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距離感

 月曜日の朝。


 教室に入ると、いつも通りの騒がしさが耳に入ってきた。


 男子が昨日の試合について盛り上がり、女子が週末の出来事を話している。誰かが宿題を忘れたと騒ぎ、別の誰かがそれを笑っている。


 いつもと変わらない、普通の教室だ。


 ただ、一つだけ違うところがある。


 藤崎澪の周りには、妙な空間ができていた。


 本人は自分の席で本を読んでいるだけなのだが、周囲の席にいるクラスメイトたちは、彼女のことを気にしているようだった。


 女子A「藤崎さんって、今日も本読んでるね」


 女子B「うん。休み時間もずっとじゃない?」


 女子A「話しかけてみたいけど、なんか緊張するんだよね」


 女子B「わかる。前に話しかけたとき、結構はっきり返されてたし」


 女子A「別に怒ってたわけじゃないんだろうけどね」


 女子B「うん。なんか、こっちが勝手に気まずくなるっていうか……」


 俺は自分の席に向かいながら、その会話を聞いていた。


 まあ、気持ちはわからなくもない。


 澪は別に、誰かを避けているわけじゃない。話しかけられれば普通に答えるし、必要以上に冷たい態度を取るわけでもない。


 ただ、思っていることをそのまま口にする。


 それだけだ。


 だけど、学校という場所では、それが意外と難しい。


 相手の顔色をうかがって、言いたいことを少しだけぼかす。傷つけないように言葉を選ぶ。そういうやり取りに慣れていると、澪のまっすぐな言葉は、時々予想以上に刺さるのだろう。


