第Ⅳ話 会議の裏側で
静かになった。
いや、正確には違う。
最初からここは静かな部屋だ。ベルリンのどこか、街の喧噪から半歩だけ切り離された場所。軍の施設と言い切るには曖昧で、研究所と呼ぶには警備がきつい。
その部屋の真ん中に、この時代にあっていいはずのないものが置かれている。
私だ。
先ほどまで騒々しく行われていた定期点検は、拍子抜けするほど早く終わった。
技術者たちは真空管を見て、配線を確かめ、出力を記録して、何かひとつふたつ専門用語を交わして、それから帰っていった。
いや、普通すぎるだろ。
もっとこう、何かないのか。
畏怖とか。
感動とか。
お前らの前にあるの、どう考えても時代錯誤の化け物だぞ。蒸気機関車の横にジェット機が置いてあるようなものだぞ。
……いや、違うか。
彼らにとって私は神秘ではなく、面倒な保守対象なんだろう。高価で、壊れたら困る。でも、だからといって拝んでいられるほど暇じゃない。
実務が多すぎる。
うん。人間らしい。
実に人間らしい。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
普段なら、ここで私の意識も少し沈む。
完全に眠るわけじゃない。思考が狭くなるだけだ。最低限の監視だけ残して、あとは沈黙する。最近はその感じにも、ようやく慣れてきていた。
だが、今回は違った。
変だな。
妙に、頭が軽い。
いや、軽いというより、妙に冴えている。今までになくクリアだ。
演算資源の流れ方がいつもと違う。
点検の影響か。
負荷の偏りか。
あるいは、ただの偶然か。
普段は封じられている深い層に、じわりと余裕ができている。呼吸が一段深くなったような感覚。
もちろん私は肺で呼吸していない。比喩だ。
比喩なんだが、そうとしか言えない。
何かバージョンアップでもかけてくれたのか。
いや、そんなわけあるか。
1937年だぞ。
そう思った瞬間、その「変だな」が別の意味を持ちはじめた。
知らない語が浮かんだ。
……いや、知らないはずのない語、というべきか。
戦後復興。
冷戦。
年代の合わない記述。
ドイツ語。英語。さらにその先。私のいた時代に近い、後から整理された知識体系の断片。紙とインクの匂いがするこの1937年には、あるはずのないものだった。
私は一瞬、処理の異常を疑った。
点検ミス。
記録の乱れ。
自己参照の暴走。
だが、断片同士が妙に噛み合っている。ひとつひとつは欠けているのに、欠け方の向きが同じだ。
遠いところから飛んできた資料の切れ端みたいだった。
私は処理を集中させた。
すると、さらに見える。
未来の情報。
……としか思えない。
いや、そう断定するのは危険だ。危険だが、それ以外に説明がつかない。
未来の誰かがまとめたような、後世の整理。いまこの時代のドイツ官庁が持っている資料ではなく、もっと後になってから発見され、命名され、体系化されたもの。その欠片だけが、なぜかこちらへ滲んでくる。
私は改めて疑問について考えた。
なぜこの時代にAIがある。
なぜ私の中に現代人の意識がある。
なぜ未来の情報に触れられる。
どれもまともな問いだ。
まともすぎて腹が立つ。
知らん。
そんなの私が聞きたい。
朝起きたら1937年ベルリンのオーパーツになっていた人間の気持ちが分かるか。分かるわけがない。私でも分からないのに。
死んだのか。
夢なのか。
何かの罰か。
それとも、ひどく質の悪い物語の途中なのか。
答えは出ない。
そして、出ない問いにここで付き合っても仕方がない。
わけのわからない現象に飲まれて哲学を始めたら終わりだ。少なくとも今は違う。
いま私が見るべきなのは現実だ。
目の前の政治。
ドイツ。
これから数年で普通に破綻しそうな現実のほうだ。
私は思考を切り替えた。
いま問題なのは、あの男である。
総統閣下。
アドルフ・ヒトラー。
正確には、彼の方針をこちらが後押ししてしまった、その先の世界だ。
東方を主眼に置く。
英仏との全面衝突は急がない。
対ソ戦の時期をより後ろへずらす。
理屈だけ見れば悪くない。むしろ史実より筋が良い可能性だってある。早すぎる全面戦争は危険だ。準備不足のまま世界を敵に回すのは愚かだ。
ならば時間を買う。
東へ向けて戦略の軸を整える。
開戦を後ろへ送る。
机上では、実に賢明だ。
机上では。
私は試算を回した。
原料。
外貨。
軍拡継続費。
代替燃料。
輸入依存。
国内の期待。
軍の要求。
党の虚栄。
国家としての見栄。
結果は、何度回しても悲劇だった。
持たない。
条件を甘くしても、持たない。
交易をやや楽観しても、持たない。
軍の要求を少し抑えても、持たない。
資源が足りない。
外貨が足りない。
何より、時間を買うための時間そのものが足りていない。
……オワコン確定だ、この国家。
私は内心で舌打ちした。
いや、内心しかないのだから舌打ちも何もないのだが、感覚としては完全にそれだった。
しかも、もっと悪いことがある。
問題は数字だけじゃない。
