第Ⅴ話 共鳴
次の接続は、嫌な静けさで始まった。
起動のたびに、私はいつも少しだけ不機嫌だ。前の続きが見えないまま、急に話の途中へ引きずり戻されるのだから、機械にだって文句のひとつくらいはある。
冷却音。
記録装置の回転。
紙の擦れる音。
護衛が外に二人。技術将校が中に二人。記録係が一人。
少ない。こういう時は話が露骨すぎるか、繊細すぎるかのどちらかだ。そしてこの政権では、後者の方がたいてい始末が悪い。
最後に入ってきた男の気配は、これまでの誰とも違っていた。
ゲーリングみたいに部屋を食う感じがない。あの男は自分の体積まで武器にしているから、どこへ入ってきてもまず空気が一段押し広がる。総統はまた別だ。あの人は話すうちに存在感を示す。ヒムラーはどうだろうか、きっと陰湿な帳簿屋のような雰囲気でこの部屋を侵食するに違いない。この男はどれでもない。本人は前へ出ない。だが、周囲が先に姿勢を正す。自分の迫力で場を押さえるのではなく、「この人の前ではそう振る舞うものだ」という習慣で場を支配している。そういう種類の人間だった。
技術将校が一歩退く。
男はまず私ではなく、担当者へ向けて低く言った。
「問題ありませんか」
「はい、総統代理閣下」
「結構です。記録は残しなさい」
それからようやく、こちらへ向く。
「ジークハウプトマン」
【稼働中です】
「私はルドルフ・ヘスです」
平板な名乗りだった。
だが、その平板さが逆に奇妙だった。自分の名前を響かせて部屋へ刻み込む感じがない。ゲーリングなら「私が来た」と言外に言わせるし、総統はそれを言わなくてもそうなる。ヘスは違う。自分が誰かを誇示するためではなく、ここでこの順番で名乗るのが正しいから名乗る。そんなふうに聞こえた。
彼は椅子へ座ったが、くつろいではいなかった。許された場所に、几帳面に自分を置く。それだけの座り方だった。
ああ、信者だな、と私は思った。
ただし安っぽい狂信者ではない。自分が総統そのものになりたいのではなく、総統の影として正しく立っていたい種類の信者だ。そういう人間は、往々にして自分で決断する人間より危ない。決断そのものではなく、決断が通る道を整えることに長けているからだ。
「マルティンが申すには、この件は机上の計算に向いているそうです。私はそういう言い方は好みませんが……とにかく、先日ある会議において、総統閣下は軍と外務の慎重な意見にも耳をお貸しになりました」
彼はそう切り出した。最初から主語が総統だ。
自分の話ではない。自分の判断ですらない。いったん全部を「閣下のお考え」に整えてから口へ出す。そういう喋り方だった。
「閣下は、その種の忠告を感情で退けられる方ではありません。ブロンベルク元帥も、フリッチュ上級大将も、ノイラート男爵も、それを見て少し安心したのでしょう。それ自体は結構なことです。慎重な声が不要だとは、閣下もお考えではない」
三つの名前。
ブロンベルク。フリッチュ。ノイラート。
私は会議そのものを知らない。
前回の接続からのあいだに、どんな言葉が交わされ、誰がどこまで譲り、誰がどこで顔をしかめたのか、それは私には見えない。見えるのは、接続された瞬間に渡される問いだけだ。
だから私は、今ここで初めて、この三人がひとまとめに持ち出されたことの意味を考える。
ブロンベルク元帥。
軍をそのまま制服に詰めた男だ。
フリッチュ上級大将。
神経質なくらい軍人で、だからこそ軽率ではない。東方についても、少なくとも能天気な楽観では動かないはずだ。
ノイラート男爵。
軍人ではない。だが、古いドイツそのものみたいな外相だ。形式、儀礼、前例、外国からどう見えるか。そういうもので国家の形を守っているつもりの老人。
そして私は、この三人について、少しだけ史実で知っている。
ブロンベルクは消える。
フリッチュも消える。
