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第23話 悪意の声

 異様な静寂だった。


 巨大な火竜は宙に留まったまま、動かない。


 城壁の兵士たちは弓を構えたまま、誰も第一射を放とうとしなかった。


 放てば、終わる。


 そんな予感が、誰の胸にもあった。


 レンリは唾を飲み込む。


 あれほどの力を持つ魔族が、なぜ動かないのか。


 なぜ、ただ見ているだけなのか。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


 魔族が人里を襲うのは、珍しいことではない。


 だが、それは大抵、縄張りを侵されたか、あるいは飢えに耐えかねてのことだ。


 目の前のそれは、違う。


 これほどの力を持つ魔族が、明確な意思を持って、自ら街を狙っている。


 まるで――。


「……こんな強力な魔族が、自発的に街を襲うだなんて」


 誰に言うでもなく、レンリは声を漏らす。


「魔王がいた、あの時代ならともかく」


 昔語りだ。


 もう何百年も前、世界を恐怖に沈めたという、伝説の中の存在。


 今はもう、おとぎ話の中にしか残っていないはずのもの。


 だから、それはただの独り言のつもりだった。


 届くはずのない、意味のない呟き。


 ――のはずだった。


『……ほう』


 低い声が、夜気を震わせた。


 城壁の兵士たちが、びくりと肩を揺らす。


 火竜の黄色い瞳が、初めてはっきりとレンリを捉えた。


『魔王――か』


 炎を纏った喉の奥から、くぐもった声が響く。


『懐かしい響きだ』


 レンリは息を呑んだ。


 まさか、聞こえていたなど思いもしなかった。


 それ以上に。


 人語を解する魔族だという事実に、背筋が冷えた。


『だが今、確かにあの時代に似たものを感じる』


 火竜の身体を包む炎が、ゆらりと揺れる。


『街には人間がいる。人間を喰らえば腹が満たされる。その悲鳴は――実に、愉悦』


 黄色い瞳が、細められた。


『我が本能に同調し、囁いてきた声は――まさに、真理といえよう』


「……な」


 レンリの喉から、声にならない声が漏れる。


「な、何を言っているの――?」


 同調。


 囁いてきた声。


 まるで、自分の意思ではないかのような。


 まるで、誰かに促されて、ここへ来たかのような。


 言葉の端々に滲む違和感が、レンリの理解を拒んでいた。


 この魔族は、ただ暴れたいわけではない。


 ただ飢えているわけでもない。


 何か――もっと別の何かに、突き動かされている。


「……あの魔族」


 隣で、リセナが静かに呟いた。


 紅い瞳は、火竜をまっすぐ見据えたまま動かない。


「人への強い悪意。まるで……魔王がいたときなような」


「あ、それさっき、あたしも言った――」


 言いかけて、レンリはハッとした。


「あんた……魔王がいた時代を、知ってるの……?」


 よく考えれば、リセナは永い時間を封印されていた。


 封印される以前、普通に生きていた時代が、魔王のいた時代であってもおかしくない。


「記憶……戻ったの……?」


 囁くように聞くレンリ。


 リセナは一瞬小首を傾げ、ふるふると首を横に振る。


 記憶があるのか、ないのか、紛らわしい。


「でも、なんとなく……わかる」


「経験則ってやつね。まあ、それはいいとして――」


 そこまで言いかけて、不意に頬を掠めた邪気にレンリはぞっとした。


 狂気ではない。


 演技でもない。


 あの魔族は心の底から、人間を喰らうことに、人間を殺すことに、愉悦を感じている。


 普通の生物であれば、その身に危険が迫れば、逃げる、避ける、獲物を諦める――そういった選択肢があるだろう。


 だが、明確に人に悪意のあるそれは違う。


 はっきり言って討伐するしかない。


 しかし、今いる人間たちでは、もちろん自分達も含めて、目の前にそびえるこの強大な魔族に太刀打ちできることなど、到底、想像しがたかった。


 レンリの首筋を、ぬるい汗が伝う。


『――さて』


 火竜が、緩やかに首を巡らせた。


 燃え盛る双眸が、城壁全体を睥睨する。


『語らいはここまでだ』


 その言葉と同時に、炎の勢いが一気に膨れ上がった。


 夜空が、昼のように赤く染まる。


 兵士たちの誰かが、悲鳴に近い声を上げた。


『さあ――』


 紅蓮の顎が、ゆっくりと開かれていく。


『存分に、愉しませてもらおう』


 城壁の上で、誰かが叫んだ。


「来るぞ――!!」


 その声を合図に、矢の雨が夜空へ放たれた。

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