第4話:元婚約者の愚行と、忍び寄る呪いの影
——それから数刻後。
窓の外の陽が陰り、リリィがどんよりとした空を見つめながら、乾燥させている薬草について考えていた時だった。
激しくカウベルの音を鳴り響かせながら、バタンッと乱暴にドアが開け放たれた。
同時にねっとりとした甘い香水の匂いが店内に流れ込む。
「ずいぶん小汚い店ね」
びくりと肩を跳ねさせて振り返った先にいた人影を見て、リリィの背中に嫌な汗が流れた。
「仕方ないさ。街中探したが薬屋はここしかなかったんだ」
そこにいたのは、かつて自分を追い出した妹のローズと、元婚約者バジルだった。
(何で二人がここにいるの……!?)
リリィはカウンター越しに無意識に一歩後ろに下がった。
「おい、ここの薬師だな! 王子殿下がこの辺境で療養中なのだ。王都から同行した聖女ローズ様が力を尽くせと命じられたが、今すぐゼルビアナ固有種の薬草が必要なのだ。王都では手に入らん! あるだけの聖属性の薬草を差し出せ!」
彼らは目の前のフードの薬師がリリィだとは気づいていないようだった。傲慢な態度で捲し立てる。
「……わかりました」
フードを深く被り、関わりたくないリリィは黙って棚から指定された薬草をまとめ、カウンターに置いた。
「お代は100シリンです」
努めて冷静に言いながら、リリィは紙袋に薬草を詰めていく。
「おい、お前。……どこかで聞いたような声だな?」
リリィのフードのその隙間から見えた「新緑の髪」をバジルは見逃さなかった。
「待て……お前、その髪……リリィか!? こんな辺境で店番とは落ちぶれたものだな」
「まあ! お姉様!? 地方で静養していると思ったら、こんな薄汚い店で魔女みたいな真似をしていたのね!」
リリィは震える指先をぎゅっと握りしめて、小さく息を吸って吐いた。そして、かつて王都の夜会で何度も浮かべた、完璧に計算された貴族令嬢の笑みを貼り付ける。
「お久しぶりです。ご用件が薬草の買い付けだけなら、材料はすべてここですよ。ローズ、調剤の仕方は大丈夫かしら? その薬草は扱いが難しいの。配合を一歩間違えると薬にも毒にもなるわ」
「!? ……私は聖女よ!? 当然でしょう!?」
あまりに堂々としたリリィの態度に、ローズとバジルが怯んだように顔を見合わせた。
「なんて事……お姉様はショックで頭がおかしくなったんだわ」
ローズが大げさにふらつくと、バジルがその肩を抱いた。
「関わるだけ時間の無駄だ。行こう、ローズ。壊れた女の相手をしても仕方ないだろう?」
目の前で繰り広げられる哀れな三文芝居を、リリィはただ静かに見つめていた。
「ふん、これだけあれば十分だ。今夜には王子殿下も回復するだろう。ローズは聖女だからな」
「あの、お代は……」
「ふんっ! これでいいだろう!?」
叩きつけるようにカウンターに小銭を置くと、二人は薬草をひったくるようにして去っていった。
静けさを取り戻した店内で、リリィはカウンターの硬貨を指先で数える。
「20シリン足りないです……」
王都にいた頃と何一つ変わらない、妹たちのあまりの浅ましさと「知識のなさ」に、リリィは何とも言えない憐れみを覚えて、深いため息をついた。
「大丈夫かしら……でも王子殿下って……」
ふと、脳裏に浮かぶ金髪に水色の瞳の青年の笑顔が蘇る。リリィは思考をふり払うように、頭を横に振った。
「……ローズは聖女だもの。大丈夫よね」
(……私よりずっと優秀なんだから)
小さな呟きは、誰に聞かれることもなく、店内の静寂に溶けて行った。
♣︎♣︎♣︎
その日は屋敷に帰る気にならず、リリィは夜遅くまで薬屋の調剤室に籠もっていた。ぐつぐつと煮立つ薬草の苦い香りが、静かな室内に満ちていく。
ガタガタと夜風が窓を揺らす音が絶えず響いていた。
(今夜は天気が悪いのね。……嵐になるのかしら)
隙間風が時折り吹き込み、室内の橙色のランプの炎を揺らして消えそうになる度、リリィの胸騒ぎは大きく膨らんでいった。
——ドンドンッ! ドンッ!
