第四章 婚約
今日もクリスティアーナは、伯爵邸へピアノを弾きに行く。
初めてフィオラやシモンの前でピアノを弾いたあの日、彼らはとても喜んでくれた。そしていつでも遊びに来て、ピアノを弾いてほしいと言われたのだ。クリスティアーナも、家族の目を気にすることなくピアノを弾けるのが嬉しかった。
毎日のようにクリスティアーナを迎えに来るシモンを見て、両親は喜んでいるようだった。
これはひょっとしたら、ひょっとするかもしれない__そう両親や、召し使いたちが噂しているらしい様子を遠巻きに眺めているのは、不思議なことに、あまり不愉快ではなかった。
コーデリアは当初こそ、姉と得体の知れない青年を馬鹿にしていたが、近頃はシモンに愛想よく挨拶をするようになり、クリスティアーナにさえ笑顔を向けた。
ある日、もう日課のように伯爵邸へピアノを弾きに来た時、シモンがふとクリスティアーナを誘った。
「少し、庭を散歩しないか。__二人きりで」
クリスティアーナの心臓がどきんと跳ねた。
「はい」
と答えた声は、少しピッチが高い。とりとめのない話をしながら、色とりどりの花が咲き乱れる庭を歩く。
「君に見せたいものがある」
そうシモンが言った。
「何でしょうか?」
クリスティアーナはわくわくする気持ちを抑え、シモンを見上げた。
シモンは、右手を顔の前にかざし、ぱっと開いた。手のひらから真っ青な小鳥が生まれ、美しくさえずりながら空へと飛んでいく。
「まあ……!」
驚くクリスティアーナのために、シモンは大きな花束を作り出し、差し出した。
「どうぞ。クリス」
「私に……?」
花束を胸に抱くと、こぼれる花びらと共にかぐわしい香りがあふれ出す。
「僕の魔力では、このようなものを作り出すなどとても望めなかった。……それなのに! 君のピアノを聴いてから、この手に、この髪に魔力が宿ったようなんだ」
シモンは、花を抱くクリスティアーナの前に跪いた。最上級の敬意を示す仕草に、クリスティアーナはたじろぐ。
「本当にありがとう。君は僕に、魔法をくれた」
クリスティアーナは、静かに首を振った。
「違いますわ、シモン様」
顔を上げて、と優しくシモンを促した。
「きっと、私のピアノは、ただのきっかけですわ。あなたはもともと、素晴らしい魔法使いだったのです」
クリスティアーナは微笑んだ。シモンの覚醒が、心から嬉しい。魔法が使えない苦しみも、悲しみも、誰よりも深く理解できるから。自分に優しくしてくれた彼には、そんな苦しみを味わってほしくはなかったから。
「……そうかな」
問いかけるシモンの声は、かすかに震えていた。立ち上がり、シモンは花束ごとクリスティアーナを抱きしめた。
力強く、けれど優しい腕の中で、クリスティアーナはぼうっとした。彼の体温が、鼓動が、信じられないほど伝わってくる。彼の魔法も感じ取ることができたら、どんなに良かっただろう。
シモンがささやく。
「その言葉……信じて、いいかな……!」
混じる嗚咽。周りをなき交わす彼の小鳥の声。二人を包み込む花の香り。全てが夢のように美しく、今ここにあるものなのに、どこか遠い。シモンに身を寄せ、クリスティアーナも泣いた。
もし彼女が魔法使いであったなら、この瞬間を宝石のように硬く、輝かしい形に固めていただろう。
シモン・バンクレイがクリスティアーナ・レイクスの子爵家に正式に婚約を申し入れたのは、それからまもなくのことだった。
クリスティアーナはバンクレイ伯爵やシモンの兄である次期当主のジョナサンとも顔を合わせ、シモンが彼らに魔法を披露する場にも同席した。家族に褒められ、シモンは幼い子供のように笑っていた。
ピアノのレッスンの日、クリスティアーナはマエストロに婚約を報告した。
「おお! おめでとう、クリスティアーナ」
マエストロは顔を綻ばせ、手を叩いた。
「お幸せにね」
「はい」
クリスティアーナははにかみ、マエストロにお礼を言った。
「マエストロのご指導のおかげです。私のピアノを聴いて……彼が、魔法を取り戻したと」
「そうだろうね」
マエストロは誇らしげにうなずいた。
「言ったでしょ、君のピアノは誰かを救うって。君自身の生きる道も、今まで練習を頑張ってきた過去の君が救ったんだよ」
「はい……!」
「さて、では、幸せいっぱいの花嫁さんの演奏を聴かせてもらいましょうか?」
「花嫁さん、って……まだまだ婚礼は先ですわ」
「じゃあ、今日はその前祝いってことで」
マエストロが、ピアノに譜面を置いた。
「気分は高揚していても、指は冷静にね。走るテンポで気持ちを表現するんじゃないよ。音色を高みに引き上げるんだよ」
マエストロの言葉を聴きながら、クリスティアーナは鍵盤に向き合った。
レッスンが終わり、マエストロはレイクス家の屋敷を出ようとした。
「マエストロ」
「はい?」
声をかけてきたのは、クリスティアーナの父親だった。その後ろに、彼女の妹もいる。魔法無しを見下しているらしいその妹とは、マエストロは会話を交わしたこともなかった。
父親は、固い表情で口を開いた。
「話があるのだが」