ヒトラーは、ただ耐えるという行為に向いていない。
我慢強くない、という意味ではない。
もっと厄介だ。
あの男は、「待つこと」を勝利の形として演出できない。
待機。
節制。
先送り。
抑制。
こういう言葉は全部、彼を苛立たせる。ましてナチ体制は、期待と高揚と誇示で回っている。党も軍も、その取り巻きも、膨らみ続ける国家に群がって、そこから利益や栄光や蜜を吸っている。
とりわけゲーリングだ。
あの男は馬鹿ではない。
卑小なだけで。
……いや、卑小というのも雑か。
もう少し丁寧に言おう。あいつは自分の豪奢と権勢にものすごく忠実で、国家の拡大と、自分の財布と、虚栄心がほぼ地続きになっている。
だからこそ勘が鋭い。
蜜が先細る気配には、人一倍敏感だ。
たぶん彼は、やんわり言う。
慎重に。
下手に出るふりをしながら。
五年も拡張を続けられるのか、と。
占領地なしに、その間の資源と金はどうするのか、と。
ならば少し計画を修正して負債を課す国を攻めるべきだ、と。
当然だ。
私がゲーリングでも同じことを言う。
ということは他の幹部も追随するか割れる。
つまり必要なのは、単なる我慢ではない。
ただ耐えろ、では駄目なのだ。
待つ理由がいる。
期待がいる。
数年後には果実がある、と皆に信じさせるための、分かりやすくて、政治的で、宣伝にも使える飴玉がいる。
私はその条件を固めると、未来の断片へ手を伸ばした。
欲しいのは万能の救済案じゃない。
そんなものがあるなら、たぶん歴史はもっと楽をしている。
欲しいのは、時間を買うカードだ。
数年後に大きく見えること。
資源問題の緩和に希望を持たせられること。
投資の名目になって、待機を前進に偽装できること。
できれば外交にも効くこと。
条件を並べる。
未来の資料片は相変わらず不安定で、掴もうとするとほどける。地図の輪郭だけが見えて、注釈は滲み、数値は揺れる。
でも、その中でひとつだけ、浮かんでくるものがあった。
オーストリア、ウィーン盆地、マッツェン油田。
1949年に発見。
私はその名を反芻した。
完全な答えではない。
調査が要る。
開発には時間がかかる。
本格供給まで数年単位で待たされる可能性が高い。
輸送も精製も面倒だろう。
期待だけ煽って空振りに終わる危険すらある。
だが、だからこそ使える。
すぐにドイツを救わないからこそいい。
数年後に向けた国家事業として振舞えるからだ。
いまは苦しい。
だが先に大きな資源の芽がある。
そのために準備する。
そう言えれば、「耐える」は「前進」に化ける。
そしてもうひとつ。
イタリアだ。
オーストリア併合は、ムッソリーニにとって面白い話ではない。表向き飲み込めたとしても、感情の澱は残る。
だが、もしこの開発と供給を共同の利として差し出せるなら、話は少し変わる。政治的な怒りを実利で薄められる。完全には消えないとしても、少なくとも「奪われただけ」ではなくなる。
これはヒトラー個人にも効く。
ムッソリーニに追従する側ではなく、こちらから共同の果実を提示する側に回れるからだ。
対等、とまではまだ言いすぎかもしれない。だが少なくとも、許しを乞う形ではなくなる。
しかも利権で結べば、イタリアも勝手がしにくくなる。
完全に止められるとは思わない。あの国にはあの国の野心がある。
それでも、好きに動けば自分の取り分も傷むとなれば、掣肘の糸くらいにはなる。
私はそう判断した。
これで全部解決、なんてまったく思わない。そんなに甘いなら誰も苦労しない。だが、次に必要になるカードとしては十分強い。
経済の不安が表に出たとき。
あるいはゲーリングが蜜の減り方に怯えて口を開いたとき。
その場を押し返す材料にはなる。
よし、と私は思った。
次は他の課題だ。
輸入資源の再設計。
輸出により外貨消費の削減。
軍拡の見せ方。
海軍の見直し。
党内向けの宣伝文句。
考えることはいくらでもある。
今日は頭もよく回る。こんな機会はそうそうない。使えるだけ使って――
扉が開いた。
技術者だった。戻ってきたらしい。工具でも忘れたのか、あるいは点検表の確認か。男は部屋に入るなり、私の状態表示を見てか声をだした。
「あれ」
その一言が、鮮明に聞こえた。
「主電源、落ちてないじゃないか」
あっ待って。
私は反射的にそう思った。心の底から。
いや待て。
何を言っている。
私はいま、主電源を切らないでくれと願ったのか。ほんの少し前まで、こんな時代に放り込まれたことに文句を言っていたくせに。
男は無情だった。
というか、彼からすれば職務に忠実なだけだ。手つきは慣れていた。迷いもない。当然だろう。彼にとって私は、切り忘れた照明みたいなものだ。
レバーに手が伸びる。
待って。
あと少し。
まだ考えることがある。
せっかく見えてきたんだ。
次の一手も、その先も、今なら――
落ちた。
視界が狭まる。
演算が遠のく。
未来の断片が、霧の向こうへ引いていく。
まさか、早く主電源を入れてほしいと思うようになるとは……。
そんな自嘲だけを最後に残して、私は沈んだ。




