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第19話 傷痕

 宿の大浴場は、思っていた以上に広かった。


 白い湯気がゆるやかに立ちこめ、石壁を伝う湯の音が静かに響いている。


 浴場全体が温かな空気に包まれ、その熱が冷え切っていた身体へじんわりと染み込んでくる。


 レンリは肩まで湯へ浸かると、思わず大きく息を吐いた。


「はぁぁぁぁぁ……」


 全身の力が、一気に抜けていく。


 逃げ続けた二日間の疲労が、湯の中へ少しずつ溶け出していくようだった。


「生き返る……」


 誰に聞かせるでもない独り言だった。


 向かいでは、リセナが静かに湯へ浸かっている。


 白銀の髪は湯気に溶け込むように淡く揺れ、紅い瞳だけが静かにこちらを見ていた。


 レンリは笑って声を掛ける。


「ねえ、そう思わない?」


「えっ、ええ……」


 リセナは小さく頷いた。


 けれど返事をしたあとも、その視線はどこか落ち着かない。


 何度かこちらを見ては逸らし、またこちらを見る。


 その視線が向かう先に気付いて、レンリは苦笑した。


「……ん?」


 湯から手を出し、自分の肩から首元へ指を這わせる。


「あのさ、気になってるでしょ?」


「えっ」


「あたしの、この『傷』のこと」


 指先がなぞるのは、肩から首元を通り、反対側の肩まで続く一本の傷痕だった。


 薄く残るその痕は、一見すると日焼けの跡にも見える。


 けれど近くで見れば、皮膚の色がわずかに違い、長い年月を経ても消えなかった傷なのだと分かる。


「いや……まあ……」


 気になっている。


 でも聞いていいものか迷っている。


 そんな戸惑いが、短い返事からも伝わってきた。


「気にしないで。一緒に温泉に入るって決めた時点で、傷のことは嫌でも目にはいるわけだし、別にあたしも隠してるわけじゃないしね」


 レンリはリセナへ向き直る。


「……その傷……いったい……」


「だいぶ昔のこと。あたしの住んでいた街が、魔族に襲われた」


 その言葉に、リセナが小さく息を呑んだ気がした。


 浴場へ響く湯音だけが、二人の間を静かに流れていく。


「両親も、街の人達も、みんな殺された。

 あたしは魔術師になる前で――、誰も守れず、誰からも守られず。

 ただただ、偶然――たったひとりだけ、生き残ってしまった。

 これは、そのときについた傷」


 傷痕へ目を落としながら言う。


 もう何度も自分へ言い聞かせてきた過去だ。


 思い返すたび胸が締め付けられることはあっても、涙はとうに枯れてしまっていた。


 リセナは湯の中へ手を沈め、ゆっくりと持ち上げる。


 指先から落ちた雫が、小さな波紋を広げた。


「誰も守れず、誰からも守られず……」


 その呟きに、レンリは肩をすくめる。


「そういうこと」


「だから……魔術師に……?」


「ん?」


「誰かを、守るために」


「いや、そんな大層なもんじゃない。成り行きだよ。それに――」


 そこで言葉を切り、湯へ視線を落とした。


「魔術師になったところで、あたしは誰も何も守れてない。攻撃魔術も使えず、自分のことだけでいっぱいいっぱいだ……なんだかな、って感じだよ」


 苦笑しながら肩を回す。


 湿っぽい話は性に合わない。


 そんな空気を振り払うように、ぱしゃりと湯を払って笑った。


「いや〜、それにしても気持ちいいお湯だね。今夜は、何時間でも寝られそうだよ」


 明るく言い切ると、浴場には再び穏やかな湯音だけが満ちていった。


 リセナも、それ以上は傷のことを尋ねなかった。彼女はただ静かに湯へ浸かりながら、湯気の向こうで揺れるレンリの笑顔を見つめていた。

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