第2話:声を失った美しい青年と、自家製のど飴
リリィがゼルビアナに来て数ヶ月が経った。
伯爵令嬢とは名ばかりで、侍女の一人もいないボロ屋敷。
そこで寝食も忘れてゼルビアナの薬草採集と研究に没頭した最初の一ヶ月は、リリィにとって至福の時間だった。
次の一ヶ月では、指先を緑色に染めながら街の小さな薬屋へ通い詰め、偏屈なおばあさんに調合薬を認めてもらった。
そうこうしているうちに、いつの間にか引退宣言をして旅行に行ってしまったおばあさんに店を丸ごと任され、今やすっかりリリィは街に馴染んでいた。
「はい。こちらが湿布薬です。すーっと涼しくなって、腰の痛みが引きますよ。お大事にして下さいね」
「今日も助かるよ、リリィちゃん。……ところでさ」
食堂の主人が小麦粉のついた大きな手で湿布を受け取りながら、不思議そうにリリィの頭を見た。
「いつもそのフード、室内でも頑なにかぶってるだろ? 暑くないかい?」
どきりと、心臓が跳ねる。けれどリリィは口元をぎゅっと強引に引き上げた。
「うふふ。これはアイデンティティです。魔女みたいでカッコいいでしょう?」
そう言いながら、リリィはフードの端をつまんで悪戯っぽく微笑んで見せる。
「ははは! 王都じゃそういうのが流行りなのかい? 今時の若者の流行りは難しいや!」
食堂の主人は豪快に笑うと、カウベルをカランカラン鳴らしながら店を出て行った。
木の扉の向こうへ主人の背中が消えた瞬間、リリィは張り詰めていた息を一気に吐き出し、カウンターに突っ伏した。
「はぁ……っ、なんとか誤魔化せたかしら?」
ホッとして頭を揺らした拍子に、フードの隙間からは鮮やかな新緑の髪がはらりと肩に落ちた。
クローバス家特有の緑色の髪はよく目立つ。王都の貴族が見れば一目で彼女の素性が割れるだろう。
辺境の街で知るものはほとんどいないと思うが、何がきっかけで実家とのつながりがバレるかわからない。
(……上級薬師の知識で民間に薬を売ってると知られたら、お父様達に何を言われるかわからないもの)
ゾッとして身震いし、リリィは慌てて髪をフードの中へ押し込んだ。
「さて、不安がっている時間がもったいないわ。今日はもう店じまい。午後は薬草採集にいきましょう」
薬草のことを考えると胸の高鳴りが止まらない。さっきまでの不安はあっという間に消し飛んでいた。
リリィは目を輝かせながら、採取用のカゴを引っ掴むと、軽やかな足取りで店の扉に『クローズ』の看板を掲げる。
「待っててね? まだ見ぬ運命の薬草ちゃん」
胸を弾ませながら、リリィが振り返った瞬間、黒い外套を纏った青年と、青年の肩を支えるその仲間らしき男性が目の前に立っていた。
「すみません。薬師の方ですか!?」
青年の肩を支えながら、男性が顔を青くして捲し立てる。
「はい、そうですが……」
ぐったりとした青年は、まるで喉にガラス片でも詰まっているかのように、ヒューヒューと不快な音を立てて浅い息を繰り返している。
その様子を見て、リリィは顔を引き締めた。
この街には医者もいなければ、神殿の回復職ヒーラーもいない。
「……すぐに中に入ってください」
店の扉を素早く開けると、リリィは休憩室へ二人を案内した。
休憩室では、調合のために夜通し薬草を煮詰める事もあり、仮眠用のベッドもある。
青年をそこへ横たえると、リリィは素早く青年の診察を始める。
青年の喉もとには、かきむしったような血滲む傷と、まるで皮膚の下を黒い虫が這いまわっているかのようなドス黒い魔法印が浮かび上がっていた。
(……これ、ただの病気じゃない。肌がピリピリする。黒魔法の気配だわ)
勢いよく立ち上がり、リリィは早速調合を始めた。
「聖属性の魔法草……ルミナミントにハニーレイマロウ……」
思考より先に、指先が動いていた。すり鉢で薬草を微塵に砕き、実家から持って来た貴重な薬草の滴を正確に垂らす。
(変ね……黒魔法の処方なんて習っていないのに、どう調合すればいいか『手が』知っている……!)
迷いのないリリィの手さばきによって、数分後には、淡く発光する美しい魔法薬が完成していた。
「さあ、飲んでください」
意識の朦朧とした青年を抱き起こし、リリィは魔法薬の瓶をその口元に祈るように持っていく。
(お願い。薬草達。この人を助けてあげて……!)
