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第22話 迫り来る影

 宿を飛び出した瞬間、冷えた夜気が頬を刺した。


 つい先ほどまで笑い声で満ちていた通りは、まるで別の街のようだった。


 家々の扉が乱暴に閉まり、店主たちは商品を抱える余裕もなく家族の腕を引いて走り出している。


 子どもを抱き上げる母親もいれば、足元のおぼつかない老人を支えながら逃げる若者もいた。


 荷物を落としても拾おうとする者はなく、誰もがただ南へ向かって駆けている。


 怒鳴り声と泣き声が入り混じり、警鐘の音さえ飲み込むほどの混乱が街を覆っていた。


 レンリは、思わず足を止めた。


 逃げなければならない。


 誰もが、その一心で動いている。


 これほど多くの人が一斉に逃げる光景を見るのは、初めてだった。


 魔族から逃げることなら、もう慣れている。


 追われるのは、いつも自分だった。自分が逃げれば、それで済んだ。少なくとも、これまではそうだった。


 けれど、今回は違う。


 目の前を走っているのは、自分だけではない。


 子どもも、大人も、旅人も、この街で暮らしてきた人々も、誰もが同じ恐怖から逃れようとしている。


 街そのものが、逃げようとしている。


「……ねえ」


 隣から、静かな声が聞こえた。


 リセナだった。


 レンリは、はっと我に返る。


「あ……うん」


 二人は人波を縫うようにして、北へ向かった。


 避難する人々とは逆方向へ進んでいるのは、自分たちだけだった。


「そっちは危ないぞ!」


 鎧姿の兵士が、二人へ向かって叫ぶ。


「北へ行くな! 早く避難しろ!」


「あの、待ってください――!」


 兵士が振り返る。


「あたし、一応魔術師です」


 兵士は訝しげにレンリを見た。


「黒髪(ノワール)なのにか?」


「それ、よく言われるんですけど、今は説明してる暇ないんで。それより、どんな魔族なんですか――?」


 兵士は苦々しく唇を噛んだ。


「分からん……! 監視砦から伝令が来た時には、すでに突破されていた! 姿を確かめる余裕すらなかったらしい!」


「そう……ですか」


「だから急げ! 街から離れろ!」


 兵士はそう言い残すと、避難誘導へ戻るため、再び人波の中へ駆けていった。


 レンリは、その背中をしばらく見送ってから、小さく息を吐く。


「どんな魔族かもわからないなんて……ね」


 対策も何もあったものではない。


 自分達は、とても無謀なことに突っ込んでいこうとしている。


 その時、隣にいたリセナが、北を見つめたまま呟いた。


「……来てる」


「気配を……感じるってやつ?」


「また……近くなった」


「そっか」


 レンリはそう言うと、目を閉じた。


 リセナの言葉を追うように、意識を静かに沈めていく。


 夜風の向こう。


 遠くの山々。


 街を包む空気。


 その奥へ意識を伸ばしていくと、やがて、微かな魔力の揺らぎが触れた。


「……うん、いるね」


 レンリは目を開く。


「確かに来てる。でも、これは……」


 そこで言葉が途切れた。


 宿で感じた時よりも、はっきりしている。


 それなのに、その魔力があまりにも強大なせいで、かえって距離が掴めない。


 まだ遠いはずなのに、すぐそこに巨大な何かがいるような、そんな錯覚すら感じられた。


「……とにかく、行こう」


 二人は再び北門を目指した。


 門へ近づくにつれて、人影は少なくなっていく。


 その代わりに、槍を構えた兵士や弓を番えた兵士たちの姿が増えていった。


 城壁の上では見張りたちが北の闇を睨み続けている。


 誰も余計な言葉を口にしない。


 ただ、これから訪れるものを待つように、張り詰めた空気だけがその場を支配していた。


「見えたぞ!」


 城壁の上から、叫び声が響いた。


 その瞬間、そこにいた全員の視線が北へ向いた。


 レンリも息を呑む。


 山並みの向こう――赤く染まる夜空の下。


 暗闇を割るように、巨大な影がゆっくりと姿を現した。


 最初は、山そのものが動いたように見えた。


 だが、違う。


 闇の中から広がったのは、巨大な翼だった。


 夜空を覆うほどの翼が、一度だけゆっくりと開かれる。


 優雅ささえ感じさせるほどの、落ち着き払った動きだった。


 獲物へ飛びかかる獣のような荒々しさもない。


 ただ、自分がこの空を支配する存在だとでも示すように、その翼は静かに夜を切り取り、巨大な身体がゆっくりと高度を落としていく。


 次の瞬間、巨体の周囲から紅蓮の炎が噴き上がった。


 先ほどから北の空を赤く染めていた光の正体だった。


「あ、あれは……火竜(ドレイク)」


 誰かが震える声で呟く。


 兵士たちが一斉に武器を握り直した。


 だが、火竜はそのまま城壁へ襲いかかろうとはしなかった。


 巨大な翼をゆっくりと畳み、炎を纏った身体を宙に留める。


 その場にいる者たちを見渡すように、首がわずかに動いた。


 燃え盛る炎の奥で、紅い瞳が静かに細められる。


 レンリは、思わず息を止めた。


 あれほどの力を持つ魔族なら、いつでも街を焼けるはずだった。


 それなのに、動かない。


 まるで何かを探しているように。


 あるいは――。


 何かを確かめているように。


 異様な静寂が、まもなく戦場になるであろう夜を包み込んでいた。

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