 けれど、その声に迷いはなかった。


 レンリは、しばらくリセナの顔を見つめた。


 そして、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩むのを感じた。


「……なんとなく、そんな気がした」


 半分ほっとしたように、レンリは小さく呟いた。


 怖さが消えたわけではない。


 勝てると思ったわけでもない。


 ただ、一人ではない。


 それだけで、今は十分だった。


 リセナの紅い瞳が、火竜へ向けられる。


 その視線が、ほんの一瞬だけレンリへ戻った。


「……武器を、お願い」


 差し出された掌が、わずかに開く。


 レンリは目を瞬いた。


 それから、ふっと口元を緩める。


「了解、っと!」


 その言葉と同時に、レンリの周囲へ魔術式の光が走った。


 静まり返った北門に、淡い光が灯る。


 逃げていく人々の足音が、遠ざかっていく。


 警鐘は、まだ鳴り続けていた。


 その音を背に、レンリはリセナのための武器を形作っていく。


 目の前には、劫炎を纏った火竜。


 逃げ道は、もう南にしかない。


 それでも二人は、その道へ背を向けた。


 そして――。


 レンリの手の中で、幾重にも走った魔術式が、ひとつの光へと収束していく。

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