第七章 クリスティアーナのピアノは
翌週、シモンがレイクス家を訪れた。魔法が十分に使えるようになったことで、彼は陸軍の士官候補に推薦された。結婚とタイミングを同じくして、訓練に加わることになったらしい。だから結婚式を急ぎたいのだと、レイクス家の人々に告げた。
「クリスティアーナ、コーデリア。僕の家で結婚式の衣装選びをしよう。いろんなドレスを用意させたから、二人とも試着をするといい」
「まあ、素敵!」
と声を上げたのは、コーデリアだった。自室から呼び出されたばかりのクリスティアーナはぼうっと聞いているだけだ。彼女の目はなぜか赤かったが、シモンはそれについて言及しようとはしなかった。
「聞いているのか? クリスティアーナ」
咎められ、クリスティアーナははっと顔を上げた。
「はい、失礼致しました」
コーデリアがふんと鼻を鳴らした。シモンは婚約者に寛大な笑みを向ける。
「君も嬉しいだろう」
「……はい」
「では、行くとしようか。コーデリア、君が前言っていた、天馬を借りてきたよ。君なら乗りこなせるだろう」
「あら! ほんと!? 嬉しい!」
はしゃぐ妹を尻目に、クリスティアーナはおずおずと申し出た。
「私は伺わなくてもよろしいでしょうか」
「何?」
問い返すシモンの声は鋭い。
「来たくないというのか?」
「今日は気分が優れないのです」
コーデリアが派手に噴き出した。
「気分が悪い、ですって? 働きもせず、学校にも行かず、お家でぶらぶらしているだけのお姉様が!」
シモンも母親も眉をひそめていた。
「クリス__母が君を呼んでいる。だから君にも来てもらわないと困る」
「ドレス選びに花嫁様がいないだなんて、聞いたこともないわ」
コーデリアが笑い声をたてた。
「その通りだ。婚約者としての最低限の務めは果たしてもらわないと」
クリスティアーナは、素直にうなずいた。もともと、聞き入れてもらえるはずはないと分かっていたのだ。
「わかりました」
コーデリアが追い打ちをかける。
「わがままを言ったことには謝ってくださらないの?」
「そうですよ、クリスティアーナ。妹に指摘されて、恥ずかしいこと」
クリスティアーナは、コーデリアやシモンに向かって頭を下げた。最近必ず、コーデリアはシモンの隣に座る。彼の婚約者はクリスティアーナのはずなのに。
「申し訳ありませんでした」
そう謝ると、ようやくシモンは優しく微笑んだ。
「分かってくれて嬉しいよ」
そして、来客用の肘掛け椅子から立ち上がり、コーデリアをエスコートした。クリスティアーナは一人で、彼らの後ろを歩く。
伯爵邸の庭園で、フィオラが待っていた。
「クリスティアーナ、来てくれて嬉しいわ」
彼女の言葉に、シモンが肩をすくめた。
「クリスなら、いつも来てるじゃないか」
「ええ、そうだったわね。最近は、コーデリア嬢、あなたも」
フィオラに視線を向けられ、コーデリアがぎこちなくお辞儀をした。
屋外のテーブルで、お茶の準備はできていた。椅子は三つ、当たり前のようにコーデリアとシモンが先に座った。
フィオラが眉を上げ、立ったままのクリスティアーナのために椅子を魔法で出現させた。腰かける時、クリスティアーナは密やかなささやきを背後で聞いた。
「ほら、やっぱり……」
「坊っちゃまはクリスティアーナ様の妹様を……」
クリスティアーナは、聞こえないふりをした。
ドレスは既に広間に運び込まれ、試着を待っているらしい。それを聞いたコーデリアがそわそわし始めたが、フィオラは落ち着いた顔でクリスティアーナに言った。
「ドレス選びの前に、クリスティアーナ。あなたのピアノが聴きたいわ。一曲聴かせてもらえないかしら」
ピアノと聞くと、マエストロとの別れを思い出し、クリスティアーナの胸は痛んだ。けれど、彼女は微笑み、席を立つ。
「承知しました」
コーデリアが不満そうに舌を鳴らした。小さな音だったので、フィオラやシモンには届かなかっただろう。
