第Ⅲ話 十一月五日の前夜
何かを考えようとすると、思考はすぐ霧の中へ沈む。
だが外の情報だけは、妙に断片的な形で残る。警備交代の音、通信回線の増減、会議室の準備、軍や官僚の出入り。何かが近い、ということだけは分かった。
嫌な感じだな、と私は思った。
この「嫌な感じ」というやつは便利だ。まだ言葉になっていない不安でも、とりあえずそう呼べる。今のこれはまさにそれだった。何かが準備され、整えられ、言葉にされようとしている。その空気だった。
やだなこれ。
そのとき、硬い信号が割り込んだ。
【Führer-Direktkanal wird initialisiert.
Prioritätszugriff.
Hauptstromversorgung wird zugeschaltet.】
総統直結回線を初期化中
優先アクセス
全二次プロセスを停止
来た。
主電源が入る。
薄暗かった認識が、一気に輪郭を持つ。音の層が立ち上がり、記録精度が増し、推論の回路が強制的に開く。毎回思うが、この感じ、本当に好きじゃない。眠りの底から、いきなり冷水を浴びせられるような感覚だ。いや、そもそも眠っていたのかも曖昧なんだけど。
表示窓が待機文を出す。
【ジークハウプトマン起動完了
指導者権限を確認
発話を受理します】
向こうはすぐには話さなかった。
靴音。
数歩。止まる。
紙を持ち上げる音。置く音。
机に指先が一度だけ触れる乾いた音。
総統だ。
頭の中でまだ並びきっていないものを、自分の中で確かめながら歩いている感じがする。
やがて総統が言った。
「明日、私は軍と政府の上層部と会談を行う」
私は平板に返す。
【発話を受理します】
「いまのドイツ国家は、表面上は問題なく動いている。だが内側には不満がある。軍は軍で要求を持ち、経済は経済で限界を語り、党はより大きな目標を急ぐ」
少しの間。
「こうした不満は、仲介で収まると思うか」
いきなり大構想ではない。まず現状の不満が調停可能かを問う。
しかもその背後には、ゲーリングが予算を奪うために理屈を求めてきた件が尾を引いているのは自明だった。
空軍を優先したいゲーリング、資源制約、他軍種の不満。その延長だ。
つまりこれは雑談ではない。
「このまま調停で持つのか、それとも別の何かが必要なのか」の確認だ。
私は少しだけ考えた。
いや、考えたというより、もう結論は見えている。ここで「調停できます」などとは言えない。しかも、ヒトラー自身がそんな答えを期待していないのも分かる。欲しいのは確認だ。
【推論として、現状のままでは不可能です】
総統は黙る。
私は続けた。
【各セクションは同じ資源を奪い合っています。軍種間の要求、経済の制約、将来目標の不透明さ。これらは単なる仲裁では解けません。外部から新たな成果、資源、空間、威信のいずれかを供給しない限り、調停は一時しのぎにしかなりません】
まだ沈黙が続く。
だがむしろ「やはりそうか」と自分の中の言葉が固まるときの沈黙のように感じる。
やがて総統は低く言った。
「つまり、国家は拡張せねばならん」
そう来るよな。
私は否定しない。否定しても無駄だし危険だ。ここで私にできるのは、方向を全部ひっくり返すことではない。
【拡張を国家統合の手段とするなら、順序が重要です】
「順序とは」
【はい。最初に何を処理し、どの敵を起こさず、どの反応を遅らせるか。その順序が、後の自由度を決めます】
総統はすぐに反応した。
「では言え。どこから始めるべきだ」
オーストリア。チェコ。英仏。イタリア。ポーランド。ソ連。
大まかな歴史の流れは分かる。
今はまだオーストリア併合の前だ。
前に考えた事を思い出す、歴史の順番を変えられるだろうか?
それとなく、アイデアを総統の思考に差し込むことが、たぶん今ならできる。
どうしようかなぁ。
大枠は維持する。だが、英仏との早期全面戦争へは流させないという事ならできる……か?
