第16話 少女の名は
レンリの叫び声だけが、しばらく洞窟の中へ反響していた。
何度も岩壁へ跳ね返った声は、薄れていく白い靄の中へと吸い込まれるように消えていって。
その静けさが戻ってきた頃になってようやく、レンリは肩の力を抜いた。
「……もう、なんなのよ」
思わず額へ手を当てる。
命懸けで逃げ続けた二日間だった。
『あなた誰?』
魔族に追われ、封印を解き、訳も分からない少女に命を救われて――ようやく落ち着いたと思って、その少女から投げ掛けられた言葉が、これである。
頭の中が追いつくはずもなかった。
対する少女は、そんなレンリの様子を不思議そうに眺めている。
本当に悪気など欠片もないらしい。
その無垢な眼差しを見ていると、怒る気力すら失せてしまう。
「まあ……確かに名乗る暇も無かったからね」
レンリは、深く息を吐いてから。
「……んじゃ、あたしから名乗ろっか」
向き直り、白銀の少女の顔を見つめて。
「あたしの名前は、レンリアラ・サクラライト。長いから、レンリって呼んでくれていいよ」
少女はじっとこちらを見つめていた。
紅い瞳がゆっくりと瞬く。
その言葉を、一つずつ確かめるように。
「……レンリ」
小さく繰り返されたその響きは、どこかぎこちなく、それでいて妙に柔らかかった。
「レンリ……それが、あなたの……?」
レンリは小さく頷く。
「うん。で、今度はあんたの番。名前は?」
少女は少しだけ首を傾げた。
「名前……?」
その問い掛け方が妙だった。
知らない単語を聞き返した、というより。
自分に向けられた問いの意味そのものが理解できない、とでも言いたげな声だった。
「私の……?」
少女の呟きに、レンリは一瞬眉を顰め、そして思わず苦笑した。
その反応だけで、何となく察することができた。
「その感じ……あんた、もしかして記憶がない?」
少女は少し考え込むように目を伏せる。
沈黙は短かった。
「そうかも……しれない」
「そうかも、って……」
レンリは思わず呆れてしまう。
いや、もはや笑うしかなかった。
「いや、自分のことが分からないなら、それって、たぶん記憶喪失なんだと思うけど……?」
レンリの言葉に、少女は否定もしない。
肯定もしない。
ただ静かに、自分の手のひらを見つめていた。
その横顔には不安というより、空白があった。
自分が何を失ったのかさえ分からない。
そんな真っ白な空白だけが、その表情には残っているように見えた。
その姿を見ていると、呆れていた気持ちも少しずつ薄れていく。
記憶がない。
それは一言で済ませられるほど、軽い話ではないのだろう。
レンリは小さく息を吐いた。
自分も追われる身だ。
他人を気遣う余裕なんて、本当はどこにもない。
それでも、そのまま放っておけるほど割り切れる性格でもなかった。
「いや、でも困ったね……」
腕を組みながら呟く。
「とはいえ、名前がないと何かと不便だし……」
その瞬間、不意に記憶の底で何かが引っ掛かった。
封印。
棺。
複雑に織り込まれた膨大な術式。
不意に、レンリは思い出す。
あの隙間に、確か――何か文字が刻まれていたことを。
「なんだっけ……」
思い出そうとして額へ指を当てる。
「なんて、書かれていたんだっけ……」
ぼんやりとしていた記憶が少しずつ輪郭を帯びる。
魔力の流れに埋もれかけていた文字列。
あの時は読む余裕などなかった。
それでも、一度見たものは意外と残っている。
「……そう、そうだ」
レンリは顔を上げた。
「――リセナ・レレゼロイ」
その名前を口にした瞬間、少女の睫毛が僅かに震えた気がした。
「あんたが眠ってた、あの封印に刻まれてた言葉。もしかしたら、それがあんたの名前なんじゃない――?」
少女は静かにその響きを繰り返す。
「……リセナ」
少女はその名をゆっくりと口の中で転がした。
記憶が無いのだから知らない言葉のはずなのに、不思議とまったく馴染みがないわけでもない。どこか遠くで、耳にしたことがあるような。
少女の反応は、そんな感じだった。
曖昧な引っ掛かりを確かめるかのように、少女はもう一度だけ呟く。
「リセナ・レレゼロイ……」
少しだけ考え込み、それから小さく頷く。
「そう……かも」
「そっか!」
レンリの表情がぱっと明るくなる。
「んじゃ、とにかく助かったよ。本当にありがとね、リセナ」
「……えっ」
少女――リセナは目を丸くした。
「え? とは?」
数秒。
洞窟の中へ静寂が流れた。
少女は小首を傾げる。
白銀の髪が揺れ、紅い瞳が細められて。
「リセナ……って、誰?」
「は……?」
レンリは口を開けたまま固まる。
今、自分は何を説明した。
何のために思い出した。
何のために名前を付けた。
その全部が、一瞬で吹き飛んだ。
そして。
洞窟中へ、今日一番大きな叫び声が響き渡る。
「いや、そこ聞いてなかったの――っ!?」
その声だけが、白い靄の中へいつまでも反響していた。
第一章 完




