第5話(最終話):のど飴のお代は、私の生涯をかけて
——それから数週間後のこと。
リリィの屋敷の前に、眩いばかりの装飾が施された馬車が停まったのは今朝の事だった。
最初は王宮への招待を断るつもりだった。
しかし、迎えにきた遣いの男が涙目で必死に縋りついてきたのだ。
「リリィ様に来ていただけないと、我がアドリアーノ家は今日で取り潰しです……!」
その悲壮な訴えに押し切られ、リリィはついに頷いてしまった。
そして今、リリィは王城の、目が眩むほど豪奢な応接室にいた。
座り心地が良すぎて落ち着かない最高級のソファの上で、スカートの裾をきゅっと握りしめては溜息をつく。
(どうしましょう……勢いに呑まれて来てしまったけれど、やっぱり場違いじゃないかしら?)
そんなふうに考え込んでいると、扉を叩く軽やかなノック音が響いた。
緊張で肩を跳ねさせたリリィの視線の先で、ゆったりと扉が開く。
「待たせたねリリィ。来てくれて嬉しいよ」
現れたレイナードは、リリィの姿を認めると、その美しい水色の瞳を歓喜に細めた。
「殿下。ご招待、ありがとうございます」
リリィは慌てて立ち上がると、令嬢らしい笑みを浮かべて、優雅なカーテシーをした。
しかし、レイナードは困ったように微笑むと、すっと距離を詰めて彼女の指先を優しく掬い上げた。
「そんなに畏まらないで。君には、いつも通りにふるまってほしいんだ」
触れられた手の熱にリリィが顔を上げると、至近距離で彼と目が合った。
今日の彼は、金糸の刺繍が施された、豪華な正装を纏っていた。すっと伸びた背筋と、内側から滲み出るような品性は、衣装に負けない気品を放っている。
レイナードは名残惜しそうに手を離すと、リリィに再び席を促した。
「……さて、まずはバジル=バーロックと、ローズ=クローバスのその後について話そうか」
レイナードが静かに切り出した真相は、リリィが知らなかった事件の裏側だった。
ダイモン公爵家による王族暗殺未遂と数々の不正は、王家の調査によって次々と明るみに出た。
バジルが抱えていた巨額のギャンブルの借金。そこへ目をつけたのが、以前からレイナードと政治的に敵対していたダイモン公爵だった。
彼は借金を肩代わりする代わりに、クローバス家を利用してレイナードを害する計画を唆したらしい。
ダイモン公爵は爵位と領地を失い、生涯を牢獄で罪を償うことになった。
バジルも王族暗殺未遂への加担により投獄され、爵位も財産もすべて失った。
ローズもまた、聖女を名乗って王家の信頼を利用し、王族を危険に晒した責任を問われ、貴族籍を剥奪されて修道院へ送られることになった。
ローズの一件により、クローバス家もまた王家への虚偽報告や計画への関与を問われた。
しかし、リリィがこれまで王国に貢献してきたことも考慮され、爵位を失うほどの処分は免れた。
「君を傷つけた者は、全員裁かれた。もう、安心していい」
レイナードはどこか気遣うように静かに告げた。
リリィは実家の処分を聞き、少しだけ目を閉じる。
(王宮薬師としての取引停止だけで済んだのなら……良かったと思うしかないわ)
「……はい」
リリィは微笑み、小さく頷いた。
けれど、話にはまだ続きがあった。リリィを見つめながら、レイナードはふと表情を曇らせる。
「最初は、君が調合していた薬に毒を混ぜるつもりだったみたいだ。でも、君は薬草のわずかな変化も見抜いてしまう。そこで彼らは、君の身近にいて薬に関われるローズを利用したそうだ」
「あっ……!」
リリィは深く息を呑み、すぐに何かに合点がいったように手を打った。
そんな大事な話なのに、リリィの表情はどこか晴れやかだった。
「そういえば一時期、どうしても思った通りの薬にならないことがありました。私の腕が鈍ったのかと落ち込んでいたのですが……余計な不純物が混ざっていたせいだったのですね!」