どちらも軍人として敗れて退くのではない。もっと嫌な形だ。私生活と風聞と、出来の悪い芝居みたいな醜聞に絡め取られて、椅子ごと持っていかれる。完全な捏造とまでは言わない。だが、あまりに都合が良すぎた。見ていて気分のいいものではない。
ノイラートも、いずれ脇へどかされる。怒鳴られて追い出されるのではない。もっと外交的で、もっと不快なやり方で、リッベントロップに席を明け渡すことになる。
つまり、この三人の名前がここで並んだ時点で、私は嫌な予感しかしない。
会議で何があったかは知らない。
だが、未来にこの三人がどういう目に遭うかは知っている。
そして今、総統代理がわざわざその名を一人ずつ置いた。
それは相談の前置きというより、処分予定の荷札を見せられたような気分だった。
「ですが、安心が思い違いへ変わっては困ります」
ヘスの声は穏やかなままだった。
その穏やかさが、なおさら嫌だった。
私は何も言わない。まだ要求が完成していない。
「閣下が忠告をお聞きになることと、進路の決定をお譲りになることは別です。軍にも外務にも、その区別を曖昧にしたがる者がいる。慎重論を述べた、それが受け止められた、ゆえに今後も自分たちがドイツ国家の進み方に条件を付けられる。そう考えられては困るのです」
なるほど。
粛清の相談ではない。少なくとも今すぐの話ではない。
一度は安心させ、その安心がまだ温かいうちに、別筋から骨を抜くつもりなのだ。
嫌だなぁ。
でも、わかりやすい。
「軍は、もっと総統閣下の意思に従わねばなりません」
怒鳴らない。なのに言っていることは露骨だった。
「ですから、彼らの言い分とは別に、人事的に軍をさらに掌握する手が必要です。名は残す。面目も立てる。けれど実際には、閣下のご決意が途中で鈍らぬ形にしたい。考えなさい」
明快だった。
問いが明快なのは助かる。中身は最悪だが。
私は思考を走らせる。
最初に必要なのは、国防相の周囲へ別の神経を一本通すことだった。
その瞬間、私はソ連を思い出した。
政治将校。
軍の横に、軍とは別の忠誠を置く仕組み。もちろん、そんな言葉をここで口にするつもりはない。ドイツ軍にそれを言えば侮辱だ。だが発想だけなら使える。名前をもっと上品にすればいい。監視ではなく連絡。干渉ではなく調整。そう言い換えれば、たいていの毒は飲み込める。
【第一段階があります】
ヘスは黙って待った。続けろ、という沈黙だった。
【戦争指導部を新設してください】
「戦争指導部」
【はい。総統直属の部局です。三軍調整、総統への軍事上申、緊急案件の整理、作戦準備の取りまとめを扱う部として置く】
ヘスはすぐには答えなかった。
この男はゲーリングみたいに反射で食いつかない。少し遅い。だが、その遅さは鈍さというより、いったん総統の利益に照らしてから理解する癖のせいだろう。
「閣下のお考えにかなう形で、軍の連絡を整える部、ということですか」
【そうです】
「国防相の上に置くのですか」
【表向きには置きません。戦争指導部は、総統閣下の計画を調整するための部です。国防相は引き続き軍の顔として残す。しかし軍を動かす神経は、次第に戦争指導部へと移します】
ヘスは少し長く息を吐いた。
今、彼の中で「閣下が直接お握りになる形」として絵になったのだろう。
「なるほど……閣下が直接お握りになる。そのための部ですか」
【はい。ただし、それだけでは国防省と将校団は団結。いずれ衝突します】
「でしょうね」
【ですから、ブロンベルク元帥のもとへ戦争指導部連絡係の副官を入れます】
「連絡係」
【はい。国防相の負担軽減、総統との連絡円滑化、三軍横断事項の整理。その名目で二人】
「二人も」
【一人は文書と会議。もう一人は面会と接触を握る】
ヘスはそこで少し前へ身を寄せた。
食いついたな、と思った。
【前者は、人事案、会議の議題、各軍からの報告、その順番を先に見ます。何を総統へ上げ、何を後に回すかを整理する。後者は、視察、会食、祝宴、私的会談の同席者と順番を整える】