青年は震える唇で魔法薬をゆっくり飲み出した。
しばらくすると、青年の喉元に浮かび上がっていたドス黒いアザのような魔法印は少しだけ薄くなり、青年の呼吸も少しずつ穏やかなものに変わっていった。
「良かった……」
リリィが胸をなで下ろした、その時。
青年の瞼が薄く開き、リリィの姿を映し出した。
窓から差し込む木漏れ日を背にしたフード姿の薬師。緑色の髪が一筋だけこぼれている。
——その姿を彼はじっと見つめていた。
「もう大丈夫ですよ」
リリィは安心させるように青年に微笑みかけた。
「……」
青年の口元が何か言葉を紡ぐように開いては閉じる。
「声が、出ないのですか?」
リリィがたずねると、背後で固唾を飲んで見守っていた男性が頷く。
「はい。主はしばらく前からこの症状に蝕まれて……数ヶ月前には薬も効かなくなり、ついには声を失われてしまいました」
男性は悔しそうに拳を握りしめていた。
「そうでしたか……」
リリィは顎に手を当てて、青年と男性を見る。
簡素だが品質の高そうな衣服に、装飾の細かい上等な剣の鞘。明らかに貴族の子息とその付き人だった。
リリィはぐっと、唇を噛みしめると、静かに立ち上がる。
「応急処置にはなりました。でも、この呪いはかなり根深いです。三日は毎日診せてください。」
魔法薬の棚を開き、いくつか薬を取り出すと、リリィは男性に渡した。
「この薬は一日三回食前に飲んでください」
(……貴族には関わりたくなかったけど、目の前の患者を放り出すわけにはいかないわ)
リリィはこれ以上の詮索を拒むように、フードの端をぐっと引っ張って目深にかぶり直した。
そして、手元に残った包みを付き人の胸元へぐいっと押し付ける。
「あと、これ。……私の自家製のど飴。少しは喉の痛みが紛れるはずだから、舐めさせてあげて」
そう言って、リリィはくるりと背を向けた。
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翌日、午後の来客が途切れた頃だった。
カウベルをカランカランと鳴らして店に入ってきたのは、黒い外套を羽織った二人組の男性だった——昨日の急患だ。
「あ、いらっしゃいませ」
反射的に声を上げたと同時に、リリィはカウンターの下で無意識に身構えた。
上等な仕立ての外套。間違いない、王都の、それもかなり身分の高い貴族だ。
昨日の警戒が脳裏をよぎる。関わりたくない。
万が一にも、クローバス家の特徴であるこの新緑の髪を見られるわけにはいかないのだ。
リリィは慌ててフードを、ぐっと目深に被り直して伏目がちにカウンターへ視線を落とす。
すると、すっと、長く白い指先が、一枚の紙を差し入れてきた。
『昨日は助けてくれて有難う。貴女は命の恩人だ』
流麗な飾り文字を目にして、リリィは思わず顔を上げる。フードの影から覗いた視線の先で、青年は水色の瞳を優しく細めて微笑んでいた。
青年はさらに、迷いのない手つきでサラサラとペンを走らせる。
ただ文字を書いているだけなのに、背筋の伸びた佇まいには、隠しきれない気品が満ちていた。
『私の名はレイナード。隣にいるのはペトラス。貴女の名前を教えてくれないか?』
「あ……私はリリィ、です。お役に立てて良かったです。今、お薬を出しますね」
リリィは事前に調合しておいた魔法薬を棚から取り出し、紙袋に包み込む。
「昨日はあの後、特に体調に変わりはありませんでしたか?」
リリィがそう言うと、レイナードは小さく首を横に振り、再び紙に文字を綴った。
『体調は大丈夫。でも飴が苦かった』
(あちゃ……やっぱり? 呪いを抑える薬草を詰め込みすぎちゃったのよね……)
紙に書かれた文字を見せながら、レイナードは困ったように眉を下げて少し拗ねたような顔をしていた。
その意外な子供っぽい反応に、リリィの緊張がふっと解ける。
「良薬は口に苦し、です。でも苦いより甘い方がいいですよね。……よし、改良しておきます!」
うーんと、顎に手を当てた瞬間、リリィの脳内で薬草のレシピが次々と湧いてくる。
無意識に瞳をきらきらと輝かせ、完全に自分の世界に入り込み始めた少女を、レイナードは静かに、ただ興味深そうな眼差しで見つめていた。
リリィは手元の包み紙のカサッという音にハッとなる。
「あ、すみません。薬草の事になると周りが見えなくなってしまうんです。はい、これ。今日の分です。お大事に」
薬を包んだ袋をレイナードに差し出すと、彼はそれを受け取り、何かを言いたげに口を小さく開いて、また閉じる。
そして残念そうな顔で微笑んだ。
「焦らないで、ゆっくり治していきましょう? 大丈夫。私がついています」
リリィがそう言うと、レイナードは小さく目を見開いて、とても嬉しそうに微笑んだ。
レイナードは少しだけ考え込むように視線を落とす。そして、小さく笑うとペンを走らせ、紙に一言だけ。
『先生』と書いた。
「え?」
レイナードは紙に視線を落としたまま、続けて長い指先でペンを踊らせる。
『よろしくお願いします』
彼が微笑みながら顔を上げる。薄い色の金髪が、さらさらと揺れた。
(……太陽草の花みたいな人だな)
太陽草は金色に咲く花で、見た目も華やかだが、ハーブティーにすると、品の良い香りがする薬草だ。リリィの好きなお茶でもある。
(苦い飴をちゃんと食べてくれるなんて、良い患者さんだわ。悪い人じゃないかも……)
貴族だからと警戒していたが、その気持ちが少しだけほぐれていくのを感じた。
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