第15話 白の一閃
白い靄が漂う洞窟の中で、白銀の少女はなおも己の手に握られた剣を見つめていた。
先ほどまで洞窟を埋め尽くしていた極寒の奔流は消え去っている。それでも空気の奥には凍てつく冷気が残り、呼吸をするたび肺の奥がひりつくようだった。岩壁には霜が張り付き、天井からは砕けた氷片が時折ぱらりと落ちてくる。
そんな中で、少女だけが周囲から切り離されたように静かだった。
紅い瞳は剣へ向けられたまま動かない。
まるで手の中のそれが、自分が手にしているものではないかのような、戸惑いの表情。
「この……力……」
先程と同じ、小さな呟きが零れる。
白い靄の中へ溶けてしまいそうなほど弱い声で。
少女の指先が僅かに震える。
そして剣を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「なんだっけ……」
その声を聞きながら、レンリは奇妙な感覚を覚えていた。
「いや……なんだっけと言われてもねぇ……」
あれほど圧倒的な力を見せつけたというのに、本人が一番その力を理解していないように見える。
武器があれば、と言いつつ武器を持たず。
とても魔装の魔力を制御しているようには見えないのに、魔装の魔力に灼かれることなく。
その魔装――焔剣エギラルザスに本来備わってなどいないはずの、断絶の一撃をもって、冷気の魔力を凝縮した砲を両断する。
まるで、その全てが少女自身にとっても、『知らない』のことであるかのような――。
そう考えた瞬間だった。
背後で岩盤が砕ける音が響いた。
『ギィィィィィィィッ!!』
耳障りな咆哮が洞窟を震わせる。
蜘蛛の魔族だった。
脚を数本ほど斬り落とされ、切り札である魔力砲すら一太刀のもとに両断されてもなお、生きていた。
魔族は残された脚で岩盤を掻き砕きながら、狂ったように突進してくる。
そこに理性は感じられなかった。
恐怖も。
怒りも。
憎悪も。
全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、最後の悪あがきとして噴き出しているだけだった。
巨大な影が迫る。
標的は明らかに白銀の少女だった。
今まさに自分の力へ意識を向けている、その一瞬の隙を狙ったのだろう。
「あぁっ! 危ない!」
レンリは叫んでいた。
反射だった。
今の自分には何もできない。
魔力は空っぽで、障壁術式を張ることもできない。
それでも叫ばずにはいられなかった。
だが。
白銀の少女は振り返らない。
慌てもしない。
驚きもしない。
まるで最初からそこに魔族がいることを知っていたかのように、静かに剣を持ち上げた。
次の瞬間。
白い光が閃いた。
風が鳴る。
遅れて、何かが断たれる音が響く。
それだけだった。
蜘蛛の魔族の巨体は少女へ届くことなく止まっていた。
前へと突き出された脚も。
振り上げられた氷爪も。
その全てが途中で停止している。
やがて巨体がゆっくりとずれた。
真ん中を中心として。
左右に。
まるで最初から二つだったかのように。
『ば……かな……』
掠れた声が漏れる。
だが、それで終わりではなかった。
裂けた口から黒い靄が溢れ、その中で魔族は怨嗟を滲ませるように呟いた。
『こんな……バガな……貴様ァッ……』
その声は怒りというより呪いに近かった。
『魔力のない……白い……そうか……貴様……まさか……!』
何を言おうとしているのか、レンリには分からない。
だが、その驚きを帯びた響きだけは妙に耳に残った。
蜘蛛の魔族は、なおも何かを言おうとした。
しかし言葉は続かなかった。
巨体が崩れ始めたのだ。
裂けた断面から黒い粒子が零れる。
脚が崩れる。
胴体が崩れる。
八つの瞳が光を失う。
やがてその全ては塵となり、白い靄の中へ溶けるように消えていった。
後に残ったのは静寂だった。
本当に。
今度こそ。
レンリはしばらく動けなかった。
身体から力が抜けていく。
張り詰めていた糸が切れたようだった。
白い霧がゆっくりと流れている。
岩壁には霜が残り、天井からは溶けた氷が雫となって滴っていた。
ぽたり。
ぽたり。
その音だけが洞窟へ響いている。
ついさっきまで死を覚悟していたことが嘘のようだった。
追われる恐怖も。
逃げ場のない絶望も。
ようやく終わったのだ。
そう実感した瞬間、レンリは大きく息を吐いた。
そして視線を上げる。
白銀の少女は、魔族が消えた場所を見つめていた。
勝利を喜ぶ様子はない。
安堵しているようにも見えない。
ただどこか物憂げに。
遠い記憶の欠片でも探しているかのように。
「あ、あんた……大丈夫……?」
思わず声を掛ける。
すると少女はゆっくりと振り返った。
その動きにつられて手元へ目が向き、レンリは思わず目を見開く。
炎の剣が崩れ始めていた。
あれほど眩い光を放っていた刀身は既に色を失い、乾いた木片のようになっている。
ぼろり、と欠片が落ちた。
続いて二つ。
三つ。
やがて剣全体が砂のように崩れ、白い靄の中へ散っていく。
「えっ……」
レンリは思わず息を呑んだ。
「あんた、それ……」
焔剣エギラルザス。
使い手を選ぶどころか、扱いを誤れば術者そのものを焼き尽くす魔装。
それが今、魔力を完全に喪失し、まるで役目を終えた枯れ木のように崩れていく。
ありえないことだった。
だが、少女は剣には興味を示さなかった。
崩れ落ちる魔装の残骸を一瞥した後、静かにレンリへ視線を向ける。
「それよりも――」
「な、なに……?」
紅い瞳が不思議そうに瞬いた。
「あなた……誰?」
一瞬、レンリの思考が止まる。
命懸けで逃げ回って。
命懸けで封印を解いて。
命懸けで助けられた。
その結果として飛んできた第一声が、それだった。
数秒の沈黙の後。
レンリの叫び声が洞窟中へ響き渡る。
「いや、それこっちのセリフだから!!」