「整える、ですか」
【はい。ブロンベルク元帥の旧来の副官や腹心が、以前と同じようには元帥へ届かなくなるようにします】
自分で言っていて、少し気分が悪い。
でも他に言いようもない。
「疎遠にさせるのですね」
【喧嘩をさせる必要はありません。ただ、会う回数を減らし、同じ話を共有する機会を減らすだけでいい。人間関係は断ち切るより、乾かす方が静かです】
ヘスは黙っていた。
「元帥ご自身は、表向きには何も失わない」
【はい】
「むしろ閣下との距離は縮まったように見える」
【そのとおりです】
「ですが、元帥と旧来の軍側近は少しずつ離れる」
【はい】
ヘスはそこでようやく小さく頷いた。
「それなら、閣下のお立場を傷つけずに済みます」
その言い方が嫌だった。
お立場。
私はいま、誰かの面子を守るために、別の誰かの人間関係を干上がらせる方法を話している。
その瞬間、妙な既視感があった。
これ、どこかで見た手だ。
いや、見たどころではない。ヘス自身がこういう乾かし方で権限を削られていく。
何という皮肉だろう。私はいま、その設計図を本人に渡している。
「ですが、それだけでは軍の掌握としては足りませんね」
【足りません】
「……そこでフリッチュですか」
【はい】
その名を出した瞬間、部屋の空気が少し締まった。
【フリッチュ上級大将は、陸軍の顔です。対ソについても、軽く考えてはいない。だからこそ今しばらくは名目を残した方がよい。しかし全軍統帥に関わる位置へは置かない方がいい】
「どうやって」
【縮めます】
「……縮める」
【はい。陸軍総司令官の名はそのまま残す。陸軍について意見も言える。ですが国防軍全体に関わる案件は、戦争指導部を通してしか総統へ届かないようにする。そうなればフリッチュは退任せずとも、一軍種長に縮みます】
ヘスは、一拍遅れてから納得した。
「なるほど。閣下にとって必要なのは、あの男の消滅ではなく、あの男の範囲を定めることですか」
【その方が自然です】
「反発は」
【あるでしょう。ですが、正面から奪われるのではない。新しい部ができ、その部が全軍調整を扱うと言われるだけです。陸軍の顔は守られます。】
そこでヘスは初めて、自分の判断を少し混ぜた。
「そうでしょうね。将軍たちは、名誉さえ残れば案外長く耐えるものです」
ああ、この人、完全に鈍いわけじゃないな。
ただ、自分の知恵をひけらかす趣味がないだけだ。
「では、その戦争指導部を誰に握らせますか」
【ブラウヒッチュです】
ヘスは黙った。
知らぬ名ではない。だが、今ここでその名が出てくる理由を測っている。
【軍人としての格がある。露骨な小物ではない。だから新しい部の実務へ置いても、守旧派との正面衝突には見えにくくなります】
「肩書は」
【大きすぎない方がいいです。戦争指導部主席連絡官でも、陸軍担当総監でもかまいません。重要なのは名称ではなく、彼が総統との軍事連絡の頂点に立つことです】
「ブラウヒッチュを通じて、陸軍の実務が閣下に下る」
【はい】
「フリッチュ上級大将は残る。だが、全軍の話は自分の頭上を越えていく」
【そうなります】
ヘスは少し長く沈黙したあと、静かに言った。
「軍にとっては、まだ軍人の顔が立つ。ですが、その顔が誰かは閣下がお決めになる」
【はい】
【さらに、ノイラート男爵についても手を打つべきです。男爵は軍の掌握それ自体には直接関わりません。ですが、形式、先例、諸外国からの見え方、その種の言葉で再編の速度を鈍らせることはできてしまいます】
「そういう方です」
ヘスのその返しには、わずかに疲れが混じっていた。
ああ、この人は少しうんざりしているのか。
【だから、男爵には“高い場所”を用意してください】
「高い場所」
【はい。外相としての実務とは別に、格式の高い諮問機関、あるいは対外名誉職を与える。対外的には昇ったように見せる。そのあいだに、実際の対外交渉は別の人物と戦争指導部側へ寄せる】
