第20話 崩れる夕景
湯から上がる頃には、外はすっかり夜になっていた。
宿の食堂では旅人たちが酒を酌み交わし、料理の匂いが辺りに漂っている。
二人も簡単な夕食を済ませ、部屋へ戻った。
窓を開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。
昼間より少し冷たい風が、火照った身体には心地よかった。
バルコニーへ出ると、街には無数の灯りが瞬いていた。
家々の窓。
街灯。
酒場の看板。
昼とは違う静かな賑わいが、夜の街を柔らかく包んでいる。
「結構、賑やかな街だねぇ」
手すりに肘をつきながら、レンリは夜景を眺めた。
「……あ、うん」
リセナも隣へ並び、小さく頷く。
遠くから笑い声が聞こえる。
誰かが歌を口ずさみ、どこかの家では子どもが泣き、それをあやす声が続く。
そんな音さえ、この街では穏やかだった。
レンリは目を閉じる。
もう、逃げなくてもいい。
そんな錯覚を抱いてしまいそうになるほど、この街は平和だった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
こんな夜を過ごしたのは、いつ以来だろう。
――その時だった。
「ねえ……」
リセナの声に、レンリは目を開ける。
「ん? どした?」
「……あれは……?」
リセナの視線を追って、北の空を見る。
最初は何も分からなかった。
夜空は暗く、山並みは黒い影になっている。
けれど。
北の空だけが、ぼんやりと赤い。
「夕焼け……?」
口にした瞬間、自分で首を振った。
違う。
日は、とっくに沈んでいる。
赤い光は空ではない。
山の向こうから立ち昇っている。
煙。
炎。
そんなものにも見えた。
「火事……?」
呟いたものの、胸の奥に引っ掛かる違和感は消えない。
ただの火事ならいい。
なのに、どうしてか嫌な予感ばかりが膨らんでいく。
その時だった。
一階から慌ただしい足音が響く。
「おい!」
「見ろ!」
「北の山だ!」
男たちの叫び声。
食堂にいた旅人たちが次々と外へ飛び出していく。
ざわめきが、一気に宿中へ広がった。
「……なんだ?」
レンリは眉をひそめる。
「ちょっと様子を――」
言いかけた、その瞬間。
――ドォォォォン!!
腹の底を揺さぶるような重低音が、夜空を震わせた。
窓硝子がびりびりと鳴る。
床まで、小さく震えた。
街全体が、一瞬だけ静まり返る。
誰もが息を呑んだ。
そして。
カン――
カン――
カン――
鐘の音が鳴り響く。
ゆっくりと。
それでいて街中へ響き渡るほど大きく。
警鐘だった。
レンリの表情から笑みが消える。
ほんの数秒前まで穏やかだった街が、目に見えて慌ただしくなっていく。
通りでは人々が家から飛び出し、空を見上げ、誰かの名を呼び合っていた。
宿の中でも従業員たちが駆け回り、空気が一変していく。
その喧騒の中で。
リセナだけは、赤く染まる夜空を見つめたままだった。
やがて、小さく口を開く。
「……これは、魔族の気配」
静かな声だった。
それなのに、その一言は警鐘よりも重く、レンリの胸へ落ちてきた。
穏やかな夜は、音を立てて崩れ始めていた。