すっきりと疑問が解けて嬉しそうに微笑むリリィに、レイナードは目を見張った。
「くっ……はは! 君は本当に……そういう人なんだね」
「え?」
おかしそうに笑う彼に、リリィは小さく首を傾げた。
「普通はそこで、自分が狙われていた恐怖や、利用された怒りを感じるものなんだけど」
呆れたように肩をすくめているのに、リリィを見つめるその眼差しは、どこまでも愛おしげで優しかった。
「そうだ、リリィ。君に見せたいものがある。ついて来て」
レイナードはソファから立ち上がると、優雅な所作でリリィに手を差し出した。
「あ、はい」
リリィがその手を取ると、彼は悪戯っぽく微笑み、そのままリリィを優しくエスコートしながら廊下を進んだ。
渡り廊下の突き当たり、重厚な扉の前には、すでにペトラスが控えていた。
彼は二人の姿を認めると恭しく一礼し、一本の金色の鍵を差し出す。
レイナードがそれを受け取り、鍵穴に差し込んで回すと、静かな音が響いた。
「さあ」
リリィの肩をそっと引き寄せるようにして、レイナードが扉を押し開ける。
——その瞬間、瑞々しい緑の香りと大地の温もりが、リリィを包み込んだ。
「で、殿下、ここは……っ!?」
思わず息を呑む。目の前に広がっていたのは、奇跡のような光景だった。
魔法石が異なる気候を再現しているのだろう。北の寒冷地でしか見られない青い薬草と、南国で育つ燃えるような赤いシダが、同じ空間で咲き誇っている。
世界中の珍しい薬草が敷き詰められた宝箱のような景色に、リリィの目はこれ以上ないほど輝いた。
「ここは、歴代のシャムロックの聖女が使っていた薬草園だよ。……つまり、君のための場所だ」
レイナードはリリィの手をそっと持ち上げ、手の甲にあるクローバーのアザを優しく、愛おしそうに親指でなぞった。
「リリィはここで一生、好きなだけ研究を続けるといい」
「……本当に? 私が、この夢のような場所で研究を……?」
声を震わせるリリィを、レイナードはどこか熱の籠った瞳で見つめる。
「もちろんだ。ただ、一つお願いがある。これからも毎日、のど飴を買いに通わせてほしい」
その言葉に、リリィははっと我に返り、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんな、お代なんてとんでもありません! 殿下にはお世話になってばかりですし、いつでも無料で持っていってください!」
大真面目に品代をタダにしようとするリリィに、レイナードは甘く目を細める。
「いいえ。そのお代は、私の生涯をかけて支払わせてください」
「お代は一生……? はて?」
リリィは小さく首を傾げた――が、その視線はすでにレイナードではなく、彼の足元に群生する薬草へと釘付けになっていた。
「……あの、あそこにあるのって全部、好きに植え替えたり交配したりしてもいいんですか!?」
「ええ、好きにするといい」
「最高です……!!」
リリィは歓喜のあまりステップでも踏みそうな足取りで、ドレスの裾も気にせず薬草園の奥へと進んでいってしまった。
すでにレイナードの声は耳に入っていない。
「うーん……私より薬草か。先は長そうだね」
「殿下、それでも求婚自体は成功しております。お喜びください」
背後からペトラスがフォローを入れると、レイナードは愛おしそうに、少し呆れたような苦笑いを浮かべた。
「レイナード様! 見てください、この葉のツヤ! 信じられません!」
薬草に夢中のままリリィが振り返る。
「今行くよ」
レイナードは思わず笑みをこぼし、彼女の後を追う。
春の陽光に満ちた薬草園には、二人の穏やかな笑い声が、いつまでも響いていた。




