第18話 それぞれの街の景色
宿の中へ足を踏み入れた瞬間、外気とは違う柔らかな暖かさが身体を包んだ。
石造りの建物らしく、床も壁もひんやりとした質感を残している。それでも館内には温泉の熱がほんのりと満ち、冷え切っていた身体が少しずつほどけていくようだった。
レンリは受付で宿代を払い、鍵を受け取る。
財布の中身は、見ないようにした。
見れば、心細くなるだけだ。
「二階のお部屋になります」
案内された部屋は決して広くはなかったが、二つ並んだ寝台と、小さな机、そしてバルコニーへ続く硝子戸があった。
「わぁ……」
荷物を床へ置くと、レンリはそのままバルコニーへ足を向けた。
夕暮れの街並みが、一望できる。
石造りの家々の屋根から、白い湯気がゆるやかに立ち昇っていた。
通りには明かりが灯り始め、人々の話し声が遠く小さく聞こえてくる。
備え付けの長椅子へ、レンリは崩れるように腰を下ろした。
「はぁ……」
柔らかな椅子の感触に、身体中の力が抜けていく。
二日間、まともに休んだ記憶がない。
逃げて、隠れて、また逃げて。
気を張り続けた身体は、安全だと分かった途端に、途方もない疲労を訴え始めていた。
「……ちょっとだけ」
不意に眠気を感じて、しばし瞼を閉じる。
ほんの少しだけ。そのつもりで。
隣にいるリセナは、何も言わずに座っていた。
「……ここ」
鈴の音のように小さく澄んだ声。
レンリは目を開き、リセナの横顔を見つめる。
紅い瞳が、夕暮れに染まる屋根の連なりをゆっくりと辿っていた。
「この街……とても、穏やか」
「ん……?」
レンリの返事は、眠気に引っ張られてぼんやりとしていた。
「まあ……そうだね……」
瞼が重く、声もどこか遠く聞こえる。
「ここまで来れば……魔族が頻繁に出る場所からは、かなり離れてるからね……」
「……そう」
リセナは小さく頷いた。
「……街って、こういうもの、なの」
その言葉に、レンリの意識がほんの少しだけ浮上する。
「どういう……意味?」
レンリはウトウトしながら、ぼんやりと問い返した。
「記憶がないと、そういう感覚ってのも曖昧になるものなのかな……?」
「私の……」
リセナは街を見つめたまま、言葉を探すように続けた。
「私が思い浮かべる……街というのは……もっと、人が多かった」
少し間を置く。
「暗くて……もう少し騒々しくて……こんな景色では、なかったような気がする」
「……へえ」
レンリの返事は、間延びしていた。
半分眠りかけた頭では、その言葉の違和感に気づく余裕がなかった。
「あんたが、元々どこにいたのか知らないけど……そんな街も、あるのかもね……」
「……そう」
リセナはそれ以上、何も続けなかった。
ただ、遠くの屋根を見つめる紅い瞳が、わずかに細められる。
その横顔はいつもと変わらない。
何を考えているのかまでは、レンリには分からなかった。
沈黙が落ちる。
レンリは目をこすりながら、バルコニーの外へと視線を移す。
少しずつ日が落ちていき、ぽつぽつと街に明かりが灯っていく。
レンリは眠気を振り払おうとするかのように、大きく伸びをした。
「でも、ここはいい街だろ? 平和だし、何よりも――」
「……何より……も?」
「ここには、いい温泉があるんだ」
レンリはにっと笑った。
「助けてもらったお礼をするって言ったでしょ。ガイドによると、ここの湯は最高らしいんだ」
「へえ……」
「このまま部屋にいても寝ちゃいそうだし、さっそく行ってみない? 横になるのは、それからでも遅くない」
リセナは少し考えるように間を置いてから、小さく頷いた。
「……ええ」
「そうと決まれば、行こっか」
レンリは立ち上がる。ちらりとリセナに視線を送る。
リセナは、夕闇に沈んでいく街を振り返っていた。
穏やかな灯りが、いくつも瞬いている。
先程語った街の情景とは何もかもが違う、この街の景色を。
リセナは、しばらくその景色を見つめた後、小さく息を吐いた。
その表情は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
まるで、この街を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けているような。
レンリには、そんな風に思えた。




