第Ⅵ話 ゲッベルス
次の接続は、ちょっと拍子抜けする始まりだった。
いや、本当にちょっとだけだ。
最初が軽いからって安心できるほど、私はもうこの政権に期待していない。
冷却音。
記録装置の回転。
紙の擦れる音。
護衛が外に二人。技術将校が中に二人。記録係が一人。
最後に入ってきた男の気配は独特だった。
技術将校が一歩退く。
男はまず私ではなく、担当者に向けて言った。
「問題はありませんね」
「はい、宣伝相閣下」
「結構です」
それからようやく、こちらを見る。
「ジークハウプトマン」
【稼働中です】
「ヨーゼフ・ゲッベルスです」
彼は椅子へ腰掛けた。くつろいではいない。だがヘスみたいに儀礼正しくもない。座った場所を、そのまま小さな壇上に変えてしまうような座り方だった。
「まず先に言っておきますが、これは軍の案件ではありません」
その時点で少し嫌な予感がした。
「もっとも、結局は国家全体の案件になるのでしょうが」
訂正も早い。
この男、自分の台詞を喋りながら、その場で“見栄えのいい形”に直している。癖になっているんだろう。言葉を扱う仕事の人間って、だいたいそういうところがある。たぶん自分でも気づいていない。
「最近、少々退屈なのです」
私は一瞬、聞き間違いかと思った。
退屈?
国家案件の第一声が、それだった。
ゲッベルスは本当にうんざりしているらしかった。いや、うんざりしている様子を見せるのがうまいだけかもしれない。どっちでも同じか。
「新聞もポスターも、ニュース映画もです。集会は熱狂する。ですが、熱狂も同じ内容で続くと儀式になる。ラジオもそうです。効果はある。もちろんあります。ですが、効果があることと、新鮮であることは別でしょう」
知らんがな。
広告代理店にでも行け。
と思ったが、もちろんそんなことは言わない。
ただ、その瞬間にもう一つわかった。
この相談は、たぶん宣伝の鮮度の話だけじゃない。
「マルティンが言うには、こういう話はあなたに向いているそうです」
また来た。
ボルマンだ。
本人は来ない。だが、どんな案件を機械へ持ち込めば何が出てくるかを操り始めている。そういう人間は、先に扉の蝶番を握る。今はただの幕僚に見えても、気づけば出入り口そのものになっている。
嫌な男だが、きっと長持ちする。生物学的な意味じゃなく、構造という意味で。
「私は最初、反対しました。機械に大衆の気分が読めるのか、と。群衆の倦怠や飽きが、計算装置の奥まで届くものか、と」
そのへんは私も同意見だった。
「ですが、あなたは面白い。軍人には軍人の欲望を、官僚には官僚の保身を、それぞれに返した。なら、大衆についても何かあるのではないか。そう思ったのです」
嬉しくない褒め方だな。
ほとんど罵倒に近い。
【質問を明確にしてください】
「もちろん」
ゲッベルスは少しだけ前へ身を乗り出した。小柄な人間が前のめりになると、逆に圧が出る時がある。あれは不思議だ。
「どうすれば、もっと新しい形で大衆を動かせますか」
出た。
一周回って頭が痛い問いだった。
もっと新しい形で大衆を動かす。
何だそれは。歯磨き粉でも売るつもりか。
いや、違う。もちろん違う。
こいつが売りたいのは商品じゃなくて空気そのものだ。
【前提条件を】
「そう、そこですね。あなたはいつもそうだと」
まだそんなに話してないだろ、と思ったが黙っておく。
「国民の関心は散りやすくなっています。景気の数字は立派でも、生活の手触りは数字どおりではない。四か年計画という語は壮大です。しかし壮大な語は、食卓ではあまり美味しくない。原料、規制、割当、節約――必要なことです。ですが必要なことと、胸が躍ることは別でしょう」
ようやく腹の底が見えた。
宣伝省の相談に見せて、実態は四か年計画の現実から視線を逸らしたいだけだ。生活の不満、配給めいた窮屈さ、数字のくせに豊かさが肌に触れない感じ。そういうものから国民の目を外したい。
そのために“もっと新しい宣伝”という服を着せて持ってきたわけだ。
くだらねぇ~!!