 朔「おはよう」


 澪「おはよう」


 隣の席に鞄を置く。


 澪は一度だけこちらを見て、すぐに本へ視線を戻した。


 それで会話は終わりだ。


 別に気まずくはない。


 俺だって、朝から隣の席の人間と話すことが毎日あるわけじゃない。


 ……ただ、こいつの場合は、俺が何を言っても特別な反応が返ってこないのが少し気になる。


 いや、だからといって毎朝話しかけるほど暇なわけでもないけど。


 朔「……何読んでるの?」


 澪「本」


 朔「それは見ればわかる」


 澪「じゃあ、聞かなくてもよかったんじゃない?」


 朔「……」


 朝からこれである。


 朔「いや、タイトルくらい教えてくれてもいいだろ」


 澪「聞かれたから答えたよ」


 朔「そういう意味じゃなくて」


 澪「じゃあ、どういう意味?」


 俺は口を閉じた。


 説明しようと思えばできる。できるけど、説明したところで、こいつが納得する気がしない。


 朔「……もういいです」


 澪「そう」


 澪は再び本を読み始めた。


 俺は前を向き、机に突っ伏した。


 なるほど。


 クラスメイトが遠巻きにしている理由が、少しだけわかった気がした。


 *


 昼休み。


 俺が弁当を広げていると、七海がやってきた。


 七海「朔、今日も鶏肉?」


 朔「なんで開口一番それなんだよ」


 七海「だって、また入ってる」


 朔「安い。うまい。タンパク質が取れる。文句あるか?」


 七海「ないけど、人生楽しい?」


 朔「鶏肉で人生を語るな」


 七海はけらけらと笑いながら、俺の向かいの席に座った。


 こいつは昔から、俺の弁当に対して妙に厳しい。


 自分だって毎日とんでもないものを食べているわけではないのに、俺の弁当だけは遠慮なく批評してくるのだ。


 七海「そういえば、数学の課題やった?」


 朔「やった」


 七海「見せて」


 朔「自分でやれ」


 七海「一問だけ!」


 朔「その一問から全部写すんだろ」


 七海「失礼な。二問くらいは自力でやるよ」


 朔「増えてるじゃねえか」


 七海は悪びれる様子もなく笑った。


 七海「だって、朔のノート見やすいんだもん」


 朔「先生の説明をちゃんと聞けばいいだろ」


 七海「聞いてたよ。途中までは」


 朔「途中からどうした」


 七海「お腹すいたなって」


 朔「小学生か」


 七海「お昼前だったんだから仕方ないでしょ!」


 俺はため息をつきながら、自分のノートを七海に渡した。


 朔「休み時間に返せよ」


 七海「ありがと!」


 七海はノートを受け取ると、さっそく課題を確認し始めた。


 こういうところだけは素直だ。


 ……いや、こういうところだけでもないか。


 七海は昔から、頼み事をするときも、感謝するときも、変に格好をつけない。


 そのせいか、こいつと一緒にいると、余計なことを考えなくて済む。


 七海「……あれ?」


 朔「どうした?」


 七海「この問題、答え間違ってない?」


 朔「は?」


 ノートをのぞき込む。


 確かに、計算の途中で符号を間違えていた。


 朔「……」


 七海「朔くーん?」


 朔「見るな」


 七海「え、間違えることあるんだ?」


 朔「人間なんだからあるだろ!」


 七海「いやあ、安心した。朔も人間だったんだね」


 朔「お前、今日帰り道覚悟しとけよ」


 七海「暴力反対!」


 俺たちの声が少し大きくなったせいか、近くの席の男子が振り返った。


 男子A「お前ら、昼から元気だな」


 朔「こいつがうるさいんだよ」


 七海「朔が計算間違えてたの!」


 男子A「……お前、そこは隠してやれよ」


 朔「ほんとだよ!」


 七海「だって面白かったんだもん」


 まったく、こいつは。


 俺はノートを取り返し、間違いを直した。


 その間、七海はずっと笑っていた。


 *


 午後の授業が終わると、教室は一気に帰り支度の音で満たされた。


 俺が鞄を持ち上げたところで、隣の席から声がした。


 澪「水瀬くん」


 朔「ん?」


 澪「これ、落ちてた」


 差し出されたのは、俺のシャープペンシルだった。


 朔「あ、俺のだ。ありがとう」


 澪「うん」


 受け取って、筆箱にしまう。


 これで終わりかと思ったが、澪は俺の机に置かれたノートを見た。


 澪「数学の課題?」


 朔「そうだけど」


 澪「答え、間違ってるところがあるよ」


 朔「……なんで知ってるんだ?」


 澪「さっき、隣から見えたから」


 朔「見えてたなら教えてくれよ」


 澪「頼まれてないから」


 朔「いや、そこは教えてくれてもいいだろ」


 澪「自分で気づけたなら、そのほうが覚えると思うけど」


 言っていることは、わからなくもない。


 わからなくもないが、もう少し言い方というものがあるだろう。


 朔「藤崎さんって、いつもそんな感じなの?」


 澪「どんな感じ?」


 朔「……いや、いい」


 澪「そう」


 澪は鞄を持ち、席を立った。


 俺はその背中を見送る。


 結局、澪がどういう人間なのか、まだよくわからない。


 ただ、わかったこともある。


 こいつは、誰かに好かれるために言葉を選ぶような人間ではないらしい。


 それがいいことなのか、悪いことなのか。


 今の俺には、まだ判断できなかった。


 *


 校門を出ると、少し先で七海が待っていた。


 朔「先に帰っててよかったのに」


 七海「朔が遅いんだもん」


 朔「別に待ち合わせしてたわけじゃないだろ」


 七海「一緒に帰るつもりだったの!」


 朔「はいはい」


 七海「返事が雑!」


 並んで歩き出す。


 いつも通りの帰り道だ。


 七海「そういえば、今日、藤崎さんと話してたね」


 朔「シャーペン返してもらっただけだよ」


 七海「へえ」


 朔「……なんだよ、その反応」


 七海「別に? 普通に話せるんだなって思っただけ」


 朔「話しかければ返事くらいするだろ」


 七海「まあ、そうだけど」


 七海は前を向いたまま、少し考えるように歩いていた。


 七海「でも、藤崎さんって、ちょっと近寄りがたいよね」


 朔「やっぱりそう思う?」


 七海「うん。美人だし、何考えてるかわかりにくいし。別に嫌な人ではなさそうだけど」


 朔「思ったことをそのまま言うからじゃないか?」


 七海「それもあるかも。私、ああいう人に何か言われたら、たぶん普通に落ち込む」


 朔「七海は気にしすぎなんだよ」


 七海「朔が気にしなさすぎなの!」


 朔「そうか?」


 七海「そうだよ」


 即答だった。


 俺は少しだけ考えた。


 確かに、澪に何を言われても、腹が立つというより、どう返せばいいのかわからなくなる。


 もしかすると、俺自身も、相手の言葉をまともに受け止めるのが苦手なのかもしれない。


 ……いや、そこまで深く考えることでもないか。


 朔「まあ、別に嫌われてるわけじゃないだろ」


 七海「朔って、ほんと前向きだよね」


 朔「長所だろ」


 七海「短所でもあると思う」


 朔「どっちだよ!」


 七海は笑った。


 その笑い声につられて、俺も笑う。


 結局、今日もいつも通りだった。


 学校で少し変わったことがあっても、帰り道にはくだらない話をしている。


 それが当たり前すぎて、特別だなんて考えたこともなかった。


 ……まあ、明日の数学の小テストで満点を取れたら、七海に一生自慢できるかもしれない。


 そんなことを考えながら、俺は家路を歩いた。

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