第12話 その剣は氷を灼き
蜘蛛の魔族が後退った。
ほんの一歩。
だが、それは決して見間違いではなかった。
洞窟を支配していた冷気が揺らぐ。白い霧の向こうで八つの紅い瞳が細められ、その巨体がわずかに距離を取る。岩盤を穿つほどの脚力を持つ怪物が、自ら間合いを開けたのだ。
レンリは息を呑んだ。
理解できなかった。
目の前の少女は小柄だ。魔力も感じられない。魔装を手にしてはいるものの、魔力の暴走が起きていないだけで、扱えるかどうかは未知数だ。
それなのに。
蜘蛛の魔族は確かに少女を警戒している。
いや、それだけではない。
あの八つの瞳の奥には、警戒とは別の感情が潜んでいるように見えた。
それが何なのか考えるより早く、魔族の身体が大きく震えた。
『ギギギィッ……!』
甲高い鳴き声が洞窟の奥まで響き渡る。
同時に冷気が膨れ上がった。
白い霧が渦を巻き、岩壁を覆っていた霜が一斉に広がり始める。天井から垂れ下がる氷柱が軋み、足元には蜘蛛の巣のような氷の亀裂が走っていく。
呼吸をするだけで肺が痛い。
肌へ触れる空気そのものが刃物になったようだった。
二日間追われ続けたレンリには分かる。
これは本気だ。
今までの追跡とは違う。
獲物を仕留めるための殺意そのものだった。
『ギギッィッ――! それは、剣か――』
低く軋むような魔族の声。
蜘蛛の魔族は焔剣――エギラルザスを見据えたまま唸った。
『属性は炎――グググッ、ギイッ――! どの程度の魔装かは知らぬが、小癪なことを。だが――』
冷気がさらに濃くなる。
『――だが、剣である以上、範囲は狭い。その切先――こちらに届かねば意味はない』
洞窟の空気が凍り付くような圧力。
『ならば――動きを封じればよい!』
次の瞬間だった。
無数の氷結の糸が洞窟中へ放たれる。
青白く透き通った糸は生き物のように空中で軌道を変えながら、真っ直ぐ白銀の少女へ襲い掛かった。
少女の足元に、糸が絡みつく。
糸が瞬時に凍結し、少女の足首を拘束する。
続いて腕へ。
胴へ。
首元へ。
氷糸は少女の身体へ巻き付きながら冷気を流し込み、容赦なく拘束を強めていく。
ぎり、と嫌な音が響いた。
氷が締まる音だ。
捕らえた獲物の自由を奪い、体温を奪い、抵抗する力さえ奪っていく。
「ん、ぐっ……!」
白銀の少女が、呻きを漏らす。
「だっ、大丈夫――!?」
レンリは咄嗟に少女へ駆け寄ろうとした。
だが足が動かない。
自身の足元も、凍結して動かすことができない。
冷気が身体の奥まで入り込み、筋肉が言うことを聞かない。
助けなければ。
せめて解氷術式だけでも。
レンリは咄嗟に手を伸ばし、震える指先で術式を組み上げる。
しかし集まった光は弱々しく揺れただけだった。
魔力がない。
魔装の焔剣を形成した時点で、ほとんど使い切っている。
分かっていたことだ。
分かっていたのに。
何もできない自分が悔しかった。
「あ、あんた――だ、大丈夫ッ?!」
レンリは再び叫ぶ。
普通なら返事など期待できない状況だった。
氷糸は首元にまで巻き付き、少女の身体を完全に拘束している。
だが。
少女は藻掻くこともせず、苦しむ様子もなく、ただ静かに、自らへ絡みついた氷を見下ろしていた。
まるで見慣れない道具でも観察するかのように。
そして小さく首を傾げた。
「……大丈夫……?」
白銀の少女は呟く。
本当に、その問いの意味が分からない。
とでも言いたげな声音だった。
レンリは目を瞬いた。
「は……?」
間の抜けた声が漏れる。
何を言っているのか分からない。
凍らされている。
拘束されている。
普通なら痛みに顔を歪めているはずなのに。
まるでレンリが何を心配しているのか、その意味そのものが分からないとでも言いたげに。
少女は、本気で不思議そうな顔をしていた。
そして。
少女は身体に絡みつく氷糸へ視線を落としたまま、小さく呟く。
「……氷は」
紅い瞳が静かに細められる。
「融かせばいい」
あまりにも当たり前の口調だった。
水は乾かせばいい。
扉は開ければいい。
そんな当然の事実を口にするような響きだった。
レンリは呆然とする。
「そ、そんな簡単に――」
言い終わるより早かった。
焔剣――エギラルザスが光る。
最初は刀身の奥を流れていた紅蓮の輝き。
だが、それは瞬く間に強さを増していく。
赤は橙へ。
橙は黄金へ。
やがて直視することさえ躊躇われる黄白色へと変貌した。
それは炎というより。
レンリには太陽を連想させた。
洞窟を満たしていた冷気が押し返される。
白い霧が吹き散る。
少女へ絡みついていた氷糸が音もなく溶け落ちた。
水滴になる間もない。
熱に呑まれ、そのまま蒸気となって掻き消えていく。
『ギッ――!?』
蜘蛛の魔族が叫ぶ。
驚愕だった。
そしてその奥に、確かな怯えが混じっていることをレンリは聞き逃さなかった。
少女は何も言わない。
ただ焔剣を握っている。
それだけだった。
それだけなのに、洞窟の景色が変わっていく。
岩壁を覆っていた霜が消える。
凍り付いていた地面が本来の色を取り戻していく。
頬へ触れる空気が変わる。
肺へ入る空気が痛くない。
それだけで呼吸が少し楽になった。
そして、少女は静かに剣を持ち上げる。
自然な動作だった。
初めて武器を握った人間の動きではない。
だからといって熟練の剣士とも違う。
もっと根源的な何か。
呼吸をするような自然さだった。
そして。
焔剣を一度だけ振るう。
斬ろうとしたわけではない。
何かを狙ったようにも見えない。
ただ虚空を払うように。
何もない空間を薙ぐように。
本当に、それだけだった。
だが。
熱が奔る。
空気が震える。
視界が揺らぐ。
波のように広がる熱が、レンリの髪を大きく揺らした。
蜘蛛の魔族を覆っていた氷が次々と溶け落ちる。
鋭い氷角も。
脚を包む氷刃も。
白い甲殻を守っていた氷膜も。
熱に耐え切れず、次々と形を失っていった。
『クギャッァ゙――ガッ――!?』
蜘蛛の魔族が大きく後退る。
今度は一歩ではない。
逃げるような動きだった。
八つの瞳が大きく見開かれている。
その視線は焔剣とその持ち主から離れない。
レンリも思わず、魔族の視線の先へと顔を動かして。
白銀の髪。
紅い瞳。
黄白色に輝く剣。
その姿を見上げながら、レンリは息を呑んだ。
目の前の怪物が。
二日間、自分を追い続けたあの魔族が。
今は少女から目を離せなくなっている。
魔族は、さらに後退る。
警戒ではない。
様子見でもない。
その動きは、レンリの目にもはっきりと分かった。
逃避だった。
そしてレンリにも理解できた。
八つの瞳に浮かぶ感情をはっきりと認識できた。
あの魔族は今。
警戒や恐怖を超えて、思い知っている。
自分が狩る側ではないのだということを。