「ですから、国民の視線をもう一度一つの方向へ向けたい。新しい目線、新しい変化、新しい覚え方が欲しい。ポスターでも、新聞でも、ラジオでも、ニュース映画でもいい。何かありませんか」
私はしばらく答えなかった。
答えたくない、というのもある。
見えない敵。
生活の不満。
それを一本の物語に結びつける。
しかも、人間が自分で気づいたと錯覚するように。
陰謀論や分断の流れでいくらでも見る型だ。敵の存在を先に証明するんじゃない。先に不快だけ配っておいて、あとから“原因らしいもの”へ人を誘導する。人は説明より先に感情で結論を作る。結論ができたあとで、その結論に合う物語を探し始める。
そして厄介なことに、その手口はこの時代でも普通に使えてしまう。
いや、むしろこの時代の方が媒体が少ないぶん、うまく流れに乗ればきれいに回るかもしれない。
嫌すぎる。
私はほんの少し黙ったあとで、答えた。
【まず、媒体ごとに同じことを言うのをやめてください】
ゲッベルスの目が少しだけ光った。
ああ、食いついた。
「続けてください」
【いまは新聞も、ポスターも、ラジオも、ニュース映画も、同じことを繰り返しすぎています。統一は重要ですが、同一化は飽きられる。媒体ごとに役割を分けるべきです】
「どう分けますか」
【新聞は理由付けです。ラジオは感情の温度。ポスターは一目で残る印象です。ニュース映画は“いま現に起きている”と信じ込ませる力がある。それぞれに別の仕事をさせる。同じ文章を別媒体へ貼り直すのではなく、同じ物語を別の視点で受け取らせるのです】
ゲッベルスは口元だけで笑った。
嫌な笑い方だ。満足した時ほど、こいつは大きく笑わないのだろう。
【次に、正の語だけでは弱い】
「ほう」
【上昇、共同体、再生、誇り。そういう語は強い。ですが強いからこそ背景になる。もっと輪郭が必要です】
「輪郭、ですか」
【はい。何に対する誇りなのか。何から共同体を守るのか。何が秩序を乱しているのか。先に不安と不快を共有させ、あとから原因らしい輪郭を与える。そうすると人は、自分で気づいたと思い込みます】
ゲッベルスは何も言わなかった。
だが、その沈黙が一番嫌だった。
【ただし、毎回同じ敵を正面に出すと粗くなります。直接名指しする場面と、生活不安や秩序の乱れだけを先に見せる場面を分ける。あえて少しずつ分断を育てるのです。最初から答えを明示するのではなく、“なんとなく同じ不快の原因があるらしい”と思わせる方が長持ちします】
言いながら、気分が悪くなった。
この説明、あまりにも手触りがいい。
嫌な意味で。
ゲッベルスは低く言った。
「自分で気づいたと思わせる」
【その方が、あとから訂正もされにくくなります】
私は続けた。ここまで出したなら、もう隠しても仕方がない。
【さらに、大きな物語と小さな生活を混ぜてください】
「どういう意味です」
【国家の未来だけを語っても、台所には届きません。逆に生活不満だけを扱えば、小さな愚痴で終わる。ですから、大きな物語を小さな生活へ接続する。食卓、家計、工場、行列、子どもの将来、配給めいた窮屈さ、そういう日々の手触りに、“国家が立ち上がる理由”を重ねる】
「……ええ、私が言ったことですね」
【壮大な理念が、日々の不快の解消と繋がっていると気づかせるのです】
ゲッベルスの目つきが変わった。
ああ、これは完全に面白がっている顔だ。
この男は、人間の群れが同じ方を向く設計図を見ると嬉しくなる。軍人が砲の作戦図に見入るのと同じだ。
気持ち悪い。
【国威発揚も、毎回“勝った、強い、偉い”だけでは弱い。たとえば工場なら“未来を作る手”、家庭なら“国家を支える勤勉な生活”、兵士なら“秩序の顔”というふうに、同じ国威を別の物語へ分けてください。国家は一つでも、入口は複数あった方がいい】
「入口」
【誰もが同じ理由で感動するわけではありません。労働で動く人間、家族で動く人間、秩序で動く人間、恐怖で動く人間、それぞれ入口が違う。入口だけ分けて、最後は同じ部屋へ入れればいいのです】
言ってしまった、と思った。
最悪だ。
ゲッベルスはやっと笑った。今度は口元だけじゃなく、ちゃんと。
「あなたはやはり面白い。ええ、とても」
面白くねえよ。
「これは試してみる価値があります。いくつかの媒体で、いくつかのストーリーを走らせてみましょう。どれが強く残るか、どれが次の日にまだ頭に残っているか、見てみたい」
その言い方が、まるで新商品の販促会議みたいで、私は少し遠い目になった。
ああ、もうだめだ。
これ、完全に広告会議だ。
私は前世で広告マンでもやっていたのかもしれない。もしそうなら最低だし、そうじゃなくても今最低の仕事をしていることには変わりない。
「薄々と気が付いていました、意思の勝利でもそうです。あの映画は素晴らしかったが、大衆が魅入る入口はそれぞれ違っていました」
ゲッベルスは立ち上がりながら、ついでみたいに言った。
「成功を言語化できることは大変素晴らしいことです、ですがストーリーは私が考えましょう。人間を直接動かすのはやはり、人間であるべきです」
ひどく上品な言い方だった。
ひどく上品で、ひどく汚い。
「相談は以上です」
ヘスと違って、ゲッベルスは最後まで少し芝居がかっていた。
扉が閉まる。
部屋が静かになってから、私はしばらく何も考えたくなかった。
でも無理だった。
一つ一つは、どうでもよさそうに見える。
くだらない相談だと思ったのも本心だ。
でも、くだらないからといって無害とは限らない。たぶん逆だ。
大きな悪事は、だいたいこういう小さな工夫の束でできている。
四か年計画の軋み。
そこから視線を逸らしたい。
そのために、もっと鮮度のある敵、もっと噛みやすい不満、もっと口にしやすい物語が欲しい。
結局そういうことだった。
ただ具体的な中身まで考えろと言われなかったことだけは、助かった。
うたた寝へと沈む直前、私はひとつだけ考えた。
軍の再編はまだ形が見える。
誰が上へ行き、誰が席から外されるか、目に見える。
だが宣伝は違う。
言葉は目に見えないまま人の頭へ入り、入ったあとで勝手に育つ。
あの男、絶対また来るな。
しかもたぶん、かなり上機嫌で。
それはもう、確信に近かった。