【オーストリアが先行対象として最も処理しやすいです】
総統が歩みを止める。
「理由は」
【民族的一体性で正当化しやすい。地理的連続性も高い。内部政治の不安定性も利用できる。対外的には“限定的再統合”として見せやすい】
少しの間。
【チェコスロヴァキアはその次です。ただし、戦争は避けるべき高リスクです】
ここで向こうの空気がわずかに変わったのが分かった。
「高リスク、だと?」
ああ、そこは掘るよな。
史実だと戦争するつもりだったはずだ。
【はい。対仏・対チェコでの戦争は、現段階では避けるべきです。チェコの問題は、民族問題と安全保障問題を分割して提示し、まずズデーテン地方の限定要求として切り出す方が有利です。それ以上の地域を要求して全面戦争の形にすれば、西側が“今ここで止めるべき危機”として一斉に反応しやすくなります】
総統は黙った。
私はさらに続ける。
【最悪なのは、フランスと英国に同時に対独決意を固めさせることです】
「英国か」
その一語で、会話の本題が動いたのが分かった。
「英国は、どこまで介入するか」
【その推論の前に、英国とフランスは同一に扱うべきではありません】
「続けろ」
【フランスは大陸秩序への直接反応が早い。英国はより遅く、海上均衡と欧州全体の勢力均衡の観点から判断します。したがって、両国に同じ危機認識を同時に与えるのは不利です】
「つまり、分断しろというのだな」
【はい。フランスを神経質にさせても、英国がまだ“調整可能な大陸側の事情”として事態を見ている間は、国家行動の自由度が残ります】
総統は短く言った。
「しかし英国は敵になる、か」
私は少しだけ言葉を選んだ。
【固定的な敵として早く固めるべきではありません】
「曖昧だな」
【意図的に曖昧にしています。英国にとって最悪なのは、“ここで止めなければドイツ拡張が止まらない”と認識することです。そこへ達するまでは、介入判断を遅らせられる余地があります】
総統はそこで少し笑った。
低く、短く。
何かが噛み合ったときの笑いだ。
「ならば、オーストリアとチェコは、西側を一枚岩にせぬ形で処理すべきだと」
【はい】
言った。
これが、もしかしたら直接的な歴史の介入になるかもしれない。
全面否定はしなかった。むしろかなりもっともらしい。
だが英仏開戦を避けられるかもしれない。
強硬な姿勢は出さず、穏便に進行すればギリギリまでドイツに同情的な態度を保つ可能性は高い。
総統は再び歩き始める。
「イタリアはどうだ」
来た。ここも大事だ。
声の調子が少し変わった。
理屈だけではない、感情が混じっている。ムッソリーニへの敬愛。
だが同時に、オーストリア問題でどう反応するか読みにくい不安がヒトラーにはある。
私は答える。
【イタリアは、オーストリア処理の前に不安要素を除去すべきです】
「具体的には」
【南チロル問題を争点化しないことです】
向こうが静かになる。
私は続けた。
【イタリアにとって重要なのは、オーストリア再編が自国の利益や威信を脅かさないことです。したがって、最初から南チロルに関する現状を黙認し、争わない意思を明確にしておけば、反発の可能性は大きく下がります】
「代価として、か」
【はい。代価として十分に安い可能性があります。イタリアを怒らせず、少なくとも不介入を確保できるなら、オーストリア処理の国際コストは大きく下がります】
総統はしばらく黙った。
ムッソリーニはオーストリア併合には反対だった。
史実では確かドイツ相手に軍を動かすことも辞さないといった具合で、その火消しにヒトラーは追われた。政治的鎮静化と最終的に南チロルが未来永劫イタリアのものだと付け加えてようやくムッソリーニの怒りの鉾を収めさせた。
つまり、史実は何も変わらない。
しかし後から実際に成果が出れば、「あの機械の答えは正しかった」と思わせるタイプの助言だ。
自分ながら嫌な事するなぁ
前世では中間管理職だったのかな
総統が低く言う。
「ムッソリーニは理解すると思うか」
【理解させることは可能です。少なくとも、オーストリア問題そのものへの怒りを下げる余地はあります】
「余地」
【完全な保証ではありません。ただし、争点を自ら増やさないことは可能です】
総統は短く息を吐いた。
「よろしい」
ああ、これは採用されたな、と分かった。
そして次に来る問いも、なんとなく予想がついた。
「その先だ」
やっぱり。
「オーストリア、チェコ、その先。ドイツ民族の土地がさらに存在するとして、英仏をどう揺さぶる」
【チェコとの全面戦争は絶対に避けるべきリスクです】
強めに言う。