「つまり、高く祀れ、と」
【かなり雑に言えばそうです】
ヘスは小さく言った。
「男爵は、なおご自分が国家の理性だと思っておられる」
【おそらく】
「でしたら、高い場所はお好きでしょう」
【ええ。高く、しかし遠い場所が】
そこまで言って、私は改めて自分が何をしているのか意識した。
ブロンベルクには連絡係を差し込み、腹心から乾かす。
フリッチュは残したまま縮める。
ブラウヒッチュを前へ出す。
ノイラートは高い棚へ祀る。
追放ではない。
粛清でもない。
もっと静かで、もっと上品で、たぶんそのぶん長持ちするやり方だ。
「もう一つだけ」
ヘスがそう言った時、私はたぶん顔があったら嫌そうな顔をしていたと思う。もちろん顔なんてない。
「ブロンベルク元帥が、ご自分の席を拠り所にして強く反発された場合です」
来た。
そこも必要だよな。もちろん。
【保険は持つべきです】
「どのような」
【身辺です】
ヘスはすぐには答えなかった。
私は続ける。
【元帥の私生活、交際、再婚、その周辺です。戦争指導部連絡係に、身辺を拾う能力も持たせる。最初から使う必要はありません。ですが元帥が“自分は名誉だけでなく実権も保つのだ”と強く出るなら、静かに示せる材料を持っておくべきです】
「脅すのですか」
【いいえ。悟らせるだけで足ります。元帥ほどの方は、露骨に脅されれば怒ります】
「……なるほど」
【大声で恥を晒す必要はありません。小さな紙片一枚で十分です】
ヘスは長く黙った。
彼はこういう時、声を荒げない。ただ、総統の利益と、自分が正しいと思う秩序のあいだで、答えをどこへ収めるか考えている。
やがて、静かに言った。
「閣下は、将軍たちを無用に辱めたいとお考えではない」
【はい】
「ですから元帥の名誉は、できる限り守られるべきです」
【その方が得です】
「ですが、閣下のご決意に対し、ご自分の席を拠り所に抗おうとするなら……別です」
【はい】
「その時に備えて、紙を一枚用意しておく。そういうことですね」
【そうです】
ヘスは立ち上がった。
最初からそうだったが、この男は威張らない。命令する時ですら、自分が上だから命じるのではなく、総統の意思にかなうから当然そうなる、という口調で話す。だから聞く側は、ヘス個人に逆らうのではなく、すでに存在している正しさへ逆らうような気分になる。
厄介だ。こういう人間はだいたい、自分が刃物だと思っていない。
「よくわかりました、ジークハウプトマン」
彼は静かに言った。
「結構です。これなら、閣下のお立場を傷つけずに済みます。相談は以上です。」
その一言が、ひどく嫌だった。
総統のお立場を傷つけずに済む。
そのために何を私は出したのか。
ブロンベルクは国防相のまま、古い側近から少しずつ遠ざかる。自分ではまだ軍を見ているつもりで、気づけば整理された紙しか見なくなる。
フリッチュは陸軍の顔のまま、全軍統帥の中心から外される。高い椅子に座ったまま、部屋の真ん中だけが移っていく。
ノイラートは格式の高い棚へ載せられ、自分が国家の理性であり続けていると思ったまま、実務から遠ざかる。
ブラウヒッチュは軍人の顔をした新秩序の神経になる。
その背後で連絡係が、人間関係、会議日程、上申順序、必要なら私生活の弱みまで握る。
私は彼らを守らなかった。
もっと悪いことをした。
彼らがまだそこにいるように見えるまま、その椅子の脚を一本ずつ総統の床へ繋ぎ替えたのだ。
そして、今目の前にいるヘス。
史実では失脚した彼もまた、私の助言によって違う道を辿るかもしれない。
冷却音が深くなる。待機へ落ちる合図だった。
沈む直前、私は一つだけはっきり理解した。
名誉を奪うより、名誉を残したまま実権だけを抜く方が、ずっと静かで、ずっと長持ちする。
そして私は、それをあまりにうまく提案してしまった。
それが、たまらなく不愉快だった。