「!!」
静寂を破り、激しくドアを叩く音と振動に、リリィは肩を跳ねさせた。
「こんな時間に、一体誰かしら……?」
地鳴りのような風に混じって、必死に名前を呼ぶ男の声が聞こえる。リリィは慌てて店の表扉の鍵を開けた。
「ペトラスさん?」
「リリィさん……! 頼む、すぐに来てくれ!」
なだれ込むように飛び込んできたペトラスは、髪を振り乱し、顔面蒼白のままリリィの肩を掴んだ。
「主の……王子殿下の容態が急変した! 聖女の祈りも薬も全く効かないんだ!!」
「……っ!」
ペトラスの手の震えが伝わり、リリィの思考が一瞬、真っ白に染まる。
(やっぱり、レイナード様は王子殿下だったんだ)
ローズ達がこの街に現れてから、ずっとそんな予感はあった。けれど気づかないふりをしていた。
ぎゅっと拳を握る。爪が手のひらに食い込む痛みでリリィは正気を取り戻した。
(今はそんな事を考えている場合じゃないわ。レイナードさん、昼間も気になる咳をしていたわ。体温も少し高いようだった……)
「すぐに用意します。ペトラスさん、案内して下さい」
リリィは真っ直ぐにペトラスの茶色い瞳を見つめた。
その瞳からは先ほどの動揺は消え去り、上級薬師としての冷静さと、患者を救うという強い情熱の光が宿っていた。
ペトラスの操る馬に乗り、蹄の音を夜の街に響かせ、飛ぶようにやって来たのは街の外れにある大きな屋敷だった。かつて王家に縁ある貴族の別荘だという。
ペトラスは馬を使用人に預け、すぐに屋敷の中へリリィを案内した。
廊下では侍女たちが慌ただしく駆け回り、屋敷全体が張り詰めた空気に包まれている。
「さっきまで意識はあったんだ……それが急に苦しみ始めて……」
ペトラスはそう言いながらまっすぐに廊下を進み、屋敷の最奥にある部屋の扉を勢いよく開けた。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような禍々しい魔力がリリィの全身を駆け抜けた。
「殿下! しっかりしてください、殿下……!」
ベッドのそばで、ローズが取り乱しながら、震える手で怪しく光る魔法薬の瓶を握りしめていた。その横では、バジルが顔を歪めて頭を抱えている。
ベッドに横たわるレイナードは、かつてないほど青ざめ、浅く微弱な呼吸を繰り返していた。
白い指先は、まるで呼吸を求めるように爪を皮膚に食い込ませながら自身の喉を掻きむしり、血が滲むシーツを握りしめていた。
「レイナード様……!」
一目で尋常ではないと分かるその姿に、リリィは一歩進んだ。
——その時、薬草の香りに混じって、焦げたような黒魔法の気配が鼻をつき、リリィは眉を顰める。
「ローズ、その魔法薬を飲ませた? 煎じた薬草を全て見せて」
「お、お姉様……わ、私のせいだって言うの!? 私は聖女で……」
「ローズ、今はそんな話をしている場合じゃないわ。早く!」
普段からは想像もつかないリリィの鋭い声に、ローズはビクッとしながら、テーブルに並べたいくつもの魔法薬のそばにある薬草を指差した。
「そこにあるものが全てよ」
リリィは流れるような手つきで薬草を検分していく。
「……これ、ルナミントよ。ルミナミントによく似ているけど、闇属性が呪いや黒魔法を強める効果があるわ。それと……これは日没草? なぜこれを入れたの!?」
「そ、それはバジル様が、聖女の力を強める効果があるから入れた方が良いって……」
ようやく状況を理解し始めたローズが小刻みに震え始める。
「これは、ダイモン侯爵領でしか採れない禁止薬草よ!」
リリィは弾かれたように薬草や魔法薬を詰めた鞄を開いた。
(日没草は魔力の強い人ほど致死性の魔力中毒を起こす呪術用の薬草。魔力が高い王族なら……っ)
恐ろしい結末が脳裏をよぎるが、不思議とリリィの指先に迷いはなかった。まるで身体が、『最適解』を最初から記憶していたかのように。
すり鉢で日没草の毒性を中和する別の薬草を叩き潰し、正確な分量で手際よく混ぜ合わせる。指先一つ迷わない。
一滴の狂いもなく調合し、仕上げに上級解毒魔法を注ぎ込むと、泥水のようだった液体が、一瞬で淡く清らかな白銀の光を宿した。
「レイナード様!」
ベッドに飛び込み、彼の身体を抱き起こす。わずかに開いた唇へと、躊躇なく魔法薬を流し込んだ。
「う……ぁ、……っ」
薬が喉を通るたび、彼の白い肌に浮き出ていたどす黒い呪詛の紋様が、じわじわと形を崩していく。
(お願い、間に合って……! レイナード様を、助けて……!)