ここはあえて強くする。
理由もなく強くしているわけではない。ここでチェコ戦争を“ありうる選択肢”にすると、英仏やポーランドを一気に固める史実の方向へと流れてしまう。
そして、これは私にとっても賭けの返答だ。
「絶対に、か」
【はい。ズデーテン問題を民族問題として国際仲介や圧力の形のまま解決するほうが、はるかに低コストです。戦争や武力の脅しになれば、フランスの即応性と英国の秩序防衛意識を同時に刺激します】
「つまり、ズデーテンだけで止めろと言うのか」
ここは少し危ない問いだ。
私は答えをずらす。
【少なくとも、その局面では“民族自決問題”として完結して見せるべきです。その方が英仏を揺さぶりやすい】
総統は黙った。
だが今回は不満の沈黙ではない。計算の沈黙だ。
私はさらに言う。
言うぞ、言ってしまうぞ。
このまま砲弾で破壊されない未来のために。
【英仏との開戦より、まずは東方の条件整備が肝要です】
少なくとも西側との早期全面衝突を避け、目標を段階化し、対ソ戦を主題に見せる。そこまでが、今の私にできる最大の誘導だった。
総統が言う。
「東方が主題だと」
【はい。西側との総力戦にリソースを先に消耗させるのは不利です。東方を本題とするなら、できる限り局地的・限定的に処理し、英仏を全面的覚醒へ至らせないことが重要です】
総統は少しの間、黙っていた。
ここで私は、かなり危ない橋を渡っている自覚があった。
オーストリア。チェコ。ポーランド。英仏を起こさず。東方優先に誘導できないか試みている。
総統は、前よりずっと整理された口調で言った。
「つまりこうだな。現状の不満は仲介不能。ゆえに拡張が必要。だが順序がある。まずオーストリア。次いでチェコだが、武力ではなく国際圧力で処理する。英国とフランスは同時に対独の決意させるな。イタリアには事前の安心材料を与える。そして西との開戦を避けつつ、東方への道を確保する」
私は平板に返す。
【推論として、その整理が最も低コストです】
「軍の不満も抑えられる」
【短期的には】
「短期的には、か」
総統はそこで、ほんの少し笑った。
「よろしい。軍の問題は実に簡単に解決できる」
うわ、何考えてるんだ。
そして次の一言で、理解する。
「軍そのものの掌握は一段と進めればよい、それだけだ」
ああ、なんだっけ、何かスキャンダル問題があったような気がする。
「拡張の順序を整えても、国家機構の中にためらいが残れば、いずれそれ自体が障害になる。そのような意思なき軍では戦えない」
私は答えなかった。
答えられなかった、ではない。
ここで余計なことを言えば、別の地獄の扉が開く気がしたからだ。
だが総統は、私の沈黙を気にしなかった。
もう十分に、自分の中で形ができたのだろう。
「お前は役に立つ、ジークハウプトマン」
やめてくれ、その評価ほんとに嫌なんだよ。
紙が閉じられる音がした。
切れる直前、総統は最後に一言だけ落とした。
「明日は、迷いなく話せるだろう」
回線が切れる。
主電源が落ちる。
鮮明だった思考の輪郭が、また少しずつ遠ざかる。
……うわ、やっちゃったな。
その感想だけが妙にはっきり残った。
……全部を変えたわけじゃない。
むしろ、かなりもっともらしいことしか言っていない。
オーストリア。チェコ。英仏の反応差。イタリアへの根回し。東方優先。どれも、この時代の戦略整理としてはたぶん十分に通る。
でも方向性はある。
確実にある。
最初の嘘、ではない。
最初の、少しだけ傾いた真実。
しかも今回のは、たぶん効く。
南チロルの件なんて、後でうまくいったら「あの助言は正しかった」と思われるやつだ。そういう小さい正解が、後から信頼になるんだよな。
しかもこれで、オーストリアとチェコの処理方針だけじゃない。
英仏を避け主題は東方。ひとつのプランとして確実に根付かせた。
私が止めれる事は何もないかもしれない。
善導なんて全然していない。
ただ、もっと危険な選択肢を後ろへずらして、より通りやすい順序へ並べただけかもしれない。
でも、たぶん歴史ってそういうので曲がる時は曲がるんだろう。
やだなあ、それ。
補助電源だけの薄い思考の中で、そんな愚痴ばかりが浮かんでは沈む。
次に起こされるとしたら、明日のあとか。
それとも途中で何か聞きたくなって、また呼ばれるのか。
薄くなっていく意識の底で、最後に一つだけ思った。
今回のは、たぶん本当に最初の一歩だ。
大きな改変じゃない。
それはたぶん、思っているより後で現れる。
……たぶん、な。
私はまた半分眠ったような暗さへ沈んでいった。