ツタや花に隠された重いカバーを上げ、鍵盤を見つめる。どんな曲を演奏するか、その選択はいつもクリスティアーナに委ねられていた。
今日は花嫁のドレスを選ぶ、めでたい日。明るく軽やかな曲を弾いてあげるのが良いだろう。けれど今、クリスティアーナの気持ちはひどく沈んでいる。とても長調を弾こうという気にはなれなかった。
ここでピアノを弾く時、どんな時でも、最初にクリスティアーナが思うことは一つ。シモンが幸せな気分になれるように。
心を空にしてクリスティアーナは鍵盤を叩いた。奏でたのは、どこか物悲しい、けれど荘厳な響きでもあるソナタだった。マエストロにおすすめされ、長いこと練習していたおかげで、楽譜がなくとも指は自在に動いた。
曲が終わった後、シモンが顔をしかめて言った。
「なんだか、陰気くさいな」
コーデリアもうなずく。ピアノ椅子から立ったクリスティアーナを、シモンが睨む。
「この曲、もう弾かないでくれ。耳障りだ」
「シモン!」
フィオラが、珍しく厳しい声を出した。
「およしなさい。私は素敵な演奏だと思いましたよ。きっとあなたの大切な曲なのね、クリスティアーナ」
フィオラに優しい眼差しを向けられ、クリスティアーナはうつむいた。
耳障り。シモンからそう言われたのは、初めてだ。以前は、魔法が戻ったのはクリスティアーナの音楽のおかげとまで言っていたのに。
マエストロは、クリスティアーナの音楽が誰かを救うと言った。けれど、実際はどうだ? 大切な婚約者に迷惑がられるのが関の山らしい。
「明るい曲であれば……耳障りではありませんか?」
問いかけた声は、震えていた。
シモンはコーデリアと視線を交わし、にやりと嫌な感じで笑った。
「まあ、まだマシってところかな。でも、別に毎日弾く必要はない。そう、気合い入れて演奏されると、こっちも疲れてしまうから」
「シモン様も私も、飽きたのよ」
コーデリアが言った。
「毎日毎日、ピアノばっかり聞かされて。耳障りとおっしゃったのは、そういうこと。魔法無しの分際で、出しゃばらないで」
パン、と固い音がコーデリアの頬で弾けた。シモンが息を呑む。彼女の頬をはたいたのは、フィオラだった。
「母上! 何を……」
「出しゃばるなと、姉君にそう言うのなら」
フィオラがゆっくりとコーデリアに言う。赤くなった手をもむ彼女に、召使いが冷たいハンカチを差し出した。
「あなたの方こそ、何故この家に連日押しかけるのかと問いたいわ。クリスティアーナの妹だからと今までは大目に見ていたけれど」
「母上、コーデリアは僕が招いたのです」
「知っています。あなたが義理の妹と不必要に仲良くしていると、我が家の召し使いたちの噂になっているから」
コーデリアとシモンは、顔を赤くした。二人を厳しく見据えていたフィオラは、不意に激しく咳き込んだ。
「奥様!」
召し使いに介抱され、フィオラがお茶の席を立つ。
「中でお休みください」
「そうさせてもらいましょう。……シモン、自分の婚約者が誰であるのか、今一度確認なさい」
言い残し、フィオラは屋敷の中に戻っていった。
「シモン様……」
恐る恐る声をかけると、シモンは冷たい目で振り向いた。
「いつの間に、母上をあそこまでたらし込んだのか。地味な顔をして、油断のならない女だな」
「わ、私は、何も……!」
その時、コーデリアの不機嫌な声があたりに響いた。
「私、もう帰りますわ」
「待ってくれ、コーデリア!」
「押しかけられて迷惑なのでしょう?」
「ちがう、それは……!」
「シモン様、お姉様。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
コーデリアはくるりと背を向け、歩き去った。彼女が鼻をすすりあげる音が聞こえてくる。
その翌日レイクス家を訪れたシモンは、母親のフィオラが重体で、話もできない状態だと報告した。
「君が興奮させたせいだ」
クリスティアーナに向けて、はっきりと彼はそう言った。