自身の喉をかきむしっていた彼の大きな手に、リリィは自らの両手をぎゅっと重ね、一心に祈った。
──その瞬間、世界が白い光で満たされた。
リリィの指先から溢れ出た圧倒的な聖なる光が、レイナードの身体を優しく包み込む。
彼を苛んでいた悍ましい呪いは、その光に触れた瞬間、パチパチと音を立てて霧散し、跡形もなく消滅した。
眩い光が収まり、リリィの元へと還っていく。
気がつけば——
リリィの右手の甲には、見たこともない小さなクローバーのあざが、まるで刻印のように浮かび上がっていた。
「これは……?」
困惑するリリィの耳元に、まだ少し掠れた声が静かに響いた。
「これは……王家に伝わる伝承と同じ……」
重ねられていた彼の手がするりと反転し、今度はリリィの手の甲を、愛おしそうになぞりながら包み込んだ。
「……シャムロックの聖女」
レイナードはそう呟き、熱を帯びた水色の瞳をまっすぐリリィへ向けた。その眼差しには、確信だけでなく、安堵と喜びが滲んでいた。
だが、その視線が不意に逸らされ、鋭い光を放つ。
「ペトラス」
「はっ」
バジルが逃げ出そうとした瞬間、ペトラスが素早くその身体を組み伏せた。
「や、やめろ! 私は、私は騙されただけで——!」
「私は違うわ! 聖女なのよ!?」
「君達には後でゆっくり話を聞こう。……毒草を煎じる聖女とは、滑稽だな。連れて行け」
レイナードは水色の瞳に絶対零度の冷酷さを滲ませ、一蹴する。
騒ぎを聞きつけて駆け込んだ騎士達に引きずられ、バジル達は一瞬で連行されていった。
リリィは初めて見る「王族としてのレイナード」の姿に、思わず息を呑んだ。
——部屋に静寂が戻って来た。
「……怖がらせてしまったね。すまない」
ベッドの上から、レイナードは動けなくなっていたリリィの手をそっと握る。
ハッとなり、リリィがレイナードを見ると、彼は疲れたような顔をしながら、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「殿下、喉の傷の手当てをします。その後はもう今日は無理をせずに休んでください」
そう言ってリリィは鞄から傷薬を取り出そうとする。けれど、その手をレイナードは離さなかった。
「ねえ、飴はある?」
「え?」
「君の飴がないと、困るんだ。公務も務まらない」
先程までの冷酷さからは結びつかない、どこか甘えるような掠れた声。レイナードは縋るようにリリィをじっと見つめた。
「それは困りましたね。でも大丈夫です。また明日持って来ますよ。……だから今はゆっくり休んでください」
リリィが微笑みながらそう言うと、レイナードは子供のように安心した顔をして手当てを受け、やがて深い眠りへと落ちていった。
握られた手は、心地よい体温を保ったまま、繋がれたままで。
リリィはその端正な寝顔を見つめ、張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
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